名著を次々と送り出し、さまざまな賞を送られた作家・井上靖の作品の中からおすすめの味わい深い7作品をピックアップしました。
井上靖(1907−1991)は、北海道生まれ静岡育ちの小説家です。歴史小説、現代小説、自伝的小説の3つを手がけ、死去した後である現在でも多くの読者に親しまれる作家でもあります。
井上靖は昭和11年頃から作家活動を始め、芥川賞、日本文化勲章など数多くの受賞歴を誇ります。しかしその独特の淡々とした文体から、「読みにくい」「起伏が少なくつまらない」という声も少なくありません。
ですが井上靖の作品は、読めば読むほど「ハマる」要素を持っています。というのも、その淡白さに慣れてくると、文章の中に巧みに隠された「見せ場」が分かってくるようになるのです。そうなると物語がいかに圧巻のストーリーを織りなすかが感じられるようになり、抜群に面白くなってきます。
奈良時代の天平年間、日本では第9次遣唐使が遣わされることになりました。目的は唐の優れた文化(特に仏教)を日本に持ってくるためです。
当時日本には仏教自体は伝来していましたが、僧になる資格を正確に与えることが出来る人物がおらず、そういった人物を日本に連れてくることが大きな目的であったのです。その遣唐使の中に、普照と栄叡という、のちに運命をともにすることになるふたりもいました。
- 著者
- 井上 靖
- 出版日
- 1964-03-20
唐から日本に渡ってくることになる僧は、歴史の時間でも有名な鑑真(鑒眞)であるわけですが、そこに至るまでの長い長いドラマと、登場人物たちの運命の交錯が読みどころです。
特に「一文字も間違いのない経典が今日本にとってもっとも必要である」と固く信じて、ひたすら経典を写すことに務めた業行という人物の様子は物語の見せ場の一つです。作者が力を入れて書いた部分であるようで、信念をも感じさせるその行動は、主人公である普照たちに通じる、歴史ドラマをリアルに感じます。
現在私達が疑問を持たず使っている言葉や文化にも、仏教の要素は非常に多いです。その日本仏教創成期、若い僧たちが遠い国にまで渡って求めたもの。そして失ったもの。それらを書き出す古代ロマンです。
万葉集に数多くの和歌を掲載されながらも、謎多き女性として知られる額田女王(額田王)の半生を綴った小説です。
額田女王は、中大兄皇子(天智天皇)とその弟である大海人皇子(天武天皇)両方に寵愛を受けたことで知られ、のちに起こる壬申の乱の原因のひとつではないかと言われる女性です。額田が優れた歌人であったことから、小説全体に和歌が散りばめられ、詩情あふれる物語となっています。
- 著者
- 井上 靖
- 出版日
- 1972-11-01
中大兄皇子と中臣鎌足らのクーデター、乙巳の変(大化の改新)が始まって数年。時の帝、孝徳天皇に仕える巫女であり歌人である額田は、中大兄皇子の弟である大海人皇子の積極的な求愛を受けます。求愛に逆らうことの出来ない額田は、大海人皇子に、体は任せても心までは獲られないと誓います。しかし額田は、次に求愛してきた中大兄皇子に少しずつ惹かれていってしまいます。
この物語は、額田の女としての気持ちと巫女としての世に献身する身としての気持ちが揺れる様子が楽しめます。この時代、世の中は激動しています。権力闘争が起こり、遷都は頻繁に行われ、さらには朝鮮半島の百済を救うため日本から派兵がされます。白村江の戦いです。そんな中、額田は歌を詠みます。時に求められ、時に自発的にその心を詠みます。額田の詠む歌は、巫女として歌人として、恋をしながらも神や民の意思を代弁するかのようです。
額田女王について読んでいるとイマジネーションを掻き立てられます。今は知ることが出来ない古代に思いを馳せてみるのもいいでしょう。
この作品は、2007年に井上靖生誕100週年としてNHK大河ドラマ化された作品です。
時は戦国時代。絢爛な文化圏を作り上げた今川家領地の中で、一人の隻眼の男がいました。その名は山本勘助。武田晴信(のちの信玄)への仕官の糸口を掴んだ勘助は、甲府でふたりの運命の人に出逢います。
- 著者
- 井上 靖
- 出版日
- 2005-11-16
まず武田晴信その人。そしてその側室である由布姫です。勘助はこのふたりを愛するあまり、ふたりの子供である四郎勝頼を武田家の跡継ぎにしたいと考えるのです。その行動原理は私達にはなかなか理解しがたいものではあるのですが、しかし勘助は真剣です。
そして同時に、晴信に父を殺されながらも側室になることを決意した由布姫の心理描写も巧みです。由布姫は晴信に対して、憎悪と愛情、どちらも持って苦しむことになります。『額田女王』でもそうですが、井上靖はこのように、女性の描写には光るものがあります。
この小説は、史実という観点から見るとあまり評価されたものではありません。そもそも主人公の山本勘助自体が、かなり長い間実在が疑問視されており、作者である井上靖も疑いつつ書いていたそうです。しかし殺陣、合戦、愛情、嫉妬、乱世の宿命と言ったすべての要素が含まれた戦国エンターテイメント小説としては非常に上質で、井上靖の代表作とも言えるでしょう。
