話をするのは好きだろうか?自分のことを話すのは? 人前で話すことを生業にしていると、人に伝える難しさや、自分の表現の拙さに直面させられる機会が多くある。私の場合、これが日常茶飯事である。あぁ、話すのが上手になりたい。でも実は、そんなことを一切考えずに交わす、雑談的な緩い会話もまた好きで、どうやらそういう会話の中でこそ得られる良いことがありそうだ。今回は、「話すこと」について考えてみました。
「今日はほとんど喋らなかったな。」
仕事が休みで、泥のように眠っていたり、家に籠って映画鑑賞三昧…なんて過ごし方をしていた日には、夕日が落ちかけるのを見つけて、にわかに焦りを覚えることがある。
家族と暮らしているので、全く声を発しないということは無いにしても、朝寝ぼけながらボソボソと、辛うじて「いってらっしゃい…。」を絞り出したあとは、夕方まで声帯を一切震えさせる事なく過ごすなんていう “ 泥っぷり ” の良い日があるのだ。そんな日は大抵、スマートフォンの歩数計が20歩ほどでカウントを止めている。
こんな風に、油断するとほとんど声を発していない日ができてしまう。もしかすると人によっては、たとえ仕事をしていても、パソコンの画面と対峙するに終始して、 “ 声を出して話す ” ということ自体、必要としない場合だってあるだろう。
しかし、声は使わないと出なくなる(と思う)。
いや、厳密に言えば出ることには出るのだけれど、伝えたい事柄を、人に充分に伝えるほどには、という意味でだ。伝えるための話し方や伝わるトーンで声を発することは、後天的な範囲において、意識的なトレーニングと幾らかの慣れが要る。
私の仕事は、主に人前で喋ったりすることだ。だから本来、「声帯を使わなかったなぁ〜。」なんて言っていないで、どんな日にも発声練習くらいはするべきなのだろうが、その点について、今回は一旦見逃しておいてほしい。
会話でコミュニケーションを取ることは、心理状態、延いては健康状態にまで良い影響を及ぼすそうだ。例えば、会話で脳を活性化させることが認知症の予防に繋がったり、ストレス解消など精神的な面での効果が期待できるといったものだ。
様々な効果の中でも、私が日ごろ最も実感するのが、 “ 伝える ”ことにより脳内が《交通整理》される感覚だ。カメラ越しではあるが、リポート業務などで視聴者の目線を意識しながら話すことは、会話に近いと思っている。
そもそも私は、目で追うだけでは台本を憶えられないので、いつも声に出しながら記憶していく。内容が合っていれば良いという場合もあるが、一言一句違わないように、という場合もあって、接続詞や話す順番といったポイントに意識を取られることもままある。それでも不思議と、実際にカメラの前で伝えた後には、より理解が深まり、記憶として蓄積されたように感じる。細かい文章の構成こそ忘れていくが、人に説明したことで情報が整理され、自分のものになるようだ。
想いや情報を言葉にして、さらにそれを声に出して人に伝えていくことで、渋滞しがちな脳内が整理されていく。そうして開けた道の先には、雑踏に隠れて気づくことのできなかった、自分の思考が見えてくるかもしれない。
- 著者
- NPO法人朗読文化研究所
- 出版日
現代のコミュニケーションは、わざわざ顔を合わせたり電話をしなくても、メールやチャットの短いやり取りで事足りてしまう。
「ありがとう!」
「了解!」
ポンポンと打ち合うような、簡素なコミュニケーションは便利なのだ。チャットアプリは、文章を打ち込まなくとも、最早スタンプだけでなんとなく会話が成立してしまうのではないかという程の仕様だ。そこには、軽快なツールを介したやり取りだからこそ伝わる《ノリ》があり、実際の会話では現れないような、相手のキャラクターが垣間見える、なんていう面白さもある。一方、メールにはどこか丁寧さがあって、その分ある程度言葉を推敲してから相手に渡すことができるので、失敗が少ない印象だ。
チャット的なコミュニケーションは気軽で楽しい。伝達にあまり無駄が無いし、あえて無駄な方向に振り切ったならば、エンターテインメント性が生まれるとも思っている。そんな意味でも、今っぽい。
