「30歳を過ぎたら転がり落ちるように歳を取るよ」と言う誰かの助言通り、私は猛スピードで30代を転がり、35歳になった。もう半分転がってしまった。一年、というか一週間、いや一日がとにかく速い。早起きしてもすぐお昼になる。お昼ご飯を食べたらもう夕方。三日に一回は旅サラダを見ている気がする。転がり去ってゆく毎日。何とか食い止めなければ、あっという間におばあさんだ。
以前、このコラムで32歳になることへの葛藤を書いた。読み返してみようと思ったが、恥ずかしくて無理だった。いや本当は流し読みしてみたのだけれど、自我の塊のような文章がチラチラ目に入ってきただけで悶絶して、すぐに画面を閉じた。
自分が書いた昔の文章を読むなんて身体に毒。拷問だ。とは言え、この3年で大人になったわけでもない。母親になったというところは変わったかもしれないが、今でも私は自我の塊だと思う。だから自分が書いた文章さえも受け付けないのであろう。ただ、あの頃と今を比べてみると、年を重ねることへの想いが違う。恐怖も葛藤もなければ、特にワクワクもしていない。現実を現実として静かに受け入れている。
・・・う、うそです。まだそんなに大きい器は持ち合わせておらず、もっと悲観的なものだ。何というか、、、堪忍しているような感じ?アラフォーかー。そうですかー(遠い目)ってな具合に。
年齢を訊かれたときによく「今年で○歳になります」という答え方をしてしまう。4月を過ぎたあたりからそうするので、誕生日を迎える11月までの7か月ほどは実際よりもひとつ大きい年齢を言っている。そのうちに本当に自分が今年迎える年齢になっているような気がしてきて、誕生日にはもはや自分がいったいいくつになるのかわからなくなるという問題まで発生している。
前回もしっかり「わたし36だっけ?」となった。アラフォーになるんだとドキドキしていたが、なってみると拍子抜けするくらいに何にも感じなかった。節目はもう少しずっしりくるものがあるのかなと思っていたが、何も考えないまま遠い目をして終わった。転がっている途中に35歳があり、そこには何の感慨もなく、表情ひとつ変えず、ただまた転がっていくだけという毎日だ。
しかし、これは危険信号なのではという焦りもある。焦っていないという焦り。転がるスピードがただ加速しているだけなのではとも思う。年齢を重ねることに対して、恐れて抗うか、それとも受け入れて楽しみにするのか、せめてどちらかでいたい。朝昼晩、一日一日が滑らかに流れていくような日々は、ある意味では心地よくもあるが、振り返って眺めてみると、見通しが良すぎて味気ない。それは、子育て中の今だから感じることなのだろうか。
子の方は日々、成長している。無事に二歳になり、ボタンブームも健在だが、最近のお気に入りは「猫」だ。さっきも公園で老犬と思しきチワワを見つけ、うれしそうに「ねこ!ねこ!」と叫びながら駆け寄っていた。飼い主は微妙な顔で微笑んでいたが、チワワの方はとても迷惑そうだった。何をしでかすかわからない幼児が近づいてくるだけで嫌な予感がするだろうに、おまけに猫と呼ばれているのだ。(犬とも呼ばれたくないだろうが)
少し前までは犬と猫の違いがなぜわかるのだろうと不思議に思ったくらい、犬はわんわん、猫はにゃんにゃんと言い分けることができていた。しかし、にゃんにゃんより『猫』と発した方がかっこいいのではと気付いたようで、小さな動物はすべて猫になった。猫と言いたいあまりに、猫が登場する絵本を片っ端から持ってきて、物語とはまるで関係のない小さな挿絵の猫を指さしては「ねこ!ねこ!」と大声を出している。
この猫ブーム到来の理由は恐らくアニメである。彼女がお気に入りの「うっかりペネロペ」というコアラが主人公のアニメでは、猫のことを猫と呼ぶ。今までにゃんにゃんだと信じていた彼女はさぞ疑問に思ったことだろう。しかし何度見ても、自分がにゃんにゃんと呼んでいる生き物を差して、ペネロペは「猫」と言う。ならばこれは猫なのだろうと理解する。試しに「猫」と呼んでみる。周りにいる大人が「猫って言えるようになってるやん!」と手を叩く。もっと褒められたい。もっと喜ばせたい。ねこ。ねこ。ねこーーーーーー!!!!!
