若手批評家が選ぶ「人間をダメにする」哲学書6冊

更新:2017.1.11

「人間をダメにする」ようなある種の魅力が、すなわち世俗的な意味では何の役にも立ちそうにない思弁へとひとを強制的に向かわせるような目に見えない「力」が、西洋哲学の古典と言われるような書物にはほぼ例外なく備わっています。ひとはゲームにハマるように、哲学にハマることが可能である。そのような可能性を読者に向けて開くため、「人間をダメにする」哲学書6冊をここに紹介します。

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明日いきなり世界が消滅したとしても別に誰も困らない

著者
マルティン ハイデッガー
出版日

 「存在するものはどうして存在しているのか」とか「どうして何も存在しないのではなく、何かが存在しているのか」。
こういった問いは、誰しも漠然と心のうちに抱いたことがあるでしょう。しかし多くの人は、そういう問いを人前で公然と述べることに躊躇します。なぜでしょうか。そういうことを公の場で言ってしまうひとは「子ども」だとみなされるということを、みなよく知っているからです。
ところが、20世紀を代表するドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、この『形而上学入門』という書物の冒頭で、この問いを「形而上学の根本の問い」とか「すべての問いのなかで第一の問い」などと呼んで取り上げ、高く評価します。

たしかに、この、まるで「どうして世界は明日にも消滅しないのか」と言わんばかりの問いには、それを言うことでいろいろなことを終わらせてしまう力が備わっています。言い換えれば、この「問い」の持つ力は「別の始まり」(Ein anderer Anfang)を与えるための力でもあるわけです。つまり、再び「子ども」になるための力です。

本書においてハイデガーは思考の「別の始まり」を求め、この最初の「問い」から出発したのち、徐々に哲学史への沈潜を深めていくことになります。「20世紀を代表する哲学者」が自らの思考のリセットボタンを押す、まさに哲学史にとっても決定的であるような瞬間(前期哲学から後期哲学へと「転回」)が、この書物には記録されているのです。
 

コギトに辿りつけなかったらいったいどうなっていたのか

著者
ルネ デカルト
出版日

 「われ思うゆえにわれあり」は多くの人が知っている言葉です。しかし同時に、その意味がきちんと理解されることの少ない言葉でもあります。

デカルトは『方法序説』において、これまでの哲学において正面から扱われず放置されてきた難問、すなわち「確実な知識をもち正しく判断することができるようになるための、誰もが使える方法はないのか」という問題にひとつの答えを与えました。それも非常にシンプルな答えを。

まずすべてを疑ってみる。感覚的に受け取っている世界のイメージも、自分がここに存在して、何かを思考しているという当たり前の認識さえも疑う。そして、そのようにあらゆることに懐疑を抱いたとしても、疑っている(=思う)自分自身という「作用」の存在までは懐疑しえないということに、ある瞬間気付く。これが「われ思う」(cogito)の意味です。

しかし、市井の人々に読まれることを意図し、啓蒙的に書かれた『方法序説』にはデカルトのそのような「懐疑」の、いわば結果報告しか書かれていません。他方、専門家向けに書かれたこの『省察』では、コギトに辿りつくまでのデカルトの思弁と懐疑のプロセスがそれなりに整理されたかたちで記述されています。特に第三省察以降、コギトを疑いえないことを認めたとしても、それが現実存在することを言うためには完全な存在としての神が必要であるということが明らかになるにつれて、一度は確信されたはずの「われあり」の認識が、再び危険な思弁の側へと傾き始めます。もしコギトに辿りつけなかったら――そんな戦慄させるような空想を許す点で、本書は時代を超越した古典の名に相応しい一冊でしょう。
 

過去は存在しないもしくはすべてが過去である

著者
アンリ ベルクソン
出版日

 『物質と記憶』は20世紀のフランスを代表する(ノーベル文学賞も取った)哲学者、アンリ・ベルクソンの第二の主著です。第一の主著『意識に直接与えられたものについての試論』は一言でいえば、時計が示すような外在的で客観的な時間に対して、私たちの意識に内在する主観的な時間(「持続」と呼ばれます)が存在する、ということを主張するものでした。

『物質と記憶』では逆に、たくさんの「持続」が共存することができるのはいかなる背景のもとでなのか、という点が考察されます。その考察の結果、「純粋記憶」という途方もない概念が見出されることになるわけです。私たちのもつすべてのイマージュ(image)は決して過ぎ去ることのない過去のなかで共存し、結び付きあうことによって、宇宙自身の記憶、潜在的な知覚のデータベースとでも言うべきものを形成していきます。するとある意味で、私たちが「いま」と呼ぶような、多様な生成としての「持続」も、それ自身は無力でありながらも遍在する、そのような全体としての過去すなわち「純粋記憶」の一断面にすぎない、ということになるでしょう。私たちの時間についての考え方を根底から揺さぶる一冊です。
 

