ある施設で育てられた子供達。彼らは、臓器提供者になるために造られたクローン人間でした。ノーベル賞受賞作家が描き、映画やドラマ化でも話題となった本作が『わたしを離さないで』。 クローン人間というものが存在したら……という仮定に、あまりにもリアルな答えをつきつけます。そのリアルさゆえに心がヒリつきますが、そのヒリヒリするシビアなところが、魅力でもあるのです。
本作の主人公は、臓器提供者の介護をする介護人・キャシー。そんな彼女が、自らの過去を遡って語っていく物語です。
そもそも聞きなれない「介護人」という言葉が気になりますよね。この物語は、もしクローンを誕生させることができたら……という科学的な虚構のなかで組み立てられていきます。そしてそんな世界において、主人公のキャシーもクローン人間という設定がされています。
彼女や彼女の仲間たちの境遇や、課せられた役割が、徐々に徐々に明らかになる本作。スリリングな内容で話題を呼んだ作品です。
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
2008年08月22日
そんな話題作は、日本で2016年にドラマ化。舞台を日本に移し、主人公キャシーを「恭子」、ヘールシャムを「陽光学苑」などに置き換えて作品化されました。原作同様に、恭子が過去を遡って語るモノローグによって進行します。
このドラマは、キャストが豪華だったことでも話題となりました。陽光学苑の頃から友人であり続けたトミーやルースを「トモ」と「美和」という名前に変えて三浦春馬、水川あさみが演じ、成長した恭子の恋人となる浩介を井上芳雄が演じました。
2010年には、キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ主演、マーク・ロマネク監督でイギリスでも映画化され、公開されています。原作者のカズオ・イシグロ自身も製作総指揮として名を連ねているこの作品は、原作をより理解するためにも見ておきたい作品だといえるでしょう。
2014年には、日本において蜷川幸雄演出で舞台化。倉持裕が脚本を担当し、ドラマ同様に舞台は日本に移されました。主人公キャシーにあたる八尋を多部未華子が演じたことでも、話題となったようです。
どの作品も、原作の世界観を理解したうえで制作されているので、とても魅力的。原作を読んだだけでは気付けない何かに、映画やドラマ、舞台が気づかせてくれるかもしれませんね。
物語が展開していく1990年代末は、クローン人間を作り出そうという試みがなされていた頃。結局クローン人間は生み出されませんでしたが、世界初のクローン羊であるドリーは誕生し、実は秘密裏にクローン人間がいたのではないか……などともいわれていました。
ゆえに本作は実話ではないものの、まったく根拠のない物語だというわけではないのです。
しかも、2009年にクローン人間の誕生を成功させたというイタリアの婦人科医がいたり、現在ヒト・クローン技術の一歩手前ともいえる「胚性幹細胞(ES細胞)」の作成 に成功していたりすることを考えると、本作はまったくのフィクションだとはいえないのかもしれませんね。
そして、その「もしかして実話かも……」と思わせるリアリティーこそが、この物語の魅力となっているのです。
作者は、2017年に、ノーベル賞を受賞しました。その受賞理由は 「壮大な感情の力を持った小説をとおし、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」というものであり、彼の作品を知る者はみな、その受賞理由に深く頷いたといわれています。
しかも、その「壮大な感情の力を持った小説」とは『わたしを離さないで』だとするファンたちが多く、本作によって「幻想的感覚を打ち破られた」と考える人も多いのだとか。
- 著者
- カズオ イシグロ
- 出版日
カズオ・イシグロの作品は、違和感や虚しさ、馴染めない感じなどの感情を細やかに描くことが多く、読む者の心を物語へとひきずりこんでいきます。人間関係がうまくいかなくなっていくさまも、時間をかけてじっくりじわじわと描かれていくのです。