このように彼女は進んだり戻ったりしている。犬は犬だったのに猫になってしまった。しかしその全てが成長なのだ。夜寝る前と朝起きた時では何かが違う。昼寝から覚めてきただけで、ちょっと大きくなっている気がする。変化していくという成長。彼女を見ていると、それに比べて私は、と思うことがある。新しく吸収したり覚えたりすることの少なさよ・・・なんてがっかりしてしまったりする。しかし、滅多に読まない育児書からある言葉を見つけて、両目から三枚ずつくらい鱗が落ちた。
“日本の20歳の好奇心は、スウェーデンの65歳並み”
というものだ。まず単純に日本人の好奇心の低さに驚いた。しかし、スウェーデン人が65歳になっても私たちが20歳の頃に感じていたあのワクワクする気持ちをまだ持っているんだと考えると、何だか羨ましくて仕方なくなった。
好奇心。それは、お金では手に入らないものだ。ないからと言ってすぐに作れるものでもないだろう。自分の好奇心がどれくらいあるかを計ることもできない。もちろん子供の頃よりは圧倒的に少なくなっているし、20歳の頃よりも、いやここ数年だけで、かなりなくなっている気がした。
好物のカレーや、大好きな音楽も、新しいものを知りたいというより、あの味がまた食べたいし、気に入った曲をずっと聴き続けていたいとリピートすることの方が多い。ほんの数年前までは、新しい店をいくらでも知りたかったし、新しいアーティストを見つけることが嬉しかった。初めてのお店に入る瞬間、初めての曲を再生する瞬間はとてもワクワクしていた。
私の危険信号は、これが原因だったと思う。好奇心がなくなってきているという無意識の焦り。しかし、あの育児書を手に取らないと、それに気が付くことさえできなかっただろう。さっきも書いた通り、育児書の類はほとんど手に取ることがない。ひねくれている私は、どうせ理想論ばかり書いてあるのだろうと遠ざけてしまっていた。しかし、私の中にほんの少しだけ残っていた好奇心が、その育児書を手に取らせ、結果的には私自身が育てられた。このひねくれた根性も好奇心の邪魔をしているに違いない。物事を斜めから見る癖を少しは直して、干からびかけていた好奇心を育ててみたいと思う。
好奇心があっても、時が流れるスピードは変わらないだろう。いやむしろ、さらに加速するのではなかろうか。しかし、それは悪くないことだ。ワクワクしながら転がって、そのままおばあちゃんになるなんて、とても素敵だ。あと半分の30代。“転がり落ちる”のではなく、踊るように、弾むように転がりたい。鱗を三枚落とせたおかげで、視界は良好だ。
- 著者
- 加藤 紀子
- 出版日
好奇心の記述があった本です。実はまだ全部読めてないし、きっと読んで理解していくのは子供の成長に合わせて・・・という感じになりそうなので詳しくは書きませんが、子どもの好奇心をいかに伸ばしてあげるかということは、そのまま大人にも実践できるのかもと思いました。例えば、調べごとにスマホを使わないようにするとか、図鑑を買ってみるとか。子育てはもちろん、大人を育てるのにも役立ちそうな一冊です。
- 著者
- 城島 充
- 出版日
実は私、ノンフィクションのお話もあまり手に取ることがありません。本を読むときくらい、現実逃避させておくれよという理由からなのですが、ピンポンさんは読んでいくうちにノンフィクションということを忘れてしまい、しかし思い出す度に鳥肌が立つ作品でした。
主人公は高1で卓球をはじめ、5年後には世界の頂点に立っていたという荻村伊智朗さん。荻村さんの持つ尋常じゃない程の好奇心、探究心は読む人の心を激しく揺さぶります。勝負の世界に触れて一喜一憂しながらも、自分にはこんなに夢中になり、血のにじむような努力をした経験はあるのだろうか、またやってくるのだろうかと。そして、荻村さんを陰で支えた女性の見返りを求めない優しさや強さも、恵まれすぎている時代を生きる私たちには、立ち止まって周りを見渡してみるきっかけを与えてくれます。もっと早く、この本に出会いたかったと思いました。
小塚舞子の徒然読書
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