5分でわかる甲午農民戦争!農民蜂起のきっかけや日清戦争をわかりやすく解説

更新:2021.11.22

1894年、朝鮮半島で農民たちが蜂起し、「甲午農民戦争」が起こりました。日本が大きく関わっているこの事件について、きっかけや「日清戦争」に繋がった経緯なども含めてわかりやすく解説していきます。

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甲午農民戦争とは。「甲午」の意味や概要を簡単に解説

 

1894年1月11日から1895年3月29日にかけて朝鮮で起こった農民の蜂起を「甲午農民戦争」といいます。当初は、全羅道の古阜郡という場所で起こった小規模な反乱でしたが、やがて全国に拡大していきました。

「甲午」とは干支のひとつで、1894年が「甲午」の年だったため「甲午農民戦争」と名付けられています。また反乱の中心になったのが新興宗教「東学」の信者だったので「東学党の乱」ともいうほか、韓国では「東学農民運動」「東学農民革命」と呼ぶ場合も。

1894年1月11日の蜂起から朝鮮政府との間に「全州和約」を締結するまでを「第一次農民蜂起」、この第一次蜂起をきっかけに勃発した「日清戦争」の終盤に起こったものを「第二次農民蜂起」と呼ぶのが一般的です。

甲午農民戦争のきっかけは?第一次農民蜂起を解説

 

19世紀なかば以降、東アジアには欧米列強が進出し、各国は「開国」か「攘夷」の選択を迫られていました。

清を宗主国とする朝鮮も例外ではなく、明治維新を成し遂げた日本と手を結んで開国し、近代化と自主独立を目指す「開化派」と、清の冊封下に留まって、伝統と秩序を守るべきだとする「事大党」との対立が続き、国政は混乱していました。

両者の対立が頂点に達したのが、1884年に開化派が起こした「甲申事変」です。しかしクーデターはわずか3日で失敗に終わり、開化派の勢力はほぼ壊滅。以降、朝鮮は清が派遣した袁世凱の監督下で、「事実上の朝鮮国王」と呼ばれた閔妃が政権を掌握します。

閔妃政権では民衆に重税が課され、官僚たちの間では賄賂が蔓延し、不正に富を奪われる事態が頻発。「金の樽に入った美酒は、千人の血からできている」「歌舞の音曲が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高く轟く」などといわれるほどです。

そのため、農民による蜂起が各地で頻発。「甲午農民戦争」もそのひとつで、発生当時はまさか全国規模にまで拡大し、「日清戦争」のきっかけになると予想した人はいませんでした。

「甲午農民戦争」の直接のきっかけは、郡守が税金を横領していることを、農民が全羅道の観察使に訴えたところ、反対に農民が逮捕された事件です。これに対し、東学の2代目教祖だった崔時亨(さいじこう)が武装蜂起。「第一次農民蜂起」となりました。

甲午農民戦争は日清戦争へ

 

甲午農民戦争の中心となった新興宗教の東学は、1860年に崔済愚(さいせいぐ)が天啓を受けて創始したもの。「第一次農民蜂起」を起こした崔時亨の兄です。「東学」という名前は、当時「西学」と呼ばれていたキリスト教に対抗するために付けられました。

教義は、儒教と仏教、民間信仰などを融合したもの。しかし東学の「人間の尊厳と平等」を説く考え方は、厳格な身分制社会を基礎とする朝鮮の伝統的な儒学的思想を脅かすものとみなされ、崔済愚は政府に捕らえられ処刑されてしまいます。

「甲午農民戦争」が全国に拡大する際に大きな役割を果たしたのが、教団幹部だった全琫準(ぜんほうじゅん)という人物。数万の反乱軍を率いて政府軍を撃破し、5月には全羅道の道都である全州を占領しました。

これを受けて、農民たちの反乱が単なる蜂起の域を脱していることに気づいた閔妃政権は、5月30日、清に対して援軍を要請します。

清は日本と結んでいた「天津条約」に従い、通知をしたうえで出兵。日本も現地の居留民を保護するために派兵を決断しました。

相次いで朝鮮に上陸した両軍は、7月には朝鮮の首都である漢城近郊で対峙。この状況に慌てた閔妃政権は、農民との間に「全州和約」を締結し、「第一次農民蜂起」を無理やり終息させます。しかし実際に「全州和約」が締結されたことを証明する資料は発見されていません。

閔妃政権は、反乱が終息したとして、日清両国に撤兵を求めました。しかし双方ともに「相手が先に撤兵すべき」と主張。日本は清に対し、「朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうこと」を提案します。これを清が拒絶すると、日本は単独で朝鮮の内政改革を主導するとして、朝鮮政府に圧力をかけ始めました。

