歌舞伎に携わってきた経験を活かし、江戸風俗を描くことが多い松井今朝子。その世界を知らなくてもその場にいるようなリアリティを感じさせる作品が多いです。そんな松井今朝子のおすすめ6作品をご紹介します。
松井今朝子は1953年、京都・祇園で生まれ、聖母学院中学高等学校を経て早稲田大学文学部演劇学科を卒業し、同大学大学院文学研究科演劇学修士課程を修了しました。
卒業後は松竹株式会社に入社し、歌舞伎の企画制作に携わり、退社後はフリーとなって歌舞伎の脚色、演出、評論を手がけるようになりました。
そんな1997年『東洲しゃらくさし』で小説家としてデビュー。以降、時代小説大賞、直木賞を受賞しています。歌舞伎に携わってきた者ならではの歌舞伎に関するリアルな知識や目に浮かぶような江戸の風景は彼女ならではのものです。
寛政の改革が終わり、江戸の町にやっと活気が戻ってきた頃。上方の人気歌舞伎作者・並木五兵衛は、鳴り物入りで江戸に呼ばれました。その前に大道具の彩色方の彦三が、江戸の様子を五兵衛に伝えるため一足先に向かいました。彼の仕事は五兵衛の江戸での手助けと、江戸芝居がどんなものかを前もって報せること。
- 著者
- 松井 今朝子
- 出版日
- 2011-12-06
報せを待ちわびる五兵衛のもとに届いたものは、「東洲斎」の雅号を付した江戸の大立者を描いた似顔絵でした。そこに描かれていたのは五兵衛の旧知の役者でした。
タイトルや表紙イラストからわかるとおり、東洲斎写楽の物語です。ですが、「東洲斎写楽」そのままの雅号は出てきません。そうすることによって、いまだに正体のわからない謎の絵師・写楽のミステリアスさが感じられます。
それでいて正体探しがメインというより、絵のモデル側にスポットが当たっています。ミステリアスな描き手の広げる絵画の世界に飲み込まれたモデルたちという描き方が新鮮です。喜多川歌麿、十返舎一九、滝沢馬琴、葛飾北斎なども登場する江戸文化の華やかなスターたち。彼らを写楽が描くと……。
また、当時の芸能についての描写が素晴らしく、江戸と大坂の大衆文化の違いも描かれていて、さすが芸能の世界に詳しい作家の手によるものだなと圧倒させられてしまうことでしょう。活気ある江戸の町そのもののように、賑やかで魅力的な1作です。
浪人の子として生まれ、下積みの苦労を重ねて、千両役者にまで上りつめた江戸時代の人気歌舞伎俳優・初代中村仲蔵を描いた小説です。
仲蔵は立役、敵役、女形のほか、所作事を得意とした役者だったようで、俳名を秀鶴としていました。屋号は栄屋、堺屋。落語の人情噺『中村仲蔵』の主人公でもあります。
- 著者
- 松井 今朝子
- 出版日
- 2001-02-15
当時、中村座、森田座と並ぶ芝居小屋の市村座が潰れた代わりに作られた桐座。タイトルになっている『仲蔵狂乱』は、そこでの初の顔見せで、仲蔵が踊った狂言「重重人重小町桜」から名付けられています。
この演目一番目の所作事「狂乱雲井袖」での仲蔵が評判を呼んだそうで「仲蔵狂乱」という名称で後世に長く伝わることになりました。
このあたりの知識を知ってから読むと、より仲蔵の人生を感慨深く読めるのではないでしょうか。歌舞伎に興味がなくとも、悪声だった門閥外から苦労や挫折を乗り越えて、大看板となっていく姿に感動できると思います。その背景を知れば知るほど、のめり込んでいく。これは歌舞伎に造形の深い松井今朝子だからこそできた引き込ませ方です。主人公に感情移入しなが、努力や工夫で這い上がることができると希望が持てる作品です。
講武所通いの旗本の次男坊の立場を捨て、芝居の立作者に弟子入りした久保田宗八郎は、維新によって幕府が崩れゆくのを見て、新しい時代への希望ではなく、捨てたはずの「武士」としての魂が目覚め、妙な焦燥を覚えはじめます……。
- 著者
- 松井 今朝子
- 出版日
- 2004-02-03
