倉橋由美子の作品はフランス文学の影響の強い、毒と風刺に満ちた箱庭のような世界が特徴です。彼女独特の強い魅力があります。今回は、数ある倉橋由美子の作品の中から、5作品を厳選しておすすめしたいと思います。
倉橋由美子は1960年に明治大学在学中に同校の学長賞に応募した小説『パルタイ』が入選し、同作で芥川賞候補ともなった才媛です。しかし、大学生といっても倉橋はこの時25歳。彼女の経歴を読めば、そのデビューまで一風変わった人生をたどっていることがわかります。
まず、現役時代は精神科医を目指して公立医学部を受験するも失敗。京都女子大の文学部に籍を置きながら仮面浪人で医学部を再度受験し、またもや失敗。日本女子衛生短期大学歯科衛生士コースに入学し、卒業。その後バイトをしながら、明治大学文学部文学科仏文学専攻に入学し、在学中に小説家としての道を歩み始めます。
大江健三郎や石原慎太郎と並び称せられるようになり、小説家として順調に歩んでいくかと思えば、1962年に父を亡くしたショックでしばらく小説が書けなくなり、逃げるように旅に出ることが多くなります。1964年に結婚後、夫同伴で1966年アメリカ留学。翌年帰国し、帰国後は順調に小説を発表し続ける……と倉橋の経歴を見ていけば、長いモラトリアムにいたかのような印象を受けます。
そんな倉橋の織りなす世界観は、倉橋の裕福な生い立ちもあってか、貴族的意識のような華麗さと退廃を兼ね備え、ブラックなユーモアにあふれています。
「わたし」と「あなた」のやりとりが作り出す、硬質にして歪んだ世界は、倉橋が在学中に盛んだった共産主義革命運動に対する批判精神に満ちています。
ある日「わたし」は、「あなた」からパルタイに入る決心はもうついたかと問われます。「わたし」はパルタイに関する手続きをこっけいだと思いながらも「あなた」を愛しているがゆえにパルタイの組織に入ろうとするのですが、「あなた」はパルタイに入るためには「経歴書」をきちんと書き上げ、パルタイが承認しうる客観的な「必然性」が必要だと言うのです。
パルタイの組織になじめないものを感じながらも、未知の物に対するような好奇心で「わたし」はパルタイに入りこんでいき、「わたし」は好奇心の代償を支払うことになります。
- 著者
- 倉橋 由美子
- 出版日
- 1978-02-01
あらすじを追っていけば、淡々とした物語なのですが、倉橋由美子の魅力というのは、その装飾と隠喩に満ちた文章に寄るところが大きいように思います。特に初期は先行していたというフランス文学の影響か、そんなレトリックが楽しく、まるで海外の小説を読んでいるようです。
全集巻末の作者による「作品ノート」によると、「例えば一方に観念的な左翼を嗤いたい気持があり、他方にカフカ風の話をカミュの文体で書いてみれば面白いだろうという興味があり」とこの作品を書くに至った気持ちを語っており、カフカとカミュを意識して書いた作品だと納得します。
作家のデビュー作には、その作家の全てが詰まっているという説もあります。倉橋由美子の原点であるこの『パルタイ』は、これから倉橋由美子を知ろうとする人には、ぜひ読んでいただきたいです。
青年Kが愛した少女は、交通事故によって記憶を失ってしまいます。未紀を見舞うKは、彼女に一冊のノートを渡されます。そこには記憶を失う前の未紀と「パパ」と呼ばれる年上の男性との、愛の記録が記されていたのでした。
倉橋由美子が自らの書く「最後の少女小説」と言わしめた『聖少女』は、倉橋ならではの妖しく美しい文章でタブーを真っ向から書き切った傑作です。直木賞作家の桜庭一樹は『私の男』を『聖少女』を意識して書いたと解説で述べていますが、倉橋由美子の代表作をあげるとすれば、この『聖少女』だと思います。ぜひ実際に読んでみて、その面白さを感じてみてください。
タイトルからそこはかとなく淫靡な雰囲気がただよってきますが、当たらずとも遠からず。未紀というコケティッシュでつかみ所のない少女を愛した青年Kは、交通事故で記憶をなくした未紀の抱える秘密を知ってしまいます。
- 著者
- 倉橋 由美子
- 出版日
- 1981-09-25
「パパ」と呼ばれる歯科医と、未紀との愛はノートの中に生々しく官能的に描かれ、誰かに見せるための小説のようですらあります。禁忌の愛を抱える未紀と、実の姉を愛した過去を持つ青年K。言葉にすると陳腐な関係は、倉橋由美子の構築する言葉と世界の中で美しく昇華され、精神的王族の所行として神聖化されています。
倉橋は作中で未紀に「すすんで罪を犯すことは、聖女になるみちかもしれませんわ」「聖女は神につかえるマゾヒストですもの」と言わせています。罪を犯し、聖女になった少女は、神をなくした後はどうなってしまうのでしょうか? 倉橋は聖性をなくした聖女の顛末も書き切っています。
これが倉橋が自らの父を亡くした後に書かれた小説だと思うと、いっそう作品を深読みしたくなってしまいます。
夜が更けて犬も夫君も子供たちも寝静まった頃、桂子さんは化粧を直して人に会う用意をする……。このような場面から始まる『夢の通い路』は、夢なのか現実なのかわからない「あちらの世界」で、桂子さんが様々な歴史上、物語上の人物と出会う物語です。
