本作は、東京大学教授・山本博文の代表作です。日本近世史を専攻する彼が、箱根神社所蔵の一級史料をもとに検証しています。 「お金」から見る忠臣蔵は、私たちの知らない一面を持っていて……?歴史好きを納得させる考察だけでなく、歴史が苦手な人も経済的な切り口から見る彼らの事情はついつい引き込まれてしまうこと間違いなしの内容です。 2019年11月には、本作を原作とした映画の公開も予定されており、あらためて注目が集まっています。この記事ではそんな『「忠臣蔵」の決算書』の4つの見所を解説!ネタバレも含みますのでご注意ください。
赤穂浪士(あこうろうし)を率いた、元赤穂藩の筆頭家老・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)。忠臣蔵の主要人物である彼が残した、討ち入り計画全体の「決算書」ともいえる史料の存在……。
本作は、討ち入りまでに使用された経費・総額697両(およそ8千万円強)の個別な使用用途と、その金額が記された史料から見えてくる「忠臣蔵の経済的な側面」にスポットを当てています。
赤穂浪士の新たな一面や当時の生活感覚、彼らの武士道のあり方など、知られざる忠臣蔵の舞台裏……ちょっとのぞいてみたいとは思いませんか?
討ち入り直前に、亡き君主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の正室・瑤泉院(ようぜんいん)へと提出された、決算書をもとに読み解いていきます。
- 著者
- 山本博文
- 出版日
- 2012-11-01
新潮社から出版されている学術書ではありますが、金銭事情という下世話な側面から見る忠臣蔵は、とてもリアルで人間味が感じられるでしょう。
箱根神社所蔵の一級史料『預置候金銀請払帳』(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)をもとに、現代の金銭感覚に換算しつつ解説しています。
また、2019年11月22日には『決算!忠臣蔵』というタイトルで、映画作品も公開予定です。
脚本・監督は、中村義洋(なかむらよしひろ)、キャストは大石内蔵助役を俳優・堤真一(つつみしんいち)、勘定方・矢頭長助(やとうちょうすけ)役は、お笑い芸人の岡村隆史(おかむらたかし)が演じると発表されています。
赤穂藩は、現在の兵庫県赤穂市です。関西出身の2人が、関西弁で演じる赤穂浪士は、どんなキャラクターを見せてくれるのでしょうか。
そして原作が物語ではないだけに、本作で明かされていく「決算の内容」が、どのようなストーリーとなって立ち上がってくるのか……公開が楽しみですね。
山本博文(やまもとひろふみ)は、1957年2月13日生まれの62歳。東京大学大学院の情報学環教授と、同大学の資料編纂所(しりょうへんさんじょ)教授を兼任しており、日本近世史を専攻しています。
『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』『ペリー来航歴史を動かした男たち』『武士の人事評価』など、多数の著書を刊行しています。
- 著者
- 山本 博文
- 出版日
1992年に『江戸お留守居役の日記』で、第40回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
そのほかにも、人気作家の宮部みゆき、逢坂剛(おうさかごう)の、江戸にまつわる疑問に答える対談『江戸学講座』が有名です。大奥の裏話、江戸の就職戦争、日常生活、地震などの災害対策といった、江戸についての豆知識を、気軽に楽しみながら学ぶことができます。
著書の多くは、江戸時代の大名・武士に関するものですが、とても読みやすく執筆されています。意外性や面白味を感じる事柄を教えてくれるものがほとんどで、知らなかった江戸のことを身近に感じさせてくれるでしょう。
「忠臣蔵」ときいて、すぐに思い浮かぶのは、浅野内匠頭が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に発した名台詞……「この間の遺恨、憶えているか」ではないでしょうか。しかし、じつはこの台詞の遺恨=動機は諸説あり、明確にこれと確定されていないそうです。
忠臣蔵の元ネタとなった赤穂事件をざっくり解説すると、以下の通りです。
元禄14(1701)年3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭が、江戸城中で高家筆頭の吉良上野介に斬りかかるという事件が起こります。当時の武士たちの感覚からすれば、「抜刀して斬りかかった=喧嘩」と判断されても致し方ない事態です。
しかし、両者に同等の罰が与えられる「喧嘩両成敗法」は適応されず、即日切腹を命じられた内匠頭に対して、上野介は無罪放免となりました。
そうなると、元赤穂藩の藩士たちは、主君に対する忠義を果たさずには、武士の面目が立ちません。最終的に、旧臣47名が元禄15(1702)年12月14日に討ち入りを果たすまでの一連の出来事が、赤穂事件と呼ばれています。