また、登場人物が過去の記憶をたどりながら分析しつつ回想していくという形式のことが多いので、物語がどこかずっとセピア色に感じられます。それらこそが、彼の作品の魅力なのです。
また海外を、特にイギリスを舞台としていることの多い作品なのに、そこはかとなく日本文学の雰囲気がただようのは、カズオ・イシグロが長崎県出身の日系イギリス人だからかもしれません。
読み進めていくうちに、翻訳された作品であるということを忘れてしまう空気感。そこもまた、彼の作品の魅力ですね。
あらすじでも触れたように、「介護人」というのは臓器提供者の身の回りの世話や心のケアをする人のことです。そして「提供者」は、その名のとおり臓器を提供する者のこと。
この臓器提供者たちは、臓器提供者になるべくして生まれてきた人間たち……ではなく、臓器提供を目的に作り出されたクローンたち。「介護人」も、いつ「提供者」になるかはわからないという運命にあります。
簡単にいえば、クローン人間たちの本体が健康であれば臓器を提供する必要はなく、ずっと「介護人」のままだということなのです。クローン人間たちの本体が体のどこかを悪くすれば、クローン人間である彼らは、当然その体の一部を差し出す「提供者」とならなければいけないのでした。
しかし、クローン人間たちは、そんなことをまったく知らされていません。ヘールシャムという、世の中から隔絶された施設の中で、彼らは一般的な子どもたちのように育ちます。
ただし、まったく普通の子どもたちと同じというわけではありません。多くの制限をうけ、犠牲の精神などを教え込まれながら育つのです。しかしヘールシャムの中しか知らない子どもたちにとっては、それが「普通」になってしまうのでした。
そんな施設で、主人公のルースやその親友キャシーは、いくつかの違和感を抱きながらも、順応しながら育っていきます。しかし、彼女たちと同じ年のトミーだけは、その違和感を本能的に呑み込めず、ヘールシャムの教育に批判的なルーシー先生の影響を受けたり、大きな癇癪を起こしたりしながら成長していくのです。
そして、いつしか親しくなった3人は、閉塞感を覚えつつも、ヘールシャムの掟から大きくはみ出すことなく、そこを卒業するのでした。
卒業後の彼らは、そこを出たからといって自由になるわけではありません。今度は、彼らのような青年たちばかりが住まうことになるコテージという場所で、共同生活をすることになるのです。コテージは比較的自由が認められているため、クローンではない人々と接し、自らが「提供者」となりうるという運命についても理解し始めます。
理解した時の苦しみと、「猶予」という言葉にすがる彼らの姿についつい感情移入し、ヘールシャムという施設の創設者や、そこにいた教師陣に怒りの思いを抱いてしまうでしょう。しかし、この物語はそんな単純な、善対悪の物語ではないのも特徴なのです。
マダム。
それは、この物語のなかで、登場回数やセリフは多くないのに圧倒的な存在感を放つ存在です。
凛として美しい彼女は、時折ヘールシャムに来ては、子どもたちの作った絵画や詩、造形物を買い上げていきます。
感情をまったく見せない彼女の正体は、「クローン人間」の人権を保護しようという運動を続けてきた女性でした。彼女はヘールシャムの掟を作り、ヘールシャムを世間から守ってきた人物だったのです。
おそらく、彼女の中にも「クローン人間」という得体のしれないものへの複雑な感情と、彼らがあまりにも普通の子どもであるからこその庇護したいという思いがあったのでしょう。
まったく感情を見せず、ヘールシャムの子どもたちを怖れていると噂されていた彼女ですが、一度だけ感情をむき出しにしたことがあります。それはルースが幼いころに、お気に入りのカセットテープを聞いて「ベイビー、ベイビー、私を離さないで」と歌っている場面に出くわした時でした。
その時ルースは、なかなか子どもを授からなかった女性がようやく自分の子どもを産み落とした、という状況を想像して、歌っていました。
それを見たマダムは、涙を流すのです。
なぜ涙を流したのでしょうか。彼女は最後まで、その答えをはっきりと言いません。しかし、クローン人間である子どもたちに「幸せな時期を」と望んだ彼女は、決して冷たい人ではなかったのであろうとわかるシーンといえるでしょう。
このシーンがあることで、マダムという人物の造詣が深まり、クローン人間であるキャシーたちの「敵」だとはみなせなくなってしまうのです。
先で上げた「猶予」というのは、ヘールシャム出身者の間でまことしやかにささやかれていた、「愛し合う男女の愛が本物ならば、臓器提供に猶予が認められる」というもの。この猶予の噂は、ヘールシャムで性教育がおこなわれた際、「しっかり相手を選びなさい」と告げられたことに由来しています。
彼らは本能的に、新しく子どもを作ると本体の人間たちを超えられる、と考えているのかもしれません。クローン人間とクローン人間の間に生まれた子どもは、人間の想像も予期も超えた存在です。しかも当然、臓器を提供すべき相手は存在しません。
自分たちはクローン人間としての生をまっとうせざるを得なくても、自分の子孫はそうでない「新しい種」となりうるかもしれない。
そんなことを本能的に、もしくは恣意的に気づいていたのかもしれません。
ヘールシャムは閉鎖的で規律が厳しいうえに、自分たちが臓器提供者にならざるを得ないとわかっていたなら、なぜ彼らが逃げ出さないのか、という疑問は当然のものでしょう。その答えは、トミーが述べています。
何をいつ教えるかって、全部計算されてたんじゃないかな。
(『わたしを離さないで』より引用)
つまりヘールシャムでは、子どもたちが真実に気づいて退廃的になったり、自分の肉体を大切にしなかったり、逃げ出したりという事件が起きないように、徐々に徐々に「クローン人間である」ということを教えていくスタイルだったのではないか……ということです。
彼らに創作活動させたのは、彼らにも普通の人間同様に「感情」や「想像力」、「創造力」などが備わっているということを、対外的にアピールするためでした。
一見「謎」だと感じられることも、ヘールシャムの経営者や教育者、ひいては「ヘールシャムの子どもたちから臓器を提供される立場の人間」、またはその関係者になったつもりで見つめ直すと、案外に理解できるものばかりなのかもしれません。
実はこの物語は、ルース、キャシー、トミーの三角関係の恋物語という側面も持っています。
どんな特殊な局面においても、人は恋愛をしてしまうということを痛感させられるでしょう。さらに、その恋物語が存在することで、本作のラストがより辛いものへと変貌するのです。
逆境のなかにあっても「人らしく」全力で生きてきたルースやトミー、そしてキャシー。彼らの人生がそんなものであっていいのか……という憤りを感じない人は、きっといないでしょう。
彼らは皆、他のクローン人間たちと同様に、自分たちの本体に臓器を提供する運命です。誰がまず臓器を提供することになるのか、また誰が誰を介護するのか。恋心を抱きあったもの同士や、恋のライバル同士であったものが、どちらかの死をみとらなければならないなんて、とても歪です。
しかも、その死が自然なものでなく、生まれた時から彼らに課せられていた死なのだとしたら……。彼らが大いに心を乱した後、徐々に受け入れて諦め始めるまでの繊細な心理描写は必読です!
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
2008年08月22日
「わたしを離さないで」という言葉は、一体誰が、誰に向けたものなのでしょうか。この物語を恋愛物語として見れば、ルース、キャシー、トミーのそれぞれが、それぞれの恋の相手へと向けたものだと考えられるかもしれません。
でも、これはそもそも、ルースが子どもの頃に宝物としていたカセットテープのなかの1曲のタイトル。このタイトルの意味は、そのことを看過しては語れません。ルースはこの曲を聞いて、ずっと子宝に恵まれなかったのに、ようやく出産できた女性の姿を想像していました。
この物語を総括するタイトルとしてこの曲が選ばれているのは、「子どもを産んで、新しい種を残す」ということをなし得なかったルースたちの、悲痛な叫びだからかもしれませんね。