口コミに口コミしてみる【小塚舞子】

更新:2021.11.30

友達とランチに行く約束をする。時間は12時ちょうど。場所はお互いに大阪駅が便利だから、その辺りで。待ち合わせはいつもの所にしよう。さあ、どこに行こうか。何を食べようか。よく行く場所なのに、いざ考え出すとちょうどいいお店が思いつかない。

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口コミの精度

友達にも訊いてみる。彼女も同じ答えだ。たくさんお店があることはわかっているけれど、あり過ぎてわからないと言う。食べたいもののリストを出し合ってみる。せっかくだからちょっと贅沢をして、お寿司でもという意見が合致する。ランチならそれほど値が張ることもないだろう。インターネットで『大阪駅 寿司 ランチ』と検索してみる。・・・出てくる出てくる、寿司の嵐!寿司屋じゃないけどお寿司を出しているお店もたくさんあった。

さて、どうやって選ぼうか。値段?お店の雰囲気?ゆっくりできるソファー席にも惹かれるけれど、やっぱりカウンターがいいかな。とは言っても一番大事なのは美味しいかどうか。よし!とにかく口コミを見てみよう。

私はこうして、初めて行く店を選ぶとき、化粧品を買うとき、旅先のホテルを選ぶとき、つい口コミをチェックしてしまう。きっと多くの人がそうしているだろう。だから、あらゆるジャンルの口コミが存在している。見るには見るけれど、書いたことはない。これもきっと多くの人がそうなのではなかろうか。わざわざ口コミを書く人はすごいなと思う。実際、絶賛されていたお店や物にハズレはなかったから概ね信用できる。しかし、逆の場合はどうなのだろう。絶賛されていないお店が優れていないとは限らない。口コミは、便利な反面、思わぬ出会いの機会を逃しかねない。

昨年、家族で高知に旅行に行った。今になると、旅行に行くなんてと罪悪感があるのが悲しくなるけれど、ちょうどGOTOトラベルを推進している時期で、安くて快適で楽しい旅ができた。高知は旦那さんが大好きな土地だ。私も彼に出会ってから初めて訪れ、ハマった。何を食べても美味しくて、自然が豊かでただ呼吸をするだけで気持ちよく、しかも人が大らかで温かい。高知に行くと、決まってどうすればここに移住できるかという話になり、リモートで仕事ができるか、家を買うとするといくらくらいなのかを夫婦で真剣に話し合うくらいだ。おいしいお酒を飲みながら、そんな話ばかりしているのもまた楽しい。

旦那さんは高知が気に入り過ぎて、度々ライブでも訪れており、知り合いが何人かいる。皆とてもいい人で、私たちが行くとなると、美味しいお店や旬の物、おしゃれなカフェなどをたくさん教えてくれる。どこも本当に最高で、高知に行く度にもう一度行きたい場所が増えるばかりだ。地元の人しか知らないようなお店も、ガイドブックに載っているような観光スポットも良い。夕飯を食べる所だって、もっと別のお店にも行ってみたいのに毎回同じ居酒屋に行ってしまう。カツオを食べる所もいつも同じだ。

そんな風に過ごしていると、口コミを見る必要なんて全くなくなる。もちろん、知り合いからの口コミと言えば口コミだし、知り合いがいるからできることなのだけれど、それに頼らずにいるとだんだん勘も働くようになってきて、自分たちで良いお店を見つけられたりする。仁淀川に向かう途中に立ち寄った茶屋で買ったお寿司が美味しかったので帰りにまた寄ると、お店の中で食べられるそばやかに汁もとても美味しかった。旅先でふらりと立ち寄ったお店がアタリだと嬉しい。

出会いのきっかけ?機会の損失?

しかし、一度だけ口コミを見てしまったことがあった。高知市内から少し離れたところで遅めのランチをしようとしたところ、旦那さんが知り合いから教わったと言うお店が近くに何軒かあった。昼時は過ぎていたので、もう閉まってしまっているお店もあったが、一つはちょうど次の目的地までの途中にある。プレートで出してくれる色とりどりのランチが美味しそうだった。しかし、さらにそこから足を延ばせばパンやケーキが美味しいらしいカフェもある。どちらも捨てがたい、どうしようかと思っていると旦那さんが店名をスマホで検索してくれた。

するとプレートの店の方が『その店の名前 接客』と出てくると言う。気になったのでそのまま検索を続けてみると『最悪の接客』だとか『二度と行かない』だとか、悪評がいくつも出てきた。いや、そんなにたくさんの投稿は無かったのかもしれない。しかしそこに書かれている言葉の強さが恐ろしくなって、結局少し離れたカフェに行った。そこは想像以上に素敵なカフェだった。日当たりがよく気持ちいい。もちろんパンもケーキも美味しい。おまけに子どもにも優しくしてくれてとてもいいところだった。ただ、何となくさっきの店が気になっていた。

その夜、旦那さんの知り合いに会った。そこで、例の店について訊いてみた。すると「あぁ!店の人がめちゃくちゃシャイなんです!だから誤解されやすいんですよね」と教えてくれた。やってしまったと思った。口コミに踊らされたことが悲しかったし、申し訳ないような何とも言えない気持ちになった。写真で見たプレートランチはとても手が込んでいて、きっと作るのに時間がかかるんだろうなぁと感じていたのに、その自分の直感よりも名前も顔も知らない人が書いた、もしかしたら嘘かもしれない口コミを信じて、そこに行くのをやめてしまったのだ。

