娘と私の時間【小塚舞子】

娘と私の時間【小塚舞子】

更新:2021.11.29

娘が一歳になった。あっという間だったけれど、とてつもなく長かった。時間の流れは必ずしも一定ではないのかもしれない。大幅に置いて行かれていかれることもあれば、一か月くらいは平気でカレンダーを追い越していることもあった。歩く前は、見通しが悪く険しい道のりが永遠に続くように感じられたのに、いざ出発してみると三歩で目的地に着いてしまったようだった。いや、そもそも目的地とはどこなのか、いつなのか・・・と考え始めると、また気が遠くなってくる。

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“感動”のタイミングはいつ?

とても濃い一年だったのに、振り返ろうとすると思い出せないことばかりだ。娘が退院し、いつのまにか寝返りが打てるようになって、首が座って腰が座って。つかまり立ちをしたと思ったらつたい歩きを始めて、一人で立てるようになった。風邪を引いて、離乳食が始まって、それが二回になって三回になって・・・

こんな風に成長の記録を大ざっぱに並べることはできても、それがいつ起こったことなのか、その時系列が合っているのかはほとんどわからなくなってしまっている。母子手帳には成長の記録を細かく記すところがあるのだけれど、さて書こうかと重い腰を上げた時にはいつ首が座ったのかなんて覚えていない。携帯のカメラロールから何となく首座りたてホヤホヤな感じの写真を探してその日付を書き込む。

今、目の前にいる彼女は当たり前に首が座っていて、それが全てなのだ。成長に伴う感動は常にあっても、日々上塗りされていくので少し前の感動に浸っている暇なんてない。のんびり過去を振り返っていると、彼女はスタスタと前を歩いて行ってしまう。そういえば、さっきの大ざっぱな振り返りには『ズリバイ』と『ハイハイ』が抜けていた。

ズリバイができたときも、ハイハイのときも確かに感動したはずだった。でも私はそれを、もっとわかりやすい種類のものだと思っていた。

明るい部屋の中。家族で赤ちゃんを囲みながら『○○ちゃ~ん!』と名前を呼んだり、好きなおもちゃで釣ったりして、初めてのハイハイの瞬間を待ち構える。ママは軽くお化粧して、膝下丈のスカートにきれいな色のカーディガン。パパの髪はきちんと整えられ、毛玉の無いセーターを着て、手にはもちろんビデオカメラ。赤ちゃんは最初きょとんとした表情で不思議そうに皆を見ていたのだけれど、次第に表情が明るくなり、周りの声援に応えて一歩、また一歩とゆっくりハイハイを始める。赤ちゃんの大きな成長にパパはビデオを撮ることをすっかり忘れ、手を叩いて涙ぐみ、そんなパパを見たママはパパに寄り添い二人は手を取り合って喜ぶ。

・・・みたいなワンシーンはビデオカメラか幼児教育のCMの中だけらしい。

実際は『なんか、ズリバイっぽいことしているよね。これがそうなのかな?』や、『ハイハイっぽい感じになってきたね』というような曖昧な成長から始まる。それが徐々に本格的になってきて、いつのまにかちゃんとできるようになっているので、感動するポイントの見極めが難しい。これがズリバイかと気付いた時にはポイントを逃してしまっている。

それがわかりやすそうである寝返りの瞬間も、私はお風呂に入っていて見逃した。初めて何かをつかまずに立ったのも、友人に「立ってる!」と言われて知った。公園でレジャーシートを敷いてその上で遊んでいる時、娘は友人親子と遊ぶのに夢中だったので、私は私でのんびり景色を見ていると、後ろでは興奮した娘が立っていたのだ。友人の声に気付いて振り返った時には尻餅をつく瞬間だった。

注意深く見守っていれば、感動の瞬間に立ち会えたのかもしれないが、お風呂にも入りたいし、公園の緑を見て癒されもしたい。ごはんを作ったり食べたりもしなければいけない。それが生活だ。CMの中の家族は運がよかった。しかしそれだって赤ちゃんが空気を読んで、さも今ハイハイできるようになりましたよというような顔でたどたどしい動きを見せているだけで、本当は昨日からできていたかもしれない。ずっと見ているなんて不可能だ。

おそろしいスピードで“今”が流れていく

娘は、どんどん先へ行ってしまう。昨日と同じだという日は一日もない。一日どころか数時間、いや昼寝をする前とした後のたった一時間ほどでも成長している気がする。娘を見て毎日のように「あれ?こんなに大きかったっけ?」と驚く。

保育器の中でニャアニャア子猫のような声で泣いていたのが一年前だなんてとても信じられない。私が一年で成長したことなんてシワの数が増えたくらいで、一年前の写真と比べても、何かちょっと老けたよね程度の違いしかない。(ちょっとだといいけど)見た目も中身も退化する一方だ。(物忘れとか)

自分のことはさておき、もちろん成長は嬉しい。しかしあっという間に赤ちゃんじゃなくなってしまうのが何ともせつなく、寂しい気持ちになることがある。ずっと見ていたいし、見ていなければいけないのだけれど、そうはいかないのが世の常だ。娘の“今”を記憶に残しておきたいのに、おそろしいスピードで“今”が更新されていく。

時間は常に流れている。娘の成長にしても自分の退化にしても、なんらかの変化を感じる度に、それをすごく意識するようになった。こうして意識している今もどんどん流れているのだ。

意識すると、何だか少し焦ってしまう。それに「今は今しかない」のだからもっと大切にしないといけないなと背筋が伸びる。しかしじゃあ何をすればいいのかは、まるで何も浮かばない。何も浮かばない自分にまた焦る。成長の瞬間を見られなかったことを悔やんだりしてクヨクヨやり始める。そうしているうちに娘が起き出して、オムツを替えたりミルクをあげたり、また早送りで時間が流れ出す。

外を流れている時間は一定だけれど、ヒトの心に流れる時間は一定じゃないのだと思う。速くなったり、ゆっくりになったりを繰り返しながら、でも間違いないのは確実に流れているということだ。娘は成長していく。私は退化する。それが止められないのなら、せめて心に流れる時間はゆっくりにしたい。そうできれば、それは私にとっての「成長」なのかもしれない。

時間の流れを感じられる本

著者
佐藤 正午
出版日
2019-10-05

月のように生まれ変わっていく女と、彼女に出会う男たちの物語。好きな人にもう一度会いたいという気持ちは、常識を打ち破る力を持っているのかもしれません。「生まれ変わり」というテーマは現実離れしたものですが、それによって翻弄される人々の姿は何だかとてもリアル。もし娘が誰かの生まれ変わりだったら・・・と考えずにはいられませんでした。

時間の流れを冒険しているような気分で楽しめる作品なのですが、これを読むと外の世界の時間は倍速以上のスピードで過ぎ去っていきます。それくらい夢中になれる作品は久しぶり。家の中を移動するにも片手に持ってしまう一冊でした。

著者
小川 糸
出版日
2019-10-08

余命を告げられた主人公の雫は、瀬戸内の島にあるホスピスで人生の最後を過ごすことを決めます。そこでは毎週日曜日に、入居者たちがもう一度食べたいおやつをリクエストして皆で食べる「おやつの時間」があります。人生の最後をどう迎えるのか。命の時間に限りがあることをどう受け入れるのか。島に流れる穏やかな時間と、優しく正直な味がしそうなおやつと食事が、それを優しく教えてくれます。

流れる時間を、というより『今の自分の心』を大切にしたくなりました。世界中の喜びを集めてきたような物語です。

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