死ぬときは死ぬので言いたいことを言えばよい

著者
プラトン
出版日
2012-09-12

 時代を大きく遡り、紀元前四世紀初頭のこと。一人の老いた哲学者に死刑が言い渡されたことで、哲学の歴史が始まりました。有罪宣告を受けたその哲学者の名はソクラテス。

罪状は無神論を述べ、若者を惑わしたこと。もちろんこれは濡れ衣です。しかし「知者」であるソクラテスに対する大衆の敵意は、当時のアテナイの政治状況も絡んだ根の深いもので、まともに反論しても助かる道はない。となると残された選択肢は、裁判に出廷せず国外逃亡するか(これは当時としては一般的な選択肢でした)、情状酌量を狙って適当に事実を曲げて話しつつ人々に許しを請うことぐらいだったわけですが、この哲学者はあえて人々からの不興を買ってでも真理を述べる道を選び取り――そのように法廷の場でも哲学し続けることこそ、神が自分に与えた使命だと考えていたために――、当然の大敗を喫することになりました。

そして判決が出たあと、大衆の無理解と憎悪に晒されながら死ぬことを、ソクラテスは「善いこと」だと述べます。常識的に考えて、これは壊れた人生観だとしか言えません。しかし、このソクラテスのように「壊れる」ことにこそ、どうやら哲学の本質があるようなのです。ここに記述されたソクラテスの裁判場での様子には彼の弟子だったプラトンによる「創作」が大いに含まれていると言われますが、いずれにせよ哲学の始まりにまつわる「神話」として、本書は一読に値します。
 

壊れつつ作動する機械として欲望を生産せよ

著者
ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ
出版日
2006-10-05

 壊れること、壊れながら作動し続けること。それはゲームを続けるということです。持続を、流れと切断を欲望することです。つまり生産することを欲望しながら、同時にそのような欲望を生産することです。

フランスのポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと政治活動家にして精神分析家のフェリックス・ガタリが共著で世に問うたこの『アンチ・オイディプス』は、時代の反体制的で反権威的な思潮にも乗りつつ、欲望と生産を肯定的なキーワードとして打ち出すその斬新な内容と文体とでもって、瞬く間に広い範囲で大きな影響力をもつようになりました。

本書の執筆動機の中心には、当時の精神分析で支配的だったオイディプス・コンプレックス(もしくはエディプス・コンプレックス)の概念を徹底的に批判することが含まれており、そのせいで若干攻撃的なトーンを帯びすぎるきらいもあってか、あとに書かれた『千のプラトー』と比べ人気が落ちるようなところがあります。しかし壊れつつ作動することをその本性とし、リビドーの流れを切断し接木するものとしての「欲望機械」の概念が主人公として現れるのは、この書物をおいて他にありません。この本そのものが、私たちを「欲望機械」に変えるための一個の機械なのです。
 

原理と原理の衝突から生まれる真空のなかで

著者
イマヌエル・カント
出版日

 私にとって何が知ることのできるもので、何が知ることのできないものなのか。こういう問いは普通、「認識論的な問い」と言われます。イマヌエル・カントの『純粋理性批判』は、近代が生みだした最大の認識論的書物です。

カントはこの本を書くきっかけとなったアイデアが訪れるまでの期間、当時のドイツで有力だったライプニッツ=ヴォルフ学派という、世界を神の意志によって体系的に秩序づけられた調和的なものとしてみなす学派に属しており、そのなかでものを考えていました。カントはイギリス経験論の哲学者デヴィッド・ヒュームによる因果律への懐疑に触れたことで、この「独断のまどろみ」の状況から抜け出すことになり、長い沈黙を経たのち、ついにこの『純粋理性批判』において悟性や理性などの諸能力の働きによって構成される新しい人間のモデル(とそれに相関するところの世界のモデル)を提出するに至ります。

この新しいモデルを打ち出すことによってカントは、人間理性によって正しく知られうることの限界を定め、またその限界を「物自体」と名付けることによって、世界における諸対象の実在を説得力をもって擁護することにさえ成功したのでした。本書全体の中心をなすと言ってよい「超越論的弁証論」と題された部分では、たがいに相容れない二つの独断的な立場(原理)が等しく必然性と妥当性をもつように見えてしまうということから、純粋理性の「二律背反」が指摘されます。たとえば「世界は有限である」という主張と「世界は無限である」という主張とがともに「形式的には」十分に妥当な仕方で証明できてしまうという事実が、それです。理性というシステムが吐き出したこのエラー、この一種の真空状態のうちに、カントの批判は――批評と言ってもいいでしょう――その真の始まりを見出すことになります。