1703年12月14日、旧主の浅野内匠頭の仇である吉良上野介の屋敷に、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が討ち入りした「元禄赤穂事件」。後世に「忠臣蔵」として知られるようになりました。赤穂浪士・忠臣蔵討ち入りの概要、その謎について解説します。
1702年12月14日の深夜、旧主であった播州赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇である吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷に討ち入り、吉良および家人を殺害した「赤穂事件」。
赤穂浪士とは、この討ち入りに参加した大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を含む47人の武士のことを指します。
後にこの事件は、「主君に対する忠義心」を題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」として人気を博し、通称「忠臣蔵」として世に知られるようになりました。彼らの忠義心をたたえて「赤穂義士」とも呼ばれています。
ことの発端は、1701年3月14日に江戸城内の「松の廊下」で起きた刃傷沙汰にさかのぼります。この日は朝廷から下向していた勅使たちへの返礼をする、幕府にとって大切な儀式がおこなわれていました。
勅使たちの接待役を務めていたのが、赤穂藩主の浅野内匠頭です。彼が江戸城本丸「松の廊下」にて、魏域の指導役をしていた吉良上野介を斬りつける事件が起きました。
時の将軍、徳川綱吉はこの出来事に激怒し、浅野は即日切腹。赤穂浅野家はお取り潰しとなります。
一方の吉良は眉間と背中を斬られたものの傷は浅く、彼自身にはなんのお咎めもありませんでした。
江戸時代の慣習は「喧嘩両成敗」。それなのに吉良に何の罰も与えられなかったこの結果を不服とする赤穂藩の旧藩士たちは、藩主の無念を晴らすべく、赤穂藩お取り潰しの撤回運動をおこないます。
しかし思うようにいかなかったため、主君の仇討ちとして吉良を討ち取ることを決めたのでした。
大石内蔵助ら47名の藩士は水面下で準備をすすめ、浅野の命日でもあった1702年の12月14日未明に吉良邸へ討入り。およそ2時間後に吉良を発見し、その首をとって目的を達成したのです。
吉良邸を引き揚げた一行は、浅野家の菩提寺である泉岳寺に向かい、亡き主君の墓前に吉良の首を供えました。
赤穂浪士たちへの採決は、死罪か助命か、賛否両論に分かれます。世論としては助命の声が大きく、幕府内でも意見が揺れに揺れた結果、ついに「徒党を組んで暴挙に至った復讐」と判断され、切腹という処分が下されました。
1303年2月4日。各大名屋敷に預けられていた赤穂浪士たち46人が切腹。一連の事件は終焉を迎えます。ここでひとり足りないのは、寺坂吉右衛門という人物がどこかに消えてしまったから。この理由はいまだ分かっていません。
後にこの事件は歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」として人気を博してから「忠臣蔵」として世に知られるようになりました。しかしいくつかの謎が秘められています。
ここからは、その謎について考えていきましょう。
浅野内匠頭がなぜ刃傷事件を起こしたのか、その動機は不明で、諸説あります。
浅野が吉良を斬りつけた際にそばにいて、浅野を取り押さえたという梶川頼照(かじかわよりてる)は、「この間の遺恨おぼえたるかと叫んで斬りかかった」という記述を残していました。
事件後に取り調べを受けた浅野自身も、「幕府に恨みはなく吉良に私的な遺恨があり刃傷におよんだ」と証言しているので、2人の間に何かしらの遺恨があって事件が起きたということがわかります。
詳しい理由がわかっていないのは、大事な儀式の日を血で汚されたことに激怒した徳川綱吉が、浅野を即日切腹にしてしまったから……。
一方の吉良も取り調べを受けましたが、「浅野に恨まれる覚えはない」と言っているため、真相は永遠の謎です。
ここからはあくまでも推測になりますが、2人の関係が歪んでいったのは、浅野が江戸城の接待役に任命されてからのようです。彼はまだ30代なかばの若い殿様で、古いしきたりなどはよくわかっていませんでした。そこで当時60歳を超えていた指南役である吉良に、教えを求めます。
ところが吉良はとても意地悪。とにかく意図的に浅野を困らせました。明日までに畳を何十畳用意しろだとか、来ていく服をわざと違うものを教えたりだとか……そのたびに赤穂浪士たちが駆けずり回り、何とか準備を整えている様子が小説などでも描かれています。
彼がこんなに意地悪をする理由は、浅野が吉良に払った賄賂が少なかったからだともいわれていますが……。
とにかく、吉良の嫌味な振る舞いの度が過ぎ、我慢ならなくなってしまった浅野が持っていた短刀で、江戸城の廊下を歩いていたところを斬りつけたのではないでしょうか。
それでは、なぜ赤穂浪士たちは討入りをしたのでしょうか?
