人が罪を犯したとき、罪の重さに応じて刑が言い渡されます。刑務所は外界から隔絶されており、刑期を終えて出所した受刑者の中には社会に馴染めない者も多くいるそうです。 『身分帳』は、そのうちのひとり、長い刑期を終えて出所した、1人の男の生きる姿を描いた作品です。人柄や犯罪歴、面会者などが書かれている、いわば、その人の歴史が書いてあるリスト。そこには何が記してあるのでしょうか? 映画化されて注目が集まる本作の見所をご紹介いたします。ネタバレもあるのでご注意ください。
『身分帳』は、佐木隆三が書いた小説作品です。
モデルである田村明義が、自分のことを小説にしてほしいと、1986年に自身の身分帳を作者に送付したことから書かれた作品です。文庫には小説の主人公である山川一のその後が書かれた「行路病死人」も収録されています。
発売されたのは1990年6月ですが、物語は1986年2月、極寒の旭川刑務所から主人公が出所したところから始まります。
山川は、1973年4月、東京葛飾区でキャバレーの店長をしていました。ホステスの引き抜きトラブルから喧嘩に発展し、20代の男性を殺害。罪に問われ、1974年から懲役10年の刑を言い渡されました。
それから刑務所内での違反やトラブルを重ねて刑期が延び、旭川刑務所に移送されてから8年。ようやく刑期満了のため、出所を迎えることになりました。
しかし山川は天涯孤独の身の上。妻とも逮捕された時に別れ、身寄りはありません。東京の弁護士が身元引受人となったことで、新生活を送るため上京します。
- 著者
- 佐木 隆三
- 出版日
タイトルにもある「身分帳」とは、収容者の家族関係や経歴、入所時の態度や行動が記載されている書類のことです。特に問題行動が無ければ薄いようですが、山川のようにトラブルが多い収容者となると、厚みが膨大になってしまうのだとか。人生のほとんどを刑務所で過ごしてきた山川にとっては、自分の歴史に等しい書類です。
本作は社会生活を送るようになった山川と、身分帳や手紙から過去の山川とをリンクさせて描いていきます。
また、2021年、西川美和監督により映画化されることが発表されました。約30年前の内容を現代に沿って再検証し、主人公がもし今の日本に出所したら、という仮定で仕上げるそう。このアレンジは、作品をどう変化させるのでしょうか?
佐木隆三は、本名小先良三。1937年に広島県出身の両親のもと、朝鮮で生まれました。日本へ帰国後は各地を転々とし、1956年に高校を卒業後、就職しましたが、労働組合や安保闘争に参加します。
1964年には退職し、作家活動に専念します。小説だけでなく法廷ルポタージュなど幅広く手掛け、数多くの作品を残しました。2015年に下咽頭がんのため死去しています。
- 著者
- 佐木 隆三
- 出版日
- 2009-11-10
佐木隆三作品は、小説からノンフィクションと幅広いのが特徴。実在した事件を扱った小説作品も多く、直木賞受賞作『復讐するは我にあり』は実在の事件が題材となっています。
また、ノンフィクション作品でも世間を騒がせた大きな事件を多数書いており、オウム真理教関連や、埼玉連続幼女誘拐殺人事件などを佐木隆三視点で調査。犯人や事件の背景などが、ち密に描かれました。
本作は主人公の山川を中心に、さまざまな人物が登場します。
まず、山川一は物語開始当初44歳。殺人事件を起こしたことで実刑判決を言い渡され、刑務所で長い時を過ごしました。生育環境からか、小さなころから悪行ばかりをしてきた人間ですが、根は純粋で武骨、生真面目なところがあり、神経質で潔癖症な面もあります。
真面目で融通が利かないからこそ行動が行き過ぎたというような面もあり、「悪い人」というイメージとは少々違う人物像ではないでしょうか。ただ 精神面が不安定で激高しやすく、そのせいでトラブルが発生してしまうのです。
そんな危うい面もある山川ですが、竹を割ったような性格で、裏表はありません。そのためか、刑務所上がりだからと敬遠されることはなく、さまざまな人間が彼の生活を手助けします。
そんな天涯孤独な山川の身元引受人となった弁護士は、さまざまな人の身元引受人になるのが趣味という風変わりな人物。出所したばかりの彼の自立した生活を支援し、励まします。
そしてアパートで生活をするようになった山川を慕うのが、同じアパートに住む若者たち。トイレ掃除のトラブルから芽生えた尊敬と交流は、主人公の心を温かくしました。煙草の支払いで揉めたことから仲良くなったスーパーの店主は、世間話をする仲に。山川の良き相談相手としての付き合いが続きます。
