どうすればよかったのと考えないために【小塚舞子】

更新:2021.11.29

悲しいニュースが多い。自分を傷つけたり、それによって傷つくべきでない人が傷つけられたり。悲しくて、切なくて、やるせない。 誰かが言う。「頼れる人はいなかったんですかねぇ」 いなかったのだろう。いたとしても、もう相談できないくらいに追い込まれていたのかもしれない。人はそれぞれ違う。抱える悩みや悲しみの大きさも、それを入れる器も。大きいから良いってわけではない。明るければ大丈夫なわけでもない。

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「うつ」なのか「甘え」なのか

じゃあ、どうすればいいのだろう。テレビで報道されているいのちの相談ダイヤルに電話したら、つながらなかったという話を聞いた。あくまで“聞いた”話なので、信ぴょう性がどれくらいあるのかはわからない。しかし、テレビで美味しいスイーツが紹介されたあとにそのお店の電話が鳴りやまなくなるように、報道されることで、一時的に殺到するのかもしれない。私がかけた一本で誰かがつながらなくなるかもしれないから、確かめようもない。面白半分でイタズラ電話する人がいるとも思えないし、というかさすがにいないでいて欲しいけれど、もうそうだとも言い切れないくらいに世の中がぐちゃぐちゃになっている感じがする。こんな想像してしまうことが、ぐちゃぐちゃなのか。

少し前に“産後うつ”という言葉が、ツイッターのトレンドワードになっていた。なんだろうと見てみると、ある女性が「産後うつなんて甘えだ」と発言したことが物議を醸していた。物議を醸すことを目的としていたようで、もうこの発言に注目すること自体バカバカしくもあるのだが、なんちゅうことを言うんやと育児真っ最中のわたしはしっかり憤慨した。それと闘っている、もしくは闘ってきた人たちに追い打ちをかけるようなことを、わざわざ多くの人の目に触れさせることに何の意味があるのか。思うことは自由だけど、それを言葉の刃に変えることは罪なのではないか。

産後うつの“産後”というのがどれくらいまでの時期を差すのかよくわからないけれど、自分もなっていたのではと思う。たった一年ちょっと前のことをほとんど覚えていないのだ。目の前のことに必死で、周りに当たったりしていた気がする。今だってさほど変わらない。必死だし、すぐ当たってしまうし。

子育てをしていてしんどいなと思うのは、何でも自分のせいにしてしまうことだ。置いていた水を子供がひっくり返してしまったとしたら、そんなところに水を置いた自分が悪いのだとなる。ふざけてこぼしてしまった時などは怒るのだが、怒ったあとにいやいや自分のせいやんか・・・と落ち込む。クーピーで椅子に落書きされたのはクーピーを手の届かないところに片付けなかった自分のせいだし、ごはんを投げられるのは美味しく作れなかったせいだし、電車の中で静かにさせられないのも、なかなか寝かせられないのも自分が悪いと思ってしまう。

冷静になって考えれば、別にそこまで気に病むこともないではないことだが、ちいさな子供と向き合おうとすればするほど、そのちいささに焦点を合わせすぎて、視野が狭くなる。しかも毎日一緒に過ごしていると、些細な事件がどんどん起きて上書きされていくので、ひとつひとつ消化している暇がない。そして一日を振り返ってみると、あれ?今日何して過ごしたっけ?ちゃんと遊んであげられたのかな・・・とまた反省する。それがもう日常茶飯事なので、些細な事件はわざわざ誰かに報告することもなく、鬱々と自分の中に溜め込んでしまうのだ。

まさにそれこそが「鬱」なのかもしれないし、ツイッターの女性からすれば「甘え」なのかもしれない。今は元気に過ごしているので「甘え」だと言われても「やかましいわ!」と言い返せる体力はあるのだが、しんどいときなら「そうなのかも・・・」とさらに落ち込んでしまう。誰だってそうだろう。弱っているときは、とことん弱っていくものではなかろうか。徹底的に落ち込んでいるときは、どんな慰めの言葉も入ってこない。むしろ励まされれば励まされるほど、卑屈になってしまったり、余計辛くなったりする。ひとりになりたいのか、そうでないのかもわからなくなったりする。

心の避難経路

“どうすればいいのか”もしくは“どうすればよかったのか”
この問いに答えはないのだろうか。いや、むしろたくさんありすぎるのかもしれない。百人いれば百通り、いや状況によってそれ以上の答えがある。全員を救えるスーパーマンなんてきっといない。じゃあ・・・考えれば考える程、自分も暗いところに引きずられそうになる。