ところが実際の会話となると、そう都合良くはいかないものだ。対面での会話は《生モノ》を扱う感覚だ。ライブ感があるとも言える。チャットのスタンプのように、誰も愛嬌を補塡・代行してはくれないし、メールのように、投げかける前に注意深く時間をかけて、文面が与える印象を確認することもできない。だからといって、定型表現だけでやり過ごしたりしていたら不自然だ。
この《生モノ》のコミュニケーションは、辞めたいときに即離脱することもできなければ、時に起こるちょっとした気まずい瞬間にだって、対峙しなければならない。それでも、電話をかけたりわざわざ出かけたりして、私たちは会話をする。会話を重ねることで仲が深まるのは、こういう簡素化できないところにこそ、遊びや人間性が詰まっているからだ。
《話す》という言葉で、私が最初に連想するのがラジオだ。
ラジオ番組へ出演した経験は決して多く無いのだが、ここ数年はスマートフォンのアプリを介して、趣味としてラジオを聴いている。テレビとはまた違った情報量を発信し、比較的自由な空気感が許される場所。ラジオという空間に身を置くことは、私の憧れの一つだ。
- 著者
- ["齋藤 孝", "安住 紳一郎"]
- 出版日
本格的にラジオ番組を聴き始めた当初は、特にアナウンサーの人たちの、テレビでは見慣れない個性の強さに圧倒された。番組内のバランサーとして機能しつつ、自社の番組ということで、時にフリーランスで起用されているメインパーソナリティーよりも、無邪気な振る舞いが垣間見えたりすることが面白かった。
ラジオ出演者は、本当に沢山喋っている。内容を文字に起こしたら、テレビの3倍くらいは話していそうだ。それだけ話すには、見たもの・感じたことの言語化を、普段からトレーニングすることが必要だ。食レポの仕事が入り始めた頃、プライベートな時間にも、何かを食べる時は味を擬似リポートするよう意識していたことを思い出した。面白い事に気付けるアンテナを張り、出来事をエピソードとして昇華させるのは、意外と難しい。声に出して伝えることは、一日にしてならず、なのだ。
アナウンサーやリポーターは、収拾された情報を伝えたり、人から話を引き出すのが主な役割だ。自らの主観を話す機会は、割合としてかなり少ない。仕事の場では、主に聴く人・話す人という明確な役割を与えられている場合が多いから、なんとなくどういうシーンでも、役割や立ち位置を意識しがちだ。
- 著者
- 阿川 佐和子
- 出版日
ところがネットのライブ配信では、ダラダラといくらでも話していられる。私も以前はSNSを利用して頻繁に配信していたが、コメント欄に寄せられる言葉に反応しながら、仕事の告知はもちろん、「そういえばさっきこんなことがあって〜」といったような、大して実の無い話しをしていたものだ。観てくれているのは、ほとんどがファンの方だろうと踏んでいるから、ゆるい感じもある程度許容してもらえるかなという甘え心があってのことだ。
そんな配信をする中でも、やはり《脳内交通整理》ができていくことがあって、それが、オーディションを受ける時の自己紹介や自己PRに役立ったりもした。当時配信にお付き合いくださっていたみなさん、ありがとうございました!
“ ファンの人たちだから ” “ 家族だから ” “ 仲の良い友人だから ” といった安心感を持てることは、有難いことだと思う。もし自分の事を話すことが苦手だと感じている人がいるならば、たった一人でいい、何てことのない話を許し合える、安心できる相手をつくってみてほしい。きっとその会話は、あなたを癒してくれるはずだ。
おしまいに
こんな作品を紹介したい。
『 connect 』
もしもし、あのね。
何でもないことは
きみに話したくなるんだ。
テレワーク化が進み、活動の自粛が止むを得ない近頃。会話をする機会が激減したという人も多いはず。そんな今だからこそ、空いた時間に一息ついて、いつもよりゆっくり家族と話をしてみてはどうだろう。誰かに電話をかけてみるのもいい。何てことのない会話に、いつもより少し、心を傾けて。
おやつのじかん
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