1964年に筑摩書房が創設した「太宰治賞」。純文学系の公募新人賞として多くの作家を輩出してきました。今回は歴代受賞作品のなかから、絶対にはずせない名作や、新進気鋭の作家の作品を厳選して紹介します。
筑摩書房と東京都の三鷹市が共同主催する「太宰治賞」。1964年に始まり、1978年からは一時中断されていましたが、太宰治没後50年にあたる1958年に復活しています。
公募の新人賞で、応募指定枚数は400字詰め原稿用紙50枚から300枚と自由度が高いのが特徴です。人間を深く描いた純文学系の作品が受賞する傾向にあります。
締め切りは毎年12月10日。受賞作は翌年5月にPR誌「ちくま」および筑摩書房ホームページで発表されます。
選考委員は荒川洋治、奥泉光、中島京子、津村記久子ら4人の作家陣。受賞者には正賞として記念品が、副賞として100万円が授与されます。
これまで吉村昭や加賀乙彦、宮尾登美子、宮本輝、福本武久などの人気作家を輩出している、注目の賞だといえるでしょう。
中学生の桃花と小夜というリトルガールズの視点と、生徒から「ピンクばばあ」と呼ばれる家庭科教師、大崎雅子の視点で描かれる物語です。
自分のなかにある「好き」を大切にする個性的な子どもと大人が登場し、それぞれが進むべき道を見出していく爽やかな一冊になっています。
- 著者
- 錦見 映理子
- 出版日
- 2018-11-09
2018年に「太宰治賞」を受賞した錦見映理子の作品です。現代歌人でもある錦見ならではの、研ぎ澄まされた感性と言語感覚を楽しめるでしょう。
55歳の大崎先生は、ピンクの服ばかり着るちょっと変わった家庭科教師。嘲笑と悪口の的になっていましたが、新任美術教師の猿渡からその美を見出され、絵のモデルを頼まれます。大崎は沢渡の恋人ルイ子に嫉妬されますが、彫刻家のルイ子もまた大崎の美に目覚めてしまい、奇妙な三角関係に発展していくのです。
主人公の桃花は優しい両親に大切に育てられてきましたが、母親には父親以外の恋人がいて、桃花はその恋人の子どもです。学校では、自分に恋心を抱くクラスメイトの小夜に戸惑っていました。
また同じく桃花に想いを寄せる幼なじみの勇輝は、彼女にプレゼントするために始めた手芸にはまってしまい、サッカー部をやめて手芸に没入していきます。
大崎先生、沢渡、ルイ子の三角関係、桃花、小夜、勇輝の三角関係、そして桃花の父親、母親、母親の恋人という三角関係が描かれ、それぞれに悩みながらも自分を信じて歩み続ける姿が魅力だといえるでしょう。瑞々しい少女たちの姿と、かつて少女だった大崎先生の堂々と生きる姿に勇気をもらえる群像劇です。
主人公の少女あみ子は、優しい父親と、書道教室を開いている妊娠中の継母、そして一緒に登下校してくれる兄と一緒に暮らしています。
あみ子は純粋無垢な少女でしたが、思ったことをすぐ言動に表してしまう癖がありました。そのせいで周囲は引っかき回され、家族の歯車が狂っていきます。
「悪意のない善人」が無自覚のまま人を傷つけ、ついには家族崩壊まで引き起こしてしまう過程を描いた異色の作品です。
- 著者
- 今村 夏子
- 出版日
- 2014-06-10
2010年に「太宰治賞」を受賞した今村夏子の作品です。受賞時のタイトルは「あたらしい娘」でしたが、刊行時に『こちらあみ子』に改題されました。本作で今村は「三島由紀夫賞」も受賞し、2019年には『むらさきのスカートの女』で「芥川賞」も受賞しています。
あみ子は風呂に入らず、給食を手で食べ、裸足で教室を歩き回る風変わりな女の子。明記はされていませんが知的・発達障害であろう彼女は、ふだん人間が心のなかに秘めて決して口外しないようなことも平気で発してしまうのです。
あみ子は、両親のことや、同級生ののり君のことが大好き。けれどその純粋な想いは普通の人にとっては暴力でしかなく、のり君には「殺す」とまで言われてしまいます。
あみ子のせいで家庭は崩壊し、どんどん孤独で不幸な境遇に陥っていくのですが、本人は自身の不幸にまったく気づかずに大声で笑い続けています。その強さが痛ましくもあり、恐ろしくもあり、どこか羨ましくもあり……読む者の心をざわつかせる一冊です。
大学4年生のホリガイは、勉強にもアルバイトにも精を出し、公務員試験にも合格したしっかり者。
しかし友人のオカノからは「地獄」と呼ばれるほど汚れた下宿に住み、女性らしい立ち振る舞いは一切できないがさつな面がある処女です。