井上靖は中国史にも目を向けました。特に西域の騎馬民族たちの歴史を書き出しています。その一つがこの『蒼き狼』です。
モンゴル族はボルジギン氏族の一員として生まれ、育ったはずの主人公、鉄木真(のちのチンギス・カン)。しかし彼は、ある時に自分の父親が誰なのかわからないという事実を知ります。騎馬民族たちは互いに争い、その際に女性を略奪することはよくあったことだからです。
- 著者
- 井上 靖
- 出版日
- 1954-06-29
鉄木真の母も、かつては略奪の被害にあい、取り戻された身だったのでした。そして鉄木真は、自分の妻が略奪の被害にあい、父親の分からない子供を産んだことで、モンゴル族に伝わる伝説、「蒼き狼」になることを誓います。
鉄木真は、自分がモンゴル族であることを自ら証明するため、ひたすら戦いと征服を続けます。その姿はモンゴル族の伝承にある「蒼き狼」そのもので、鬼気迫るものがありますが、それが「自分で自分を証明する」ことをしないではいられない鉄木真の恐ろしさ、寂しさを表しているのかもしれません。
自分とは何者なのか、という誰しもが考える問題に、正面から突き当たって行ったのが鉄木真であると言えるでしょう。自分は何者なのかという問に、主人公は戦いと征服という答えを出し、確信として勢いそのままに侵略を成し遂げます。そんな鉄木真の激動の人生を描いた作品。自分とは、という問いにあなたはどんな答えを出すのでしょうか。
1900年、中国の西域である敦煌市で謎の文書が発見されました。その数は数万を数え、中身には統一性がなく、しかも過去に消えた言語のものも多数含まれていました。誰が何のために保存したのか全く不明なその文書は、「敦煌文書」「敦煌文献」と呼ばれています。
- 著者
- 井上 靖
- 出版日
- 1965-06-30
この謎の文書群をベースにして作られたのがこの小説『敦煌』です。主人公は趙行徳という漢民族の男性で、西夏文字を学ぶため西域に向かいます。そして謎多き書物・敦煌文書に関わり合うことになります。
「中国の西域で謎の文書群が発見された」と聞いて、そうかとしか思わないであろう我々を横目に、井上靖は鮮やかに物語を作り出しました。おそらくはまったくの想像であろう物語を、説得力を持って作り出し、物語に引き込まれていきます。
1988年には映画化もされた本作。西域の圧倒的な広さと、主人公の文字への情熱、そして作者・井上靖の西域への愛情。それらが混じり合って、この作品を傑作たらしめています。
主人公である梶鮎太は、血の繋がらない祖母とともに暮らしています。その鮎太が成長し、大人になっていくまでの日々を描いています。タイトルは明日には檜になるかのような、しかし決してなることはできないあすなろという木に由来しています。
- 著者
- 井上 靖
- 出版日
- 1958-12-02
一時はあすなろにさえもなれないと言われた鮎太が、もがき、懸命に日々を過ごしながらあすなろになって行く姿を、太平洋戦争の描写を交えながら書き出します。井上靖の自伝的小説である本作品。まだ何者でもなかった少年があがき苦しみ、それでも歩むことをやめない強さが戦争の描写とともに描かれています。
井上靖はこのほかにも自伝的小説をいくつか出版しており、『しろばんば』『夏草冬濤』『北の海』なども秀逸な作品として知られています。この『あすなろ物語』で興味を持ったら、是非読んでみることをおすすめします。また母親について綴り、映画化もされた『わが母の記』も一緒に読むと、より味わいが深まるでしょう。
歴史秘話好きなら、ぜひ一度は読んでみてほしい小説のひとつが『おろしや国酔夢譚』です。
江戸時代、伊勢から江戸を目指した大黒屋光太夫はじめ17人が乗った神昌丸が嵐にあって実に8ヶ月間も漂流を続けることになります。
そうして命からがらたどりついた先は、当時未開のアリューシャン列島。本物の未開現地民との鬼気迫るやりとりに始まり、ロシアの商人との出会いと続きます。そして、鎖国中で国交のなかった日本に帰る許可をもらうために、ロシア帝国の首都モスクワまで数千キロの旅に出発する一同。果たして大黒屋光太夫達の運命は……。
- 著者
- 井上 靖
- 出版日
- 2014-10-10
まるでフィクションのようですが実話をもとにした作品。奇想天外なストーリーが井上靖特有の平坦な語り口で淡々と語られてゆきます。
長期間の漂流やシベリアの寒さ、現地人とのいざこざなどで仲間たちが1人、また1人と命を落としてゆくなか、必死に生き抜こうとする男たちの姿が、ロシアの圧倒的な大地の光景ととともに描かれていきます。当時の人々の生活や風習も実にリアルで読みごたえたっぷりです。
現地ロシア人女性との人生を選ぶちょっとしたラブストーリーや、エカテリーナ女帝と大黒屋との謁見などイベントも盛りだくさん。『おろしや国酔夢譚』、ぜひご一読ください。