顔も名前も知らない、そして明かさない人。ニックネームだったり英語と数字の羅列だったりする、その何者かが実在するお店にあれこれ批評する。当然お店側が美味しいものを作って、笑顔で接客をし、店内を清潔にしたり、お客さんを待たせないように工夫したり、行列ができてしまったときには適切に案内すればいいのだろう。

しかし、その全てを毎日完璧にこなしていたとしても、味の好みは人それぞれだし、店員さんにいろいろ話しかけてほしい人もいれば、そうでない人もいる。清潔さも、待つ時間の長さをどう感じるかも、その人次第だと思う。行列のできる店は忙しい。代表者が店の行列に並んでおり、その連れの人たちがあとから来て割り込みをしたとしても、それを監視することは難しいだろう。しかし、客同士でトラブルになると、真面目に並んでいた後ろの人も、前に並んでいた関係のない人も、嫌な気分になってしまう。そして最悪の場合、さもお店の案内が悪かったような印象で、ネットに書き込まれたりする。もはやそれは、お店の努力だけではどうにもならないような気がする。運命のような。そのいたずらのような・・・。

口コミの外の世界を想像して

高知でカフェを営んでいる、シャイな店主は、口コミを見ただろうか。見ていないといいけれど、もし見てしまったとしたら、きっと傷ついただろう。お店には、そこに立つ“人”がいる。料理を作るのも出すのも、“人”だ。お店の悪口を書いているつもりでも、書かれている方は個人のものだと受け取ってしまう。

口コミを書いた“人”にも、事情があることもわかる。きっと食事を楽しみにしていたのだろう。大切な人とのデートだったのかもしれない。貴重な時間を割いて訪れたのかもしれない。誤解だったのか否かは当人にしかわからないけれど、よほど気分を害したのだろう。でも、『二度と行かない』は自分の決心として、心の中に留めておけば良いのではと思ってしまう。わざわざ人の目に(何なら本人の目に)触れる形で残すのはナンセンスだ。

しかし、いいことばかり書いても成立しない口コミという文化はこれからも続くだろうし、私も利用するだろう。肌が荒れやすい私は、化粧品などの口コミはとてもありがたい。同じような敏感肌の人が書いたものを参考にすることもよくある。食事をするときも、子どもができてからは余計に、口コミを見て子どもが行きやすいかを確認するようになった。ママ目線の口コミは的確だ。ただそれを全て鵜呑みにしないように心掛けなければいけない。

良い口コミは信じるとしても(たとえそれがサクラのような存在だったとしてもいいと思う)、悪い口コミは、それがどうして書かれたのか想像したり、その裏側を考えたりしていきたい。そして口コミばかり見ていては、自分の冒険の範囲を狭めてしまう。たまには歩いていて気になったお店に飛び込みで入ってみるのもいい。そこがよくても悪くても、経験値がひとつ上がるだけでいいのではないか。

ちなみに私は、好物のカレーの口コミはほとんど見ない。写真だけを見て味や香りを想像する方が楽しいからだ。想像通りだと嬉しいし、想像と違っていても悔しいなりに新たな発見があって次に活かせる。誰かの意見より、自分の直感を信じる方がワクワクもする。失敗した経験があるからこそ、直感が働くようになるのかもしれない。私たちは便利で小さな世界に囚われがちだ。便利さを捨てれば、世界はもっと大きくて、自由で、きっと無限に楽しめる。

今、私たちに必要な本

著者
中村 文則
出版日

第二次世界大戦下、ある作戦を成功へと導き『悪魔の楽器』と呼ばれたトランペットを持つ主人公が絶体絶命に追い込まれるところから、物語は始まります。そこから読者は、潜伏キリシタンの歴史、戦争下で暮らす人々や戦う人々、政治、宗教、そして現代の誹謗中傷や差別・・・とあらゆる時代の悲劇を辿ることになります。悲劇なんて言葉では決して片づけられない、片づけてはいけないことも。

読んでいる途中息苦しくて、飲みこめないものを無理やり飲みこんでしまったような感覚になりました。でも一気に読めました。どの時代が良くて、どの時代が悪いかなんてわかりません。しかし、ニュースやネットに振り回され、個人の考えを発言しやすい一方で、個人が集中攻撃に遭ってしまう現代を生きる私たちにとって、『生きて、そして死ぬこととは何か』を考えるきっかけをくれる本だと思います。

著者
今村 夏子
出版日
2019-01-24

『あひる』というタイトルから、焼き菓子と熱い紅茶でも飲みながらのほほんと読める牧歌的なものだと思い込んでいたのですが、気付けば本を握りしめ考え込んでいました。

あひるを飼いはじめてから、その家には子供たちが遊びに来るようになります。家に住んでいるのは、主人公であり、医療系の資格を取るために勉強している“わたし”とその両親。わたしの弟が出て行ってしまってから、静かだった家に子供たちの賑やかな声が響き、両親は喜びます。しかし、あひるは病気になって病院に運ばれると子供たちの姿も見えなくなります。2週間後少し小さくなったあひるが帰ってくると、また家は賑やかさを取り戻します。しかしまた・・・

世の中には目に見えるものと見えないものがあって、その中で自分の大切なものを見極めるのは自分なのだということを、背中をぞくっとさせながら教えてくれるような一冊です。

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