「たるもの」に縛られて【小塚舞子】

更新:2021.12.9

「小塚さんのたぬき、ずっと僕のデスクの上にあるんですよね」 ロケへ向かう車中、突然ディレクターさんに言われた。 …たぬきたぬきたぬき。たぬきってなに。たんたんたぬきのあれ?比喩なのか業界用語なのか、はたまた…ってところらへんで気がついた。たぬきだ。そのまんま。そのまんまたぬき。“ヒガシ”と言いたくなるのは前頭葉の衰えだそうだ。衰えている。いや、たぬきだ。たぬきの置物。前頭葉以外にもいろいろ衰えているので、何ヶ月前だったか何年前だったか忘れてしまったが、ロケで訪れた焼き物の工房でたぬきの置物を作ったのだ。

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爪痕と思い出

ロケで何かしらを作ると、その場で「どうぞ、持って帰ってください」といただいて帰ることが多い。しかしガラス製のものや焼き物などは、焼いたり乾かしたりするのに時間がかかるので、後日スタッフがインサート(商品や景色だけの映像)を撮りに行く際に持ち帰ったり、テレビ局に送ってくれたりして、ほとんど忘れた頃にいただくこともある。焼いたり乾かしたりして時を経たそれは、現場での記憶とはちがっていて、「これはわたしが作ったやつで合ってんのかな?」と思うこともあるが、作ったものをもらえるのは嬉しい。

しかし、ロケでは用途不明のものを作るときもある。(というかロケでは何かしらボケようとしたり、爪痕残そうとして用途不明なものを作りがち)今まで作った用途不明ランキング一位は「にぎり墨」だ。固まる前の墨をにぎって作るものだ。大きめのかりんとうのような柔らかい墨は、温かくてもちもちしている。ぎゅっとにぎると、おだんごみたいで気持ちがいい。職人さんの指示に従いながら、ちょうどいい頃合いまで墨を握ると、それで終わり。一瞬すぎて爪痕はひとつも残せず、ボケしろもない。(そういう番組でもなかったけど)

自分の指の形がついたかりんとう(墨)を木箱の中に入れてもらって、あとは乾くのを待つ。これは自然乾燥で良いからと、そのまま持ち帰らせてもらった。しかし乾くのには三ヶ月ほどかかるというので、せっかく木箱に入れてもらったし、着物とかを入れている引き出しの中にしまってみた。

そして、もちのろんで(前頭葉)すっかり忘れていた。数年後に「これなんの箱やっけ?」と取り出した木箱から謎の物体がポロンと出てきてぎょっとする。しかしそれがにぎり墨だと思い出すと、その時いた人の顔や、墨をにぎったときの感触や匂い、そういえば天気が悪かったような気がするなぁということまで思い出して(記憶を書き換えている可能性もあるが)懐かしい気持ちになった。他にも持って帰ったもののどう使えばいいかわからず、でも捨てられず…というものがいくつかあるが、たまに眺めて思い出に浸るのも悪くない時間なので、ほとんど取っておいてある。

「たるもの」と売れっ子とタレントっぽさと

しかし、だ。ここでたぬきの話に戻ろう。たぬきをデスクの上に置いてくれているディレクターさんの顔には「どうせいりませんよね?」と書かれていた。もしかしたら「捨てといてください」を待っていたのかもしれない。たしかにデスクの上という限られたスペースに飾るとなると、たぬきは大きい。なんとかしたいが、勝手に捨てるのはさすがにためらわれるのだろう。コップとか花瓶ならまだしも、たぬきだし…

その時私は「え!くださいよ!」と言ったが、「いります?あはは」と笑われて終わった。気を使ったと思われたのかもしれない。そもそもタレントの多くは、そういうものを欲しがらない傾向にある。確かに重いものだし、大御所の俳優さんなどに「先日お作りになったたぬきです!さあさあ、どうぞお持ち帰りください!」と言うのも違うような気がする。しかし、わたしは普通に欲しい。ただ、「欲しいので取りに行きます!」とまでは言えない。かっこわるいからだ。

…かっこわるい。なんで?タレントとして。タレントたるもの。

というのがもう最高にかっこわるいのだが、わたしはそういった「たるもの」に縛られて生きてきたと思う。男たるもの、女たるもの。タレントたるもの。

「自分はこういう職業なんだから」「こういう生き方をしてきたんだから」「こう見られているんだから」なんていう、“自分で作る自分像”を目指していているうちに、いつのまにかそれに引っ張られているようなこと、ないだろうか?男たるもの、女たるもの、タレントたるもの。すべて自分が定めた価値観だ。男も女もタレントも“こうでなくてはいけない“なんてことはない。しかし“たるもの”に続く言葉は“〜でなくてはいけない”になってしまう。

“タレントたるもの、かっこよくなくてはいけない。”
これが、わたしが引っ張られてきた「たるもの」だ。

…オホン。ここでちょっと前置きをさせてください。決して悪口でも皮肉でありません。決して、決して、決してです。だから、澄んだ青空のような健やかな気持ちで聞いてください。

ロケ中にあんなに美味しがっていたお菓子なのに、店の人がそのお菓子を「どうぞどうぞ」と持たせてくれたお土産は車に置いて帰る、という光景をたびたび目にしてきた。若い頃はびっくりしたが、だんだん見慣れてきて、かっこいいと思うようになった。そもそもあまり気に入ってなかったのか、美味しかったけど家でまた食べるほどじゃないのか、他のスタッフや出演者が食べられるように遠慮しているのか、わからない。しかしそのわからなさが、かっこよかった。

(わたし調べだと)売れている人ほどそうする人が多い。単純に忙しいから、お菓子を次の現場に持っていくのが大変だという理由かもしれないけど、それも含めて自分の仕事をこなしたら颯爽と帰っていく様子に憧れた。ひょうひょうとしている感じがタレントっぽくていい。

しかし、美味しいものは家でも食べたいし、何なら家族にもあげたいので、全然断れない。いっぱい持って帰りやと言われたらいっぱい持って帰ってしまい、颯爽と帰ることもできず、かっこよくもなれない。もちろん売れてもない。

「たるもの」を捨てて見えたもの

売れているから、ひょうひょうとした振る舞いができるのか。元々ひょうひょうとしているから売れているのか。タレントとして売れたいなと思っているときは、そんなことも考えていた。売れたいな、たくさん仕事したいなという