芥川賞は数ある賞の中でも知名度が高く、メディアで大きく取り上げられます。作家としてはその後の成功に生かされる事が多い、名誉ある賞です。本レビューでは受賞作家の作品から、2000年代に受賞した5つの作品をご紹介します。
芥川賞は芥川龍之介賞の略で「純文学」を書いた「新人」に与えられる賞です。作品の長さは短編から中編の小説が対象になります。「小説」ではなく「作者自身」が受賞対象になるのが大きな特徴です。副賞で100万円、正賞で懐中時計が贈られます。
「純文学」とは「多くの人に読んでもらう小説」というよりも「独自のやり方で書かれた気持ちのこもった芸術作品」を指し、執筆するテーマに作者自身の考えや思いを込めて芸術的表現で作品に落とし込みます。
対して「多くの人に読んでもらう小説」を大衆小説といい、このテーマを軸に中堅作家が書いた作品は、直木三十五賞、いわゆる直木賞の受賞対象です。
受賞した作家はメディアや世間に期待され、その後の成功に繋がるので、新人小説家にとっては出世の近道。それゆえ新人小説家はこの賞の為に四苦八苦します。そんな登竜門をくぐり抜けた実力者の中から本レビューでは、おすすめの5つの作品をご紹介します。
こちらの作品は『きれぎれ』と『人生の聖』の2編が収録されています。
町田康は主に小説を書いていますが、若かりし頃はバンド「INU」のボーカリストや詩人として活動をしていました。ミュージシャンとしてバンド結成、解散を幾度となく繰り返し、自分の思った事を愚直に世間に向けて表現することを生業としていました。
- 著者
- 町田 康
- 出版日
- 2004-04-07
その表現方法の中の一つが小説でした。そして小説作品の中の1冊『きれぎれ』が芥川賞を受賞してからは、小説家としての活動を本格的にスタートしています。
町田康の表現方法に糸目を付けない生き方は『きれぎれ』にも強く現れています。そんな自身の経験も交えて、リアルでかつ独特の文体が小説に落とし込まれているのです。今回はその表題作をご紹介します。
親のすねをかじりながら生活していた主人公の「俺」は、お見合いで不細工だと思った資産家令嬢の女性に行儀の悪い態度をとって振ってしまいます。その後いきおいで結婚したのはランパブの馴染みだった女性。けれど妻は太っていき、コミュニケーションも少なくなっていきます。
ある日、冴えない絵描きだった知り合いが、一躍時の人となり、成功を納めます。彼は「俺」がかつて振った女性と結婚しており、その姿を再び見たときに、女性が実は美人だったのだと気づきます。「俺」は嫉妬からかその女性を好きになり、振り向いてもらう為に画家として絵を描こうと思うのですが、今度は金がないのであてを捜し歩き……。
町田康の小説は、馴染みがないけれど想像しやすい擬音や、文章そのものの魅力で読者の笑いを誘う特徴があります。時に短い文でブレーキをかけたり、時につらつらと長い文でスピード感溢れる流れを作ったり。独特で印象的な文体が、読んでいて飽きさせない要素になっています。
個性的な作風である町田康の文体を受け入れられない方はおり、芥川賞の選考も評価が二分したようですが、合う方には本当に合う作品です。「ナンセンスなギャグや、作品世界の全てを理解する事が出来なくても作品が好きになれる方」に、おすすめいたします。
作者の堀江敏幸は早稲田大学第一文学部フランス文学専修を卒業後、東京大学でフランス文学の博士課程の単位を取得、さらに旧パリ大学の文学部にあたるパリ第3大学にも留学しました。そして早稲田大学の文学学術院教授や、早稲田大学短歌会の会長を務め、極めつけは芥川賞の選考委員も務めています。
- 著者
- 堀江 敏幸
- 出版日
- 2004-02-13
このように彼は、小説家のステレオタイプなイメージ通り、高学歴で教養と知識があります。そしてイメージに違わず、知的で文学的な要素が作品に盛り込まれています。
『熊の敷石』の内容はフランス滞在中にユダヤ人であり旧友である「ヤン」と過ごしていくうちに、「なんとなく」会話の節々に違和感を感じた主人公の「私」がその「なんとなく」という思いが何なのかを考えるというものです。
「熊のいちばん大切な仕事は、老人が昼寝をしているあいだ、わずらわしい蠅を追い払うことでした。ある日、熟睡している老人の鼻先に一匹の蠅がとまり、どうやっても追い払うことができなかった忠実な蠅追いは、敷石をひとつ掴むと、それを思い切り投げつけ、蠅もろとも老人の頭をかち割ってしまいました。かくして、推論は苦手でもすぐれた投げ手である熊は、老人をその場で即死させたのだ。無知な友人ほど危険なものはない。賢い敵のほうが、ずっとましである」
(『熊の敷石』より引用)