他にも福祉事務所のケースワーカーや、元妻の久美子、兄弟分のマチャアキこと下稲葉雅明などが登場。それぞれが山川と関わり、彼に影響を与えていきます。
本作は山川一の人生を描いた物語です。
モデルである田村義明は、福岡県福岡市で生まれたとされていますが、出生届が出されておらず明らかではありません。
芸者をしていた母の千代と、海軍大佐の間に生まれた私生児で、父親は戦死してしまったのだとか。 そして終戦後の混乱期に母が彼を孤児院に預けたことで離別してしまいます。
その後アメリカ軍の将校宅に養子として引き取られ、ジミー田村と呼ばれて神戸で育ちました。しかし本国へ帰る際に本籍地が不明だったことで正式な養子縁組が組めず、そこでも家族と別れることになります。その後別の家庭に引き取られるもうまくいかず、だんだんと非行行動を起こすように。
そして12歳で非行少年として京都の宇治初等少年院に収容。問題行動を起こし続けて各地の少年院を転々とします。
一度仮退院が認められたものの、取り消されて奈良の特別少年院へ強制収容。九州へ移送後18歳で満期出所するものの、暴力団の構成員になってしまいます。
その後、京都市内で起こした喧嘩により大阪刑務所で服役。20歳で満期出所したものの、暴力団へのかかわりからは抜け出せず、再び事件を起こして刑務所へ。
その後も出所しては刑務所に戻ることを繰り返し、33歳で殺害事件を起こし、懲役10年を言い渡されて服役します。その間刑務所内でトラブルを度々起こしたために刑期が延び、44歳で出所することになりました。
人生の大半を刑務所で過ごしたという経歴は嘘偽りではありません。そういう時代だったという言葉では済まされませんが、経歴を追うと山川自身の問題だけではなく、社会にも原因があったのではと思わずにはいられません。
山川が自身の幼少の頃からの出来事を細かく語ることはありませんが、各地を転々としたという経歴のなかに、1人で生きてきた男のやり場のない感情と衝動が感じられます。
ニュースでは、逮捕から裁判が行われ、刑が確定するところまでしか伝えられていません。刑務所のシステムがどうなっているのか、出所後どのような生活を送っているのか、知らない人は多いでしょう。
本作では山川の日常をとおし、出所した人間がどのような生活を送っていくかを教えてくれます。
たとえば刑務所内でも定められた法律があること。トラブルが発生すると罪に応じて刑が言い渡されるのです。山川は稀代のトラブルメーカーだったため、方々で問題を起こし続けました。中には罪に問われるものもあり、裁判が行われて刑期が延びています。
出所の手続きや、その後の生活についても読んでいるとやはり知らないことが多い、と思わされるでしょう。
山川は弁護士がいろいろと支援してくれていますが、社会に馴染むのは一苦労。浦島太郎になったようだという言葉が冗談ではない状況を想像すると、最長で8年を刑務所で過ごした彼の様子から、地面が無くなるような不安さが伝染してきます。
アパートがマンションへ建て替えられるのをきっかけに、山川は東京から自分のルーツである福岡へ行くことに。そこで『身分帳』の物語は幕を下ろしました。
文庫版には山川のその後を描いた『行路病死人』が収録されており、山川一こと田村義明が、福岡でどのような人生を送ったのか、作者の佐木隆三とどんなやりとりをしたかが描かれています。
- 著者
- 佐木 隆三
- 出版日
本編のなかでも危うい行動の多かった山川は健在で、精神が不安定になっては方々で問題を起こすことを繰り返している様子でした。しかし迷惑ではあるけれど、心底から憎まれているわけでもない。そんな山川の不思議な人柄が垣間見られます。
出所後の山川に関わる人々は、犯罪者だと認めたうえで、ごく普通の付き合いをしていました。罪を犯したことを許容し、擁護するわけではありませんが、一個人としてその人と向き合うことで、見えてくるものもあるのではないか、そう考えさせられる結末です。
物語はその後の彼の生活が描かれます。淡々と進む物語ですが、ひとりの男の人生の重みと、彼を取り巻く環境に考えさせられるところの多い本作。その結末からあなたは何を感じるでしょうか?
山川一という人物の一生を描いた本作。純真で根は真面目、危うい性質の山川の人柄に、徐々にひかれていくでしょう。読み終えた時、身近な人が亡くなったような喪失感を味わうはず。
映画では現代が舞台となる様子。平成、令和を生きる山川がどのように表現されるのか、映画の公開を楽しみに待ちましょう。