7月20日に「清国の宗主権を認める中朝商民水陸貿易章程の廃棄」と「清軍の撤退」を求め、回答期限を7月22日とします。しかし朝鮮の回答は「国内の改革は自力でおこなう」「日清両軍に撤兵を求める」というものでした。

これを受けて、日本軍は7月23日に朝鮮王宮を攻撃。国王の高宗を捕らえ、彼の父で、閔妃の政敵でもある大院君を担ぎ、新政権を樹立させてしまうのです。

さらに新政権の要請だとして、清軍への攻撃を開始。8月1日には相互に宣戦を布告し、「日清戦争」が勃発しました。

開戦までの経緯は道理にあわないとして、明治天皇は「朕の戦争にあらず」と言ったそう。にも関わらず強引に開戦した理由は、当時解散総選挙に追い込まれていた伊藤博文内閣が、国内の対外強硬論を抑えきることができず、朝鮮に出兵したのに成果を挙げずに撤兵させることが難しい状況だったからだといわれています。

甲午農民戦争の第二次蜂起を解説

 

甲午農民戦争の指導者である全琫準は、すでに7月には日本軍と日本の傀儡である新政権に対し、第二次武装蜂起を引き起こすことを計画していました。しかし教団の上層部には平和的解決を望む声も多く、説得に時間をとられ、実行できたのは10月のことでした。

11月末、すでに「日清戦争」の勝利をほぼ確実にしていた日本軍と衝突し、敗退。1度は逃れた全琫準ですが、潜伏中に捕らえられてしまいます。

日本の井上馨公使は、全琫準の人柄を称賛して助命を求めますが、一方の朝鮮政府は井上が帰国している間に全琫準を処刑してしまいました。

また「第二次農民蜂起」の背景には、大院君の謀略があったことも明らかになっています。大院君は、東学を援助して大規模な武装蜂起を起こさせ、清軍と連動して南北から漢城にいる日本軍を攻撃することを計画していたのです。

東学の2代目教祖だった崔時亨は1898年に捕らえられ、処刑。その後は、孫秉煕(そんへいき)が3代目教祖となります。孫秉煕は日本に渡り、開化派の残党と接触しながら「道戦」「財戦」「言戦」の三戦論を提唱。政治団体「進歩会」を結成しました。この進歩会の実務を担っていたのが、後に「日韓併合」を推進することになる「一進会」の創設者、李容九(りようきゅう)でした。

1905年、東学は孫秉煕の「天道教」と、李容九の「侍天教」に分裂。侍天教が親日的な活動を展開する一方で、天道教は「3.1独立運動」をはじめとする「愛国啓蒙運動」の一翼を担うなど、反日的活動に傾倒していきました。現代でも韓国と北朝鮮をあわせて約300万人の信者がいるとされています。

なぜ日清戦争と日露戦争は起こったのか?

著者
神野 正史
出版日

 

歴史上の出来事をわかりやすく解説する「世界史劇場」シリーズ。本作では、「日清戦争」と「日露戦争」を取り上げています。

迫りくる欧米列強に迫られるかたちで「明治維新」を成し遂げた日本。一転して今度は朝鮮に開国を迫り、ついには戦争まで起こしてしまいました。本作を読むと、日本にとって朝鮮半島がどんな場所だったのかわかるでしょう。

欧米との圧倒的な差を痛感した日本は、危機感と焦りを抱いていました。日本を急速な近代化に向かわせた一方で、旧態依然とした体制のまま「甲申事変」や「甲午農民戦争」など、国内の争いに明け暮れる朝鮮への苛立ちを醸成していったのです。その結果が「日清戦争」や「日露戦争」へと繋がっていきました。近代の東アジア情勢を理解したい人にはおすすめの一冊です。

甲午農民戦争で何があったのか、わかりやすく解説

著者
["中塚 明", "井上 勝生", "朴 孟 洙"]
出版日

 

朝鮮半島を主な舞台にして展開された「日清戦争」。朝鮮からすれば、自国の領土で他国同士が戦うだけでも迷惑ですが、さらにもっとも多い死者を出したのも朝鮮でした。

戦争末期、排日を掲げて2度目の蜂起を起こした全琫準らは、日本軍と衝突し、大敗北を喫します。

歴史上、宗教を背景とする反乱軍と正規軍が激突した場合、虐殺に発展する例が多数ありますが、「甲午農民戦争」も例外ではありませんでした。日本軍は反乱軍を容赦なく虐殺し、その事実を隠蔽しました。

本書では、作者が当時の地方新聞の記事などを丹念に分析し、何が起こっていたのか本当のことを明らかにしようと試みています。日本人として、知っておくべき歴史だといえるでしょう。

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