日本の保護国となっていた韓国が、自国の外交権回復を国際社会に訴えようとした「ハーグ密使事件」。一体どのような経緯があったのでしょうか。この記事では、背景にある「日韓協約」や事件の経緯、「韓国併合」などその後の影響をわかりやすく解説します。
1907年、オランダのハーグで開催されていた「万国平和会議」に参加する資格がなかった大韓帝国の皇帝高宗が、3人の密使を現地に派遣し、列強に対し外交権の保護を訴えた事件を「ハーグ密使事件」といいます。
当時、韓国の外交権は日本が保有していて、列強もこれを承認していました。そのため密使は、会議への出席を拒まれています。
「ハーグ密使事件」の背景にあったのは、「日韓協約」です。
「日露戦争」中の1904年に締結された「第1次日韓協約」では、韓国政府は日本政府が推薦する日本人1名を財務顧問に、外国人1名を外交顧問にしてその意見に従うこと、また外交案件については日本政府と協議のうえで決定・処理することが定められました。朝鮮半島における戦いは日本の勝利で終息していて、韓国は事実上、日本の占領下に置かれている状況だったのです。
この協約にもとづき、大蔵省の主税局長だった目賀田種太郎が財務顧問に、アメリカ駐日公使館顧問だったダーハム・ホワイト・スティーブンスが外交顧問に就任しました。
しかし韓国の皇帝、高宗はこの協定をよしとせず、ロシア、フランス、アメリカ、イギリスに密使を送ります。これを受けて、韓国に「第1次日韓協約」を守る気がないと判断した日本政府は、「日露戦争」が終結した後の1905年に「第2次日韓協約」を締結しました。
これによって、韓国の外交権は日本に接収されることが決定。首都の漢城には統監府が設置され、初代統監として伊藤博文が就任します。
「ハーグ密使事件」は、「第2次日韓協約」の無効を国際社会に訴えるためのものだったのです。
高宗をはじめとする抗日派が計画した「ハーグ密使事件」を後押ししたのは、反日的な報道で知られていたイギリス人ジャーナリストのアーネスト・トーマス・ベッセルや、アメリカ人宣教師のホーマー・ベザレル・ハルバートなど。
彼らは韓国内の抗日派や、海外にいた外交官などと協力して、李相卨、李儁、李瑋鍾という3人を密使として派遣しました。
この時開催されていた「万国平和会議」は、戦争のルールを定める「ハーグ陸戦条約」や、国際紛争を武力ではなく平和的手段で解決することを目的とした「国際紛争平和的処理条約」が締結された第1回に続くものとして、アメリカの国務長官ジョン・ヘイが提唱し開かれたもの。「ハーグ陸戦条約」を改定し、中立法規を盛り込むことなどが議論されていました。
1907年6月25日、ハーグに到着した3人の密使は、会議への出席を拒まれた後も各国の代表に面会を求め、支援を要請するなど精力的に活動します。しかし「日韓協約」は国家間で締結された正当な取り決めで、多くの国からは面会すら拒否されました。
密使たちの行動は、彼らが接触を図った各国の代表から通報を受けて、日本も知ることに。「大阪毎日新聞」は一面で報じ、日本政府と韓国統監の伊藤博文に対し、厳格な処置を求める社説を掲載します。国内世論は対韓強硬論に大きく傾くことになりました。
「ハーグ密使事件」を受けて、韓国内の世論は高宗を支持し、日本と密使を受け入れなかった列強を批判する声が高まりました。
その一方で、高宗の独断専行を批判する者も少なからずいたそう。当時韓国の総理大臣を務めていた李完用は、事態を収拾するため、高宗に対し譲位を迫ります。1907年7月20日には皇帝に純宗が即位しました。
さらに7月24日には、「第3次日韓協約」が締結。高級官吏の任免権、日本人の登用、韓国軍の解散、司法権および警察権を韓国統監へ委任することが定められます。
李完用は、その時々の政治情勢によって支持する相手を変える柔軟さがありました。「日露戦争」後は親日派の中心人物となります。2005年には韓国政府の「過去清算政策」の一環として制定された「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」にもとづき、李完用をはじめとする親日派の人々の子孫が、土地や財産を没収される事態になりました。
李完用が「親日派」として糾弾の対象となっている最大の理由は、1910年に締結された「韓国併合ニ関スル条約」 です。第3代統監の寺内正毅と、李完用首相が調印しました。
もともと日本政府は、韓国を「日本を守るための防衛線」と考えていて、基本的な外交方針は韓国を日本に有効な自主独立国に導くというものでした。
しかし韓国国内では、開化派と保守派の政治抗争が続きます。列強も、韓国の政治家には統治能力がなく、独立国として維持するのは困難だという認識を強めていきました。「ハーグ密使事件」も、国際社会に韓国の混乱ぶりを印象付ける結果となってしまいます。
そんななか、イギリスやアメリカは日本に対し、韓国の指導を求めるようになるのです。日本は列強からの圧力と世論を受け、干渉を強めていきます。
しかし1909年、韓国併合に反対していた伊藤博文が、ロシアのハルピン駅で朝鮮民族主義者に暗殺される事件が発生。自国領内で暗殺事件を起こされ面目を潰されたロシアも、韓国に対する支援を止めて韓国併合を支持するようになりました。
12月4日には、韓国内の民間の政治団体「一進会」が、日本と韓国の対等合併を求める「韓日合邦を要求する声明書」を上奏しますが、日本は対等では世論を納得させられないと拒絶。
そして1910年6月3日、「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、8月22日に「韓国併合ニ関スル条約」が締結。8月29日付けで、韓国は日本に併合されることになりました。
- 著者
- 木村幹
- 出版日
相次ぐクーデターや大規模な内乱、「日清戦争」、「日露戦争」、「ハーグ密使事件」、そして「韓国併合」という歴史の荒波に翻弄された高宗と、その妻である閔妃に焦点を当てた作品です。
高宗がいかにして皇帝となり家族をもったのか、その人となりを知ると、彼もまた激動の時代に懸命に生きたひとりの人間だったことが理解できるでしょう。
また閔妃は聡明なことで知られ、夫である高宗をも凌ぐ政治力を発揮していたそう。1895年に暗殺されるのですが、その背景には日本が関わっているのではないかという疑惑があります。高宗の一貫した反日の姿勢や「ハーグ密使事件」も、本書を読むと見方が変わってくるかもしれません。
- 著者
- 黒田 勝弘
- 出版日
ソウル在住35年以上の作者が、「ハーグ密使事件」をはじめ「韓国併合」「国交正常化」「竹島領有」など、日本と韓国との間に起こったさまざまな出来事を解説する作品。記者の目を通じて語られるエピソードの数々と、その問題の多さに驚かされるでしょう。
特に印象的なのは、日本にとって韓国は「引き込まれやすく深入りしがちだが、決して深入りしてはいけない存在である」という言葉です。「隣国」としてどのような関係を築いていくべきなのか、考えさせられる作品になっています。