ペリー来航によって日本が混乱するなか、江戸幕府によって実施された「安政の改革」。一体どういうものだったのでしょうか。この記事では、改革の内容や目的、改革を主導した老中首座の阿部正弘の功績などをわかりやすく解説します。また関連するおすすめの本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
1853年に、当時の老中首座だった阿部正弘が主導して実施された幕政改革である「安政の改革」。そのきっかけとなったのは、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が来航したことでした。
改革の大きな目的は、ペリーだけでなく、イギリスやロシアなど欧米列強の外国船が相次いで日本近海に姿を現す状況で、幕府の権威や権力を高めること。阿部正弘が重要視したのが、家柄や身分に囚われない「能力主義に基づく人材登用」と、親藩・譜代・外様に関係なく各地の大名、旗本、庶民などから「広く意見を求めること」です。
徳川吉宗による1716年の「享保の改革」、松平定信による1787年の「寛政の改革」、水野忠邦による1841年の「天保の改革」が江戸時代の三大改革として知られていて、これらと比べると「安政の改革」は、知名度では劣りますが、研究者の間ではその内容の新しさ、そして後世に与えた影響の大きさから三大改革に次ぐものと高く評価されています。
その一方で、「安政の改革」によって衰えつつあった幕府の権威はさらに低下。死に体の状態に陥ってしまったと厳しく評価する声も少なくありません。
阿部正弘が老中首座となる前、この地位にいたのは水野忠邦です。当時は全国的に凶作で、米価をはじめ物価が高騰。天保の大飢饉や百姓一揆、大塩平八郎の乱がなどが起こり、社会不安が広がっていました。さらに1840年から続いていた「アヘン戦争」で清がイギリスに敗れるなど、危機感が高まっている状態です。
水野忠邦はこのような状況に対処するべく、「天保の改革」を推進。人事の刷新や綱紀の粛正、海防政策の強化などに取り組みました。
水野忠邦が取り組んだ政策のひとつが「上知令」です。いつ外国船が日本に攻めてくるかわからない状況のなかで、政治の中心である江戸や経済の中心地である大阪の防衛体制を整備することが主な目的でした。
当時の江戸や大阪の周りは幕府領、大名領、旗本領が複雑に入り組んでいて、いざという時に非常に守りにくい状態。この問題を解決するために、水野は江戸と大阪の10里四方に領地をもつ大名や旗本に対し、領地を幕府に返上させ、その代わりに対象外の地域に新たな領地を与えたのです。
しかしこの政策は領地替えによって莫大な経費がかかる大名や旗本だけでなく、領民からも大きな反発を招きました。この頃の大名や旗本は領内で藩札や旗本札を発行し、領民から借金をしている例が多く、領地替えともなればこれらの藩札や旗本札は効力を失い、無価値なものになってしまう恐れがあったためです。
反対派は、大阪周辺に領地を持つ下総国古河藩主で、老中の土井利位を盟主に担ぎ上げ、上知令の撤回と水野忠邦の老中罷免を画策。1843年に水野は失脚してしまいます。
1845年に老中首座となった阿部正弘ですが、「安政の改革」の前にもさまざまな改革をしていました。1845年には海岸防禦御用掛を設置して外交・国防問題を管掌させ、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭などから広く意見を求め、川路聖謨、井上清直、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など有能な人材を多く登用。1846年にはジェームズ・ビドル率いてるアメリカ東インド艦隊が浦賀に来航して通商を求めるものの、鎖国を理由に拒絶しています。
この時にビドルが強硬な手段に出なかったのは、ジョン・カルフーン国務長官より「辛抱強く、アメリカへの敵愾心や不信感を煽る事なく交渉せよ」との指示を受けていたからです。しかし7年後にやってきたペリーは、前任者の失敗を分析し、日本人に対しては「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点がある」と考えていました。
阿部正弘は、1819年12月3日、備後国福山藩の第5代藩主である阿部正精の5男として生まれ、病弱だった兄の跡を継ぐ形で、1836年に第7代藩主となります。阿部氏は徳川家において最古参の家臣「安祥譜代七家」のひとつに数えられる家柄で、幕閣の中枢を担う人材を多く輩出してきました。
正弘の父の正精も老中を務め、その功績として江戸の範囲を確定したとして有名です。当時、「江戸御府内」という言葉がよく用いられていましたが、その範囲は明確なものではありませんでした。そこで、正精は1822年、東を中川、西を神田上水、南を目黒川、北を荒川及び石神井川とする範囲を江戸御府内とすることを定めたのです。
正弘は1838年には出世の登竜門とされる奏者番に、1840年には老中一歩手前の寺社奉行に就任。1843年、25歳という若さで老中に就任します。
阿部正弘について、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストの徳富蘇峰は著書『近世日本国民史』の中で、「優柔不断」「八方美人」などと評価しています。これは彼が人の意見はよく聞くものの、なかなか自分の意見を言わなかったことが大きな要因でした。