これがタイトルの元ネタであり堀江敏幸が作品で伝えたい事の1つ。そのままフランスに実在することわざです。同じ言葉でも「私」と「ヤン」では感じ方に大きな差がある事に気づいた「私」が「ヤン」に対する発言を反省する場面で使われました。
読了後の余韻も良く、お勧めの小説ですが小説の翻訳をこなすほど知識のある作者。作中には、フランスに造詣が深いことがわかる言葉や、翻訳小説を読んでいるようなエスプリの効いた表現を多用しています。フランス文学のような奥深さや、風が吹き抜けた時のような文体の清涼感を楽しめると思います。
この『蹴りたい背中』というタイトルは、芥川賞受賞時に幅広く報道された有名なタイトルなので、耳にしたことのある人も多いはず。その理由としては10代の美少女が芥川賞を取ったというのもありますが、やはり作品自体の魅力が大きかったと言えるでしょう。
- 著者
- 綿矢 りさ
- 出版日
- 2007-04-05
綿矢りさが書いた『蹴りたい背中』は芥川賞以外にも数々の賞を受賞、世間に大きなインパクトを与えました。内容は思春期に突入したハツこと長谷川が同じく思春期に突入した"にな川"の背中を蹴る、という話です。あらすじだけでは伝わりきらない空気感や心情に、読者はその蹴る理由をイメージしながら読むのです。
ハツと"にな川"は同じ思春期でありながらその性格は対照的です。素直になれずにひねくれているハツと、素直な"にな川"。ハツは自分の素直でないところが嫌で、同時に自分とは対照的に素直になれる"にな川"のことも嫌だと思う時があります。嫉妬のような自意識に悩む気持ちを発散する場所を失い、ハツは"にな川"の背中を蹴ります。
「素直になれる人間への嫉妬」と「素直になれない自分への苛立ち」の2つの意味が込められた、背中をけるという行為。心理描写が生々しく熱いもので、当時19歳だった綿矢りさしか書けないようなリアルで勢いのある文体で書かれています。
主人公の「わたし」は正真正銘の犯罪者で、全く共感できない恐ろしい思考回路を作中で見せます。ロリコン趣味で自分の娘の裸や年端もいかない少女の撮影をしていた事が妻にバレて離婚。絶望して実家で仕事をしています。
- 著者
- 阿部 和重
- 出版日
- 2007-07-14
彼はひょんな事から子供達の演技指導をする事になり、その中の二人の少女が死のうとしている事を知ります。彼女たちを救うと決意する過程で彼はまともな人間に……?
前半と後半で二部構成になっていて、前半ではロリコン趣味が周囲にバレて酷い事になったこと、後半は山形の実家に帰った後のことについて書かれています。前半の部では異常趣味が広まった後も開き直ったり言い訳をしたりと、どうしようもない男として描かれます。
後半の部では2人の少女を救うという目的を意識しているうちに、今までの行いを反省して考えを改めます。しかし彼の発する言葉はどこか偽善者のように薄っぺらい、信用のならないものなのです。
「犯罪者にも必ず更生の余地があり、救いがある」ということ、「反省しても一度犯罪を犯したものは、一生その意識にとらわれる」ということ。そんなことを考えながら、ラストのシーンのすごさを味わってみてください。阿部和重の筆力を感じる、余韻のあるものです。
この作品には、「乳と卵」と「あなたたちの恋愛は溺死」の2編が収録されています。冒頭から余談ですが、川上未映子は上記『グランド・フィナーレ』を書いた阿部和重の妻です。そろって芥川賞を受賞している夫婦とは、驚きですね。
- 著者
- 川上 未映子
- 出版日
- 2010-09-03
ここでは表題作『乳と卵』をご紹介します。
39歳のホステスで一児の母でありながらも、女であることを諦めずに豊胸手術を受けようとしている巻子。同年代の周囲にみな初潮がきはじめ、その中で自分は女になりたくないと思っている緑子。そんな親子の関係を描いていた作品です。
文章のリズムが面白く、テンポよく物語が進んでいきます。体言止めを多用したり語りが大阪弁など少々癖のある文体ですが、それが良い味付けとなっています。
緑子の「女になりたくない」という感情は、自身の女の部分を売る仕事のホステスである母親の巻子に対して良くないイメージを持っている所から来ています。正面をきっての対話もしないのでその嫌な感情は行き場を失い、巻子との関係も良好とは言えません。しかしある時、お互いにその心情を吐露して……。
女性には身近でリアルに共感できる所の多い小説です。そんな生々しいところもありながら、読了後の家族愛に対するほんわかした気持ちなど良い余韻の残る作品です。
個性的で純文学として完成度が高い小説を書く作者が受賞する芥川賞は読んで間違いのない作品ばかりです。今回おすすめしている5冊をはじめとして、その奥深さや面白さを感じて頂きたいと思います。