では、この遺恨とは何だったのでしょうか。上野介は、秋田藩家老の日記『岡本元朝日記』にて「横柄」な人物とされており、対する内匠頭は『土芥寇習記』内に、「利発だが女好きで、政治は部下に任せている」といった内容が記されています。
どちらもひと癖あるように見える2人の間に、何があったのか……?現在でも多くの史料が読み解かれ、遺恨の謎について議論が交わされているのです。
本作では、これら一連の事件を追いつつ、遺恨についての推察として、なぜ喧嘩両成敗法が適応されなかったのか、当事者2人の両極端な裁定が残した新たな禍根、当時の武士の感覚から見る世間の見解をわかりやすく解説しています。
これらの要素がからみ合い、「討ち入り」という結果につながっていく過程が、『預置候金銀請払帳』を通じることで、「知られざる真実」として垣間見ることができるのです。
忠臣蔵で有名な話のひとつといえば、内蔵助が上野介や幕府を油断させるために、遊郭で遊蕩(ゆうとう、遊びふけること)する話が挙げられます。
お安くなかったであろう遊興費。事実だとすると、経費で落ちたのかが気になるところ……。結論から言えば、『預置候金銀請払帳』には、この遊興費は記載されていません。
もしこれらが事実だとしたら、内蔵助のポケットマネーで賄われたことになります。作者の別著『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』にて、年収は最大で1億2、000万ほど(少なくとも7、000万ほど)とされる大石家。
先の見えない浪人生活のなかで、派手に散財するのは想像するだけでも、リアルな怖さがあります。内蔵助の心境は、一体どのようなものだったのでしょうか。
『預置候金銀請払帳』に記載されている項目は、最初に入金が4件あり、その後は113件の出金が続きます。項目の末尾には、ほとんど「手形あり」と記されているのですが、手形とは現代でいう「領収書」のこと。
お金を管理していた内蔵助が、手形=領収書をもとに、ある程度まとめて記帳していたとされています。
先んじて内蔵助が支給したとされるもの、後日手形をもとに精算したと推察されるもの、また他史料によると、出金の順序が前後しているものもあるようです。
残念ながら、記載のもとになった「実際の手形」は、現存していないとのことですが、出金を経費で落とすために領収書を切ってもらうお侍様……。少しイメージとは違いますが、どことなく江戸の武士たちを身近に感じさせてくれます。
赤穂事件の閉幕は、言わずと知れた吉良邸への討ち入りです。しかし、その決行日は内匠頭の切腹から1年9ヶ月後の、元禄15年12月14日。
『預置候金銀請払帳』の記録からみると、11月にはほぼ軍資金が底を尽き、討ち入り道具の購入などで出た不足金は、内蔵助が私費で賄ったとされ、『預置候金銀請払帳』には記載されていません。
それほどに困窮してまで時間をかけた理由とは、何だったのでしょうか。そのひとつは、内蔵助が浅野家の再興を諦めていなかったからとされています。
『預置候金銀請払帳』で見ると、内蔵助は、当初は預かり金を討ち入りの軍資金として使うことを考えてはいなかったのではないか、と推察されるのです。
根拠とされているのは、最初期の出費が「仏事費」「政治工作費」となっている点です。内蔵助が真っ先にしたことは、亡主君の菩提を弔うことで、その次に、縁のある僧正らに浅野家再興の嘆願をしてもらうために、寄進などに使ったとされています。
仏事費で使用した金額は、なんと1,200万円相当。預かった資金の7分の1を使った計算になります。さらに政治工作費におよそ65両を使用して、軍資金全体から見ると、仏事費約20%、政治工作費約10%を占める計算です。
重い謹慎処分を受けていた、内匠頭の弟・浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)が、正式に広島藩へ預けられ、お家再興の可能性がほぼ無くなった元禄15年7月18日まで、討ち入りに逸る(はやる)江戸急進派を抑え続けていた内蔵助たち。
しかし、この決定を受けてわずか10日後の同年7月28日、討ち入りへの決意が固められるのでした。
1年と9ヶ月の間の、軍資金の使用用途の変遷は、旧家臣たちの意見対立、脱盟、決起など、刻々と変化していく「時の流れ」を教えてくれます。
有名すぎる結末は、ご存じの通りです。しかし、そこにたどり着くまでの過程を「お金」という視点から見ていく試みは、新鮮な読みごたえがあります。読了後には、47名の元赤穂浪士が少し身近に感じられることでしょう。
補足史料・参考文献は、『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』(中経出版)、『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』(小学館)。どちらも山本博文の著書なので、本作とあわせて読むのもおすすめです。