江戸城での刃傷事件を受けて、浅野家は断絶、領地は召し上げられます。その結果、300人あまりの藩士と800人の足軽およびその家族が路頭に迷うことになりました。
赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助は、「喧嘩両成敗」として吉良も処罰することを訴えながら、浅野家の再興に奔走します。しかしこの願いはどちらも叶いませんでした。
しかし彼らには武士の面目があります。志の固い浪士たちは江戸での極貧生活に耐え、偽名を使い、さまざまな職業に就きながら吉良邸の探索をします。たくさんいた同士は50名ほどになってしまいましたが、討ち入りの計画を立てていました。
資金が底をつきそうになったある時、吉良邸で茶会が開かれる噂を聞き、12月14日に決行されました。
復讐譚としての物語よりも、「たとえ成功しても死罪は免れないが、それでも実行しなければ人として成り立たない」という武士の心情が彼らを突き動かしていたのです。
「忠臣蔵」は、小説、ドラマ、映画などさまざまなメディアの題材になり、日本人の心にも深く根をおろしているお話です。ただ我々の多くが知っている「忠臣蔵」は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を題材にしたもの。史実として、この事件の詳細を知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。
本書は、2011年に岡山県の旧家から発見され、著者自身が鑑定した新資料をはじめとする、調書、手紙、日記などを徹底的につきあわせたことで浮かびあがった「真相」。討ち入りにいたる過程をわかりやすく、より正確に解き明かしていきます。
- 著者
- 山本博文
- 出版日
- 2012-04-02
図面が多用され、吉良邸のレイアウトや討ち入り後に泉岳寺まで歩いたルートなどが載っているので、イメージを膨らませながら理解することができます。
文章も読みやすく、当時の資料には現代語訳が添えてあり、難しい感じにはルビもふってあるので、幅広い年齢の方が無理なく親しめるのではないでしょうか。
脚色されたものではない、本当の「忠臣蔵」を知りたい方にはまず最初に手に取っていただきた一冊です。
赤穂浪士たちが主君への忠義を立てた、「忠義の規範」として語り継がれている赤穂事件。
本書は討ち入りをした浪士ではなく、討入りに参加しなかった19人の赤穂浪士たちにスポットを当てた物語です。
なぜ彼らは吉良邸に行かなかったのでしょうか。厳密な歴史考証と豊かな想像力で忠臣蔵を問い直す、歴史小説の傑作です。
- 著者
- 井上 ひさし
- 出版日
- 2012-12-14
「赤穂藩には当時、300余人の家臣がいたんですが、討ち入りに参加するのは全体の、わずか6分の1弱。参加しない方が圧倒的に多数なわけです。それなら、参加しなかった人たちを徹底的に描いた方が、『日本人』と言うものははっきり出るんじゃないか」(『不忠臣蔵』解説より引用)
一般的には裏切り者と思われるであろう、「不参加」を選んだ19人の赤穂浪士。彼らひとりを1話にまとめた連作短編です。人間臭い事情を追いながら、「忠臣蔵とは何だったのか」を再検討しようとしています。
それぞれの不忠不義の理由が最高におもしろい!巻末の年表まで目が離せず、サイドストーリー好きにはたまらない一冊です。
本書は、1927年に毎日新聞の前身にあたる「東京日日新聞」にて連載されていた大佛次郎の小説。翌年に書籍化されるやいなや15万部を売り切り、当時の大ベストセラーになりました。
- 著者
- 大佛 次郎
- 出版日
戦前のヒット作で、「オーソドックスな」忠臣蔵かと思われがちですが、当時はかなり画期的な作品として受け取られたようです。
まず47人を「義士」ではなく「浪士」として捉えた点。そして、従来は「敵討ち」の面が強調されていましたが、そこに理不尽な幕府に物申す「権力に対する抗議」という側面を持ち込んだ点です。
大石内蔵助を、「幕藩体制に抗議する批判者」として描くにあたり、浪人・堀田隼人と盗賊・蜘蛛の陣十郎という人物を新たに造形。事件に接触しながら事件の外にいて批評する立場に置き、忠君愛国的な時代を批判しました。
昭和の読者を魅了した忠臣蔵小説の最高峰、ぜひお楽しみください。
日本人なら誰でも知っている「赤穂事件」。しかし脚色された部分も多いのです。史実に基づいて紐解いていくと意外な真実が見えてきます。ぜひ「本当の忠臣蔵」を探ってみてください。