しかしそんな時にネットである記事に出会った。大宮エリーさんが書かれたものだ。「心の避難訓練、大丈夫?」というタイトルで始まるその文章は、とても優しくわかりやすく、すんなりと頭に入ってきた。簡単に説明すると、元気なうちに心の避難経路を確認しておこうという内容で、読みながらハッとした。ここで私があれこれ書くのは失礼だと思うので、詳しくはその記事をぜひ読んでいただきたい。(“心の避難訓練”と検索するだけで出てくるはず)スーパーマンが現れたかのような文章だった。

自分なりに心の避難経路を確認してみたら、美味しいものを食べようとか、一人でカラオケに行こうとか、映画館に行こうとか、月並み以下のことしか浮かばなかった。もっと考えておかないと落ち込んだ時の自分が心配だ。

でも一つ、元気なうちにたくさん本を読んでおけば、いざというときに避難する道が見つかるかもしれないと思った。落ち込んでから集中するのはきっと難しいので、読めるときに読んで頭の中にストックしておきたい。

本を読むこと

本を読むことは旅をすることだ。その旅は、半分は作家さんが、もう半分は自分の想像力が連れて行ってくれる。文字だけで記された素敵な景色を、よりあざやかにするのは自分の想像次第で、言ってしまえばいくらでも都合の良いように想像できる。想像というか解釈と言うか・・・(作家さんごめんなさい)

私はフィクションばかり読んでいるので、現実ではこうはいかないよねというようなものも多いが、ふと『こんな生き方もできるのか』と肩の荷が下りたような気分になることがある。“こんな生き方”をしているのは本の中の登場人物なのだが、それを書いている人がいると思うと、何だか安心するのだ。すると、なんでもできるような気がしてきて、力が沸く。勝手で自由な想像の旅を続けることで、現実の自分の身体が軽くなる。呼吸がラクになるような、目の前が明るく見えるようなその感覚が好きで、私はそういう瞬間を探すために本を読んでいるのかもしれない

みんながこの本を読めば世の中が平和になるのになあと思うこともあるが、気持ちを和らげてくれる本がどういう内容なのかもまた、十人十色なのだろう。だが世界にはたくさんの本がある。今の自分に寄り添ってくれる本が誰にでも一冊はあるのではないか。それが読書を始めた一冊目で出会えるかもしれないし、百冊目かもしれない。

しかし、なかなか見つからないからと言って悲観することはない。百冊読めば、百冊分の景色や意見や考え方に触れることができる。そうすれば何かしら本を読む前とは気分が変わっていると思う。そして、次に出会う一冊こそが人生を変えてくれるかもしれない。本にはそういう力がある。“どうすればいいか”そのヒントをくれる本も探してみよう。そして、“どうすればよかったのか”と考えなくて良い世界になって欲しいと願う。

心をほぐしてくれる本

著者
柴崎 友香
出版日
2017-04-07

離婚したばかりの元美容師の太郎は引っ越してきたアパートで住人の女性が、隣の家に侵入しようとしているところを見つけます。彼女はその家に異様な関心を示しており、なんとか中に入りたいと太郎にも協力を迫ります。大きな青い屋根の家の中には、どんな暮らしがあるのか。静かな景色にドキドキさせられるようで、何だかこちらも気になってくるのです。

この作品を読んでいると「あ、ここ見たことあるかも」と、デジャブのような瞬間が度々訪れます。家の近くにあるような。そこを歩いたことあるような。そんな生活のリアルを描きながらも、登場人物たちが取る行動はちょっとだけ現実離れしていて、でもそれが人生の自由さを教えてくれるのです。変わらない景色を、好きになれるような一冊です。

著者
よしもと ばなな
出版日

主人公のミミは婚約者に裏切られ、その裏切られた土地でおじさんの営むバーの二階で居候をはじめます。そこには子供の時に虐待を受けていた、雇われ店長の西山君がいて、お客さんに愛されながら、丁寧に働いています。ミミは西山君に「幸せってどういう感じなの?」と、問いかけます。

幸せを感じる瞬間も不幸だと思うことも、人によって違う。でも自分の頭を切り替えれば、不幸のどん底からでも、意外と楽に上がってこられるのではと、この作品を読んでいて思いました。辛いことから目を背けるわけでも、逃げるわけでもなく、かと言って直視して余計に傷つくわけでもなく、回避する方法がどんなときにもあるのでしょう。大人になればなるほど凝り固まる考え方を解きほぐしてくれる短編集。

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