西行、小野小町、式子内親王、六条御息所、エルゼベート・バートリー、かぐや姫……いずれも文学上、歴史上に名を残した人物との交歓は。彼らの昔の愛欲語りに及ぶにつれて、桂子さんも話に巻き込まれ、ともに官能を味わいます。
ともすると、ただのエロにしかならない場面も倉橋由美子独特の装飾に満ちた文体で、幻想的で美しい情景として描かれています。短編連作ですので、読みやすく、手軽に倉橋由美子を味わいたい方に大変おすすめの小説です。
- 著者
- 倉橋 由美子
- 出版日
前期のフランス文学の影響を強く受けている作品と対照的に、この作品をはじめとした後期の作品は、日本の古典や文学、能などの影響を受けているように感じられます。
西行や小野小町の逸話はもとより、式子内親王と定家葛の逸話、菊慈童などは能の演目にあり、源氏物語や春琴抄、西脇順三郎の詩も作中に登場します。
倉橋由美子はその時興味のあるものが強く作中に反映されるのが顕著に思えるのですが、そう思って作品を読むと、何を読んできたのか、何が好きなのかが透けて見えるようで作者を知る上でも大変興味深いです。
この主人公の桂子さんは、過去の倉橋の作品である『夢の浮き橋』を初めとした桂子さんシリーズと呼ばれる『城の中の城』『シュンポシオン』などの作品達の主人公でもあります。どれも単品でも読める作品ですので、気軽に手にとってみてはいかがでしょうか。
本棚を見ればその人がわかるといいますが、この倉橋由美子の本にまつわるエッセイは、1996年から1999年まで雑誌「楽」で連載された『偏愛図書館』と、倉橋由美子の最晩年といえる2004年から2005年まで文芸誌「群像」で連載された『偏愛文学館』を一冊にまとめたものです。
夏目漱石の『夢十夜』の紹介から始まるこの倉橋由美子が愛読書を語っていくエッセイは、小気味良い歯に衣着せぬ文章で描かれています。そしてどこか上から目線な語り口調に、倉橋由美子らしさを感じてしまい、「本当に私の好みに合うものはわずかしかありません」「したがって大多数のものは私にとってどうでもいい駄作、凡作ということになります」と言い切る倉橋節に感動すら覚えてしまいます。
- 著者
- 倉橋 由美子
- 出版日
- 2008-07-15
なかなかここまではっきり言える人は、今の時代はまずいないでしょう。現代だったら炎上の憂き目にあっているかもしれないなあ、と時の流れを感じてしまいました。
倉橋由美子の作品は、デビュー作の『パルタイ』からも解るとおり、読んだものの影響を多分にうけたり、気に入った作品に触発されて出来る事が多いようで、この『偏愛文学館』を読めば倉橋の作品のエッセンスや創作の舞台裏を垣間見られるのではないでしょうか。
上げられている本は、専攻が仏文学であったということもあり、カフカやカミュなどは想定の範囲内ですが、オースティンの『高慢と偏見』や、岡本綺堂の『半七捕物帳』などがあるのを見ると、意外に話せる人なのかも知れない、思ったよりロマンチストなのかもしれない、と、あれこ
れ妄想が膨らんでしまいます。
そして、古典や文学の中に宮部みゆきの『火車』や杉浦日向子の『百物語』を見つけて親近感を感じてしまったりと、毒と棘の多いユーモアにあふれる作品からは予想出来ない倉橋由美子の意外な素顔を見てしまったようで、非常に興味深いエッセイです。
倉橋由美子は、この『ぼくを探しに』を初めとして、いくつもの児童書を翻訳しています。
なかでもシルヴァスタイン作の『ぼくを探しに』は、何かが足りないと感じる「ぼく」が自分のかけらを探しに旅に出る話です。しかし、自分のかけらを見つけたからといって旅が終わり、めでたしめでたしとなるとは限りません。
最後の「ぼく」の選択は、思いがけなくもあり、人生経験を積んだ大人こそ深く胸に感じるものがあるのではないでしょうか。
- 著者
- シェル・シルヴァスタイン
- 出版日
- 1979-04-12
倉橋由美子は、訳者後書きで「いつまでも自分のmissinng pieceを追いつづける、というよりその何かが『ない』という観念をもちつづけることが生きることのすべてであるような人間は芸術家であったり駄目な人間であったりして、とにかく特殊な人間に限られる」と述べています。
その後書きを読むと原題が『The Missinng Piece』であり、序文に「だめな人と だめでない人に」とあることにも納得。倉橋由美子が作家として本格的に活動するまで紆余曲折の多い人生をおくってきたことを考えると、まるで倉橋自身の事を語っているように感じられます。
倉橋は果たして自分のかけらを追いつづけ、見つけることが出来たのでしょうか。そして、これ
を読んで自分はどうであるのか、そんな事に思いをはせるのも、大人の読書家の楽しみ方の一つであるかもしれません。
倉橋由美子は、女流文学賞や泉鏡花文学賞をとり、芥川賞候補にもなったほどの非常に実力のある作家だと思うのですが、一時並び称されたほどの大江健三郎達と比べると、いまいち知名度が低いように思われます。ぜひこの機会に倉橋由美子の作品にふれていただき、その毒と風刺に満ちた官能的に美しい世界を味わってみてください。