幕末の越前福井藩主である松平春嶽の『雨窓閑話稿』には、ある人がなぜ自分の意見を言わないのかと尋ねた際、阿部正弘が「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる」とし、「だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心掛けている」と答えたという逸話が収録されています。
また幕臣の木村芥舟によると、正座するのも苦痛なほどの肥満体だったそうですが、人の話を聞く時は姿勢を崩すことなく、正座を続けていたのだとか。阿部正弘が退室した後は畳が汗で湿っていたそうです。
老中首座として「安政の改革」を主導した阿部正弘は、1857年8月6日、老中在任のまま江戸で急死しました。39歳の若すぎる死でした。死因については、肝臓がんによる病死、激務による過労死など諸説ありますが、なかには外様大名などを幕政に参画させたことに反発した譜代大名によって暗殺されたという説もあります。
老中になった直後から、家柄や身分に囚われることなく、能力主義で人材の登用を行った阿部正弘。「安政の改革」で登用された主な人物としては勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らが有名です。
勝海舟は小普請組の旗本、勝小吉の子として1823年に生まれ、蘭学を学んだ後、私塾「氷解塾」を開いていました。阿部正弘に見出された後、長崎海軍伝習所に入所。1860年には咸臨丸に乗って渡米し、帰国後は軍艦奉行並、幕府軍軍事総裁を歴任します。西郷隆盛と交渉し、江戸城無血開城を実現するなど大いに活躍し、「幕末の三舟」に数えられました。
大久保忠寛は1817年に旗本の大久保忠尚の子として生まれ、第11代将軍である家斉の小姓として出仕。阿部正弘に見出されると目付・海防掛に任じられました。阿部正弘に勝海舟を推挙したのも大久保です。その後、軍制改正用掛、外国貿易取調掛、蕃書調所頭取、駿府町奉行、京都町奉行を歴任。井伊直弼による「安政の大獄」で一時失脚しますが、「桜田門外の変」の後に復帰し、外国奉行、大目付、御側御用取次などを務め、公武合体や大政奉還、江戸城無血開城などの実現に尽力しました。
永井尚志は1816年に三河国奥殿藩第5代藩主の松平乗尹の子として生まれ、25歳の頃に旗本である永井尚徳の養子となります。1853年に目付となった後、1854年には長崎海軍伝習所の所長に相当する総監理に就任。長崎製鉄所の創設などに尽力しました。その後、外国奉行、軍艦奉行を歴任しますが「安政の大獄」で失脚。「桜田門外の変」の後に復帰し、京都町奉行、大目付、若年寄を歴任し、主に朝廷や新政府側との交渉に手腕を発揮しました。
高島秋帆は1798年に長崎町年寄の高島茂起の子として生まれ、オランダ人からオランダ語や洋式砲術を学び、高島流砲術を完成させます。阿部正弘は高島を「火技中興洋兵開基」と讃え、江川英龍などに高島流砲術を伝授させました。
「安政の改革」がおこなわれる以前から、ペリー来航を機に品川や浦賀に砲台を構築するなど、阿部正弘は海防政策にも力を入れていました。
幕府水軍を創設し、水戸藩に旭日丸、浦賀奉行に鳳凰丸の建造を指示。諸藩にも大船建造を解禁し、外国からも積極的に軍艦を購入します。また乗組員を養成するため、オランダのウィレム3世国王から第13代将軍の家定に献上されたスンビン号を観光丸と改称したうえで、同艦を練習艦とする長崎海軍伝習所を1855年に創設。オランダ海軍から派遣されたペルス・ライケンやホイセン・ファン・カッテンディーケらを教官とし、航海術や医学、造船学などを学ばせました。
生徒は幕府のみならず薩摩、長州、土佐、佐賀、熊本など西国雄藩からも派遣。勝海舟や榎本武揚、川村純義など海軍創設に大きな貢献をした人物だけでなく、「からくり儀右衛門」の名で知られ、後に東芝となる芝浦製作所の創設者、田中久重なども輩出しています。
- 著者
- 穂高健一
- 出版日
25歳という若さで老中となった阿部正弘。そんな彼に後世の人々が与えた評価は「八方美人」「優柔不断」といったものでした。その背景には、彼が新政府によって敗れた幕府側の最高責任者であったことがあります。
「歴史は勝者が紡ぐもの」といわれますが、その典型例のひとつでしょう。現在でもペリー来航によって慌てふためく幕府が強調されることはあっても、ジェームズ・ビドルへの対応について知る機会は非常に限られています。
攘夷か開国かで国が大きく二分されるなか、双方の意見をよく聞き、「善きを用い、悪しきを捨てる」ことに心血を注いだ阿部正弘。彼の名老中としての新たな一面に気づくことができるおすすめの一冊です。
- 著者
- 加藤 祐三
- 出版日
- 2012-09-11
「泰平の 眠りをさます上喜撰 たった4杯で夜も寝られず」という有名な狂歌があります。ペリー来航に対して江戸幕府の混乱ぶりを風刺したもので、アメリカの軍事圧力で幕府はなすすべなく開国を認めさせられたいうのが長い間定説とされてきました。
本書ではそんな定説を、日米双方の資料を丹念に読み解きながら検証しようと試みています。その結果浮かび上がってきたのは、軍事衝突を回避しつつ、受け入れるべきは受け入れ、主張すべきは主張する、無能とは程遠い江戸幕府の外交能力の高さでした。
それを可能としたのが、阿部正弘をはじめ、幕府がオランダ商館長やアメリカでの生活経験があるジョン万次郎などから得た欧米の情報です。当時の日本も西洋列強諸国と外交交渉をするに足る知識と実力をもっていたとわかる、目から鱗が落ちる一冊です。