そんな彼女が公務員になろうとした理由は、意外なものでした。
- 著者
- 津村 記久子
- 出版日
- 2009-05-11
2005年に「太宰治賞」を受賞した津村記久子の作品です。受賞時は「マンイーター」というタイトルでした。津村はその後、2009年に『ポトスライムの舟』で「芥川賞」を受賞したほか、数々の新人賞や文学賞を受賞する実力派作家となりました。
ホリガイは幼い頃に、子どもが行方不明になる事件が多いことを知り、児童福祉担当の公務員になると決めました。弱者を放置しておくことができず、困っている人がいればすぐに人助けに走ります。
ホリガイは、自分もまた弱者だということを知っています。暴力、レイプ、自傷……自分も弱いけれど、あなたを見守っているし、逃げていいんだと、メッセージを送り続けているのです。
改題されたタイトルは、弱者から弱者へ贈るエールのひとつ。読み進むうちにホリガイがどんどん格好いい女に思えてきて、読後は生きていく勇気をもらえる一冊です。
物語の舞台は、まだ戦争の傷跡が残る昭和30年頃の大阪。
安治川の河口でうどん屋を営む両親のもとで暮らす8歳の信雄と、廓舟(くるわぶね)で暮らす10歳の銀子・8歳の喜一との交流を描いています。
- 著者
- 宮本 輝
- 出版日
- 1994-11-30
「泥の河」は、1977年に筑摩書房の文芸誌「文芸展望」に掲載され、1978年に「太宰治賞」を受賞した宮本輝の作品です。
主人公の信雄は、働き者で仲のよい両親に恵まれ、貧乏ながらも不自由のない生活を送っています。戦後のベビーブームに生まれた、いわゆる団塊の世代のひとりです。
一方の銀子と喜一は、廓舟で身売りをする母親とともに暮らしていて、人目を避けるため舟の係留場所を転々としています。臭気が立ち上る泥の河にぽつんと浮かぶ小舟は、人々が忘れてしまいたい終戦直後の時代を思い起こさせる厄介な存在でした。
信雄は両親から廓舟の住人と付き合うことを禁じられていましたが、自分よりもどこか大人っぽく時に暴力的になる喜一に惹かれ、年上の銀子に淡い恋心を抱きます。しかし、やがてベニヤ板1枚隔てた舟内の妖しい世界に驚愕し、喜一と銀子の苦境を悟るのです。
高度経済成長期に入る前の混沌とした日本の風景が鮮やかに浮かぶ宮本の描写力は、さすがの一言。信雄が戸惑いながらも喜一たちに優しさを示す姿と、ラストの哀しい別れが重なって、読後に深い余韻を残してくれるでしょう。
ちなみにもう一遍収録されている「芥川賞」を受賞した「蛍川」もまた、戦後復興を遂げた時代の物語になっています。
時は大正時代。高知の下町で生まれ育った喜和は、一目惚れした渡世人あがりの岩伍に15歳で嫁ぎました。
岩伍は芸妓の紹介業を営み始め、義侠心の強さゆえに貧しい女たちに親身に接しますが、家庭を顧みることはありません。惚れた一念で夫に尽くす喜和ですが、夫婦関係の溝は深まり、破局への道を進みます。
- 著者
- 宮尾 登美子
- 出版日
- 1996-10-30
1973年に「太宰治賞」を受賞した宮尾登美子の作品です。10年の歳月をかけて1972年に自費出版したものだそうで、受賞後にヒットした宮尾の出世作だといえるでしょう。
喜和は、女たちの血と涙で成り立つ夫の商売に賛同できないまま、肺病の長男と奔放な次男を抱えて孤立奮闘します。一方の岩伍は、妾との間に生まれた綾子を引き取って、喜和に育てさせるようになりました。なんとこの綾子のモデルが、作者の宮尾自身だそうです。
喜和は外面のよい岩伍のつじつま合わせに利用され、息子2人にも気持ちをくみ取ってもらえず、ひたすら己を殺して堪え忍びます。そんな彼女を理解して寄り添ってくれたのは妾の子の綾子だけで、喜和もまた母親としての愛情を彼女に注ぐようになるのです。美しい文章から漂ってくる当時の四国の暮らしと、語り手である喜和の心情が染み入ってくるでしょう。
宮尾は自分の出生を恥じており、『櫂』を書き上げるまでに長い年月を要しました。「身を削るようにして書いた」と語り、その後続編に着手して自伝小説4部作を完成させています。
いずれの作品も、デビュー作もしくは初期作品とは思えない傑作ぞろいです。「芥川賞」や「直木賞」に比べて華々しさには欠けるものの、読書家たちからの注目度が抜群に高い「太宰治賞」。ぜひ皆さんも楽しんでください。