「あどれさん」は、フランス語で「若者たち」という意味なので、タイトルは「幕末の若者たち」となるわけですが、未来に明るい展望を持っている姿を描いた者ではありません。維新によって消されてしまう時代を生きた若者の苦悩や切なさが描かれているのです。
捨てたはずのものがほんとうになくなってしまうとわかったときの宗八郎の叫びが、なくなってしまったものが舞台の上にあると気づいたときの涙が胸に響きます。
失われていくものへの愛惜と古いものを壊そうとしてもほんとうに大切なものは残るんだと伝えてくれる作品。ぜひ彼らの懸命さをとおしてそんな普遍的なテーマを感じてみませんか。
身請けが決まった遊女・葛城が突然失踪し、その謎を突き止めるために、ある男が当時の彼女をとりまいていた廓の関係者たちに話を聞いて回ります。葛城はなぜ失踪したのか。どんな事件を起こしたのか。そして、そもそも証言を聞いている男は誰なのか。
- 著者
- 松井 今朝子
- 出版日
この三つの謎を絡めながら、各章は証言者が一方的に語るという独白形式をとっています。三つの謎が他者という少し歪んだレンズを通して見えてきます。
事件の追求ばかりでなく、葛城の人となりや人間関係、吉原の様子や特殊なシステムなども語られていくので、なんの知識もなくても充分理解していくことができる実に巧みな構成です。花街の言葉も出てきますし、まさに吉原の「手引」という作品です。
新吉原遊郭での、二人の花魁の生きざまを描いた物語です。
二人は容姿も性格も違いますが、甲乙つけがたい魅力の女性。「小夜衣(さよぎぬ)」は、頼りなさ気な風貌でありながら、聡明で人を惹きつけずにはいられないしたたかさがあり、当代随一の花魁です。「胡蝶(こちょう)」は、活発で、男勝りの性格。花魁としての売り上げではなかなか小夜衣に勝てず、悔しい思いもしています。
題名にあるように一年の季節の彩りと共に、歳月も流れていきます。幼いころから遊女として育てられ、逃れられない「苦界」に生きながらも、男性客とのやり取りやそこで生まれた恋を通じて、成熟した女へと成長していく姿を描いた作品です。
- 著者
- 松井 今朝子
- 出版日
- 2013-06-11
小夜衣が、まだデビュー前で床慣れしていない自分の気後れする様子から、客が去ってしまいそうになるのを、自分の辛さは抑えつつ微笑みを作って客を引き止めます。
「私が笑いんすに、主は笑いんせんのか」(『吉原十二月』より引用)
花魁としての意地が、ひしひしと感じる場面です。
二人が花開いたのも、互いをよきライバルとして負けられない気持ちもあったからこそ。最後に幸せをつかむのはどちらか、目が離せません。
仕事に恋にパワフルな女性の生き方に、あなたもきっと力づけられるでしょう。
文化六年元日の夜、十一代目中村勘三郎が劇場主を務める江戸最大の芝居小屋・中村座が炎上し、焼け跡にあった衣裳用の行李から正体不明の老人の絞殺死体が発見されます。
北町奉行所の同心・笹岡平左衛門と同心見習の薗部理市郎が下手人捜しに乗り出したところ、また次の殺人が起こり……。
- 著者
- 松井 今朝子
- 出版日
タイトルは、世阿弥の『風姿花伝』の中の一節「この道に至らんと思はん者は、非道を行ずべからず」から取られているのだそうです。「なにか一つの道を極めようとする者は、ほかの道に行こうとしてはならない」という意味なのだとか。
まさにこの一節が生かされた時代ミステリーだと思います。華やかな芝居の世界。でも、そこにいるのは仲の悪い兄弟、戯作者、金主など、怪しい人間たちばかりで美しいとは言い切れません。殺人事件の犯人はいったい誰なのか、疑わしい人物ばかりの展開に、疑惑が膨らんでいきます。
深い人間描写と人間関係の機微、江戸時代の中村座、江戸時代の風俗……。描写の素晴らしさでも、見知らぬ異世界へ引き込むパワーを持った作品です。江戸時代へタイムスリップした気分で読んでみてはいかがですか。
松井今朝子の描く歌舞伎、江戸の風景はほんとうにリアリティがあって、引き込まれるのです。時代小説に興味がなくともミステリー仕立てのものが多いので謎解き感覚で充分楽しめますよ。