1969年に出版された新田次郎の『ある町の高い煙突』。ある企業の公害と、それに苦しむ住民。それに対して若者たちが立ち上がり、企業と交渉して自分たちの故郷を取り戻そうと奮闘する様子が描かれます。 そんな本作が、出版から約50年の時を経て映画化されることが決定しました! この記事では、『ある町の高い煙突』のストーリーや映画の情報について紹介していきます。
本作は小説家・新田次郎によって1969年に出版されました。
当時、日本は急速な発展を遂げていたものの、それによる公害問題が各地で顕在化。学校でも習うような水俣病やイタイイタイ病も、その1つです。各地で公害の被害が訴えられ、国民の関心も多く向けられていました。
そんななかで出版されたのが、この『ある町の高い煙突』です。ある町では鉱山で銅が採掘、そして精製されてました。本格的に工場が稼働し始めると、そこかしこに煙が蔓延し始めます。その煙は、やがて住民の健康だけでなく、農作物や山の木々まで浸食していきます。これが「煙害」です。
- 著者
- 新田 次郎
- 出版日
- 2018-03-09
この煙害に苦しめられた町の若者の1人は、前途有望な道があったのにも関わらず、企業と戦うことを選びました。企業の担当者や町の人々も巻き込み、やがて社長をも動かして、世界一の大煙突を作る……というのが、本作のあらすじです。
実話をもとに描かれたこの小説は、50年の時を経て映画化されることが決定しました。公開は2019年6月。主演は舞台などで活躍する井手麻渡(いで あさと)。ほかの出演者には吉川晃司や仲代達矢など、大御所の名前も見られます。
本作のモデルとなった日立鉱山のある茨城県日立市では、この『ある町の高い煙突』の映画化を応援する会などが設立され、また地元の中学生には本を配布し、感想文やキャッチコピーを募集しました。さらに、エキストラを住民からオーディションで決定するなど、かなり地元の人々も協力して作り上げた映画なのです。
さて、では元になった日立鉱山の大煙突とは、どういったものだったのでしょうか?
舞台となった日立市は、もともと足尾銅山の公害で、江戸時代に苦しめられた地域でした。ですので、公害に対しては、もともと敏感な地域であったことに間違いはないでしょう。
戦争が終わり、日本が急速に発展するにつれて、各地で銅の発掘と精製がおこなわれました。日立鉱山ももれなくどんどん業績を伸ばし、また改良した精製方法で銅の精錬量を増やしていったのです。それに伴って、有害な煙はどんどん町を蝕みます。
硫黄や亜硫酸ガスを含む煙は、近くの町だけでなく、近隣の町へどんどん広がっていきました。周辺の農作物、ソバ、タバコ、クワ、そして各種の野菜や果物類にまで広がったのです。それだけでなく、山林の被害は農作物の被害地域を上回る、1町8村にまで広がりました。こうなっては、住民は無視できません。
煙害が激化するにつれて、住民からの抗議も強くなっていきました。企業も亜硫酸ガスの濃度を薄くしたり、遠くへ煙を輩出する煙道を作ったりと対応しますが、一向に解決しません。
そこで大煙突を提言したのが、当時の最高経営責任者である久原房之助でした。当時の常識からは考えられない発想であったため、周囲は猛反対。しかし検証に検証を重ね、大煙突は建設が決まったのでした。コンクリートの強度、施工方法など困難を極めましたが、数年かかって大煙突は完成したのです。
- 著者
- 新田 次郎
- 出版日
- 1978-02-01
作者は、1912年、長野県生まれの作家。
無線電信講習所本科を卒業して気象台に勤めますが、1942年ごろから作家活動を始めます。最初は原稿用紙7枚ほどの文章でしたが、これは作家としての決意表明の文章となっています。
また、妻・ていも作家デビューし、戦争後の混乱でなかなか仕事のなかった一家にとっては、大きな助けになったようです。彼は勤めながらも小説を書き続け、1956年には直木賞を受賞。1966年に、やっと文筆業1本でやっていくことになります。
代表作は映画化された『八甲田山死の彷徨』や『聖職の碑』など。気象台に勤めていた経験をしっかり生かした、緻密に計算された設定を活かしたものは、他の追随を許しません。
さて、物語の登場人物を紹介しましょう。
主人公は関根三郎。郷士であった名家に生まれ、旧制一高に合格し、夢だった外交官を目指して都会に出るはずでした。しかし、そんなとき日立銅山の煙害によって祖父・兵馬が心労で倒れます。苦悩を間近に見た彼は、自分の故郷と祖父を犯した、煙と鉱山と戦うことを決心します。
企業と住民との調整役が、加屋淳平。 日立鉱山の庶務係で、補償に関してはかなり手厚く人々へ配慮する人物です。しかし、彼には煙害そのものをどうにかする力はありませんでした。
そして、その娘の加屋千穂。企業側の娘という対立する立場にありますが、三郎と淡い恋に落ちます。しかし、煙害は彼女すらも蝕んでいくのです。
鉱山の経営責任者が、木原吉之助。若干36歳で日立鉱山を開業し、人からは怪物と恐れられるほど。本来は、企業も、働く人も、住民も幸せにしたいと思って尽力する人物です。しかし、煙害によって半ば挫折してしまいます。
物語は、煙害をなくそうと奮闘する三郎を中心に進んでいきます。それぞれの思惑が交差し、単純に企業と住民という対立だけではいられなくなっていくのです。
日立鉱山も、大きな煙突の話も、実話をもとにしたもの。もちろん、主人公の関根三郎にもモデルがいました。その名は、関右馬允(せき うまのじょう)。
彼は映画と同じように、企業側との交渉の矢面に立ちました。問題はあくまで企業と住民と主張し、第3者が入ってくるのを避け、かならず2者間での交渉をして問題解決に挑んだのです。1911年には煙害交渉委員会が村で設立されましたが、それも当時弱冠23歳の彼が務めたのでした。
彼が交渉上手だったのは、日立鉱山に操業停止は求めずに、損害賠償を請求したこと。また、政治的解決はおこなわず、直接交渉で解決を求めました。この意見に企業側も意見が合致して、順調に進みます。協力しながら被害状況を確認し、また日立鉱山側から農業技術指導を受けるなど、平和的解決に導いた第一人者なのです。
住民は農業ができなければ生きていけませんが、同時に鉱山も日本にとって、地元にとっても大事な産業です。共存共栄できる解決法を探した彼は、リーダーとしてまさに適任だったといえるでしょう。
しかし、長野県出身の新田が、なぜこの煙突を題材に物語を書いたのでしょうか?それには、ある男の存在がありました。
それが、2019年現在、公明党所属の参議院議員・山口那津男氏の父親である山口秀男氏の存在です。
秀男は、戦後日立市の天気相談所の所長として赴任しました。そこには、世界一と称された大煙突。なぜ、こんな大煙突が、こんなところにできたのか……?それを調べるうちに、数十年前に住民が一丸となって煙害の解決に動いた歴史を知ったのです。
その話を聞かせたのが、気象庁職員だったころの後輩である新田次郎でした。すでに小説を書き始めていた彼に、大煙突の話を書いたほうがいいと勧めたのです。そうして出来上がった力作が、本作なのですね。
さて、このお話の結末はどうなっていくのでしょうか。
もちろん実話をもとにしていますので、大煙突は建つことになりますが、そこに至るまでにはさまざまなエピソードが入ってきます。立派だった祖父が倒れたことの悔しさ。千穂との淡い恋や、婚約者との行方。
もちろん、煙突を建てるまでは順風満帆ではいきません。加屋や木原など協力的な人物はもちろんいてこその物語ですが、日立鉱山のなかには、ことなかれ主義で自分たちのことしか考えない者もいます。
しかし、そんななかで住民の方も、三郎の説得によって徐々に心を開いていくのです。
- 著者
- 新田 次郎
- 出版日
- 2018-03-09
当時の時代背景、時代が変わっていくにつれて「変わっていかなければいけない」価値観、企業としての責任……。「大煙突」ができるまでに、皆の心情がどう変わっていくかも必見です。
また、企業はこのような問題があったときにどう動けばいいか?どのように持っていくべきか?そのようなことも考えさせられるでしょう。
企業CSR(利益だけでなく、社会的貢献度も考えて行動すること)の原点ともいえるこの小説。自分を会社側に置き換えても、住民側に置き換えても、考えさせられる内容です。
いかがだったでしょうか。ぜひ、映画も小説も楽しんでみてください。気象庁に勤めていただけある、気象事象の細かな計算や描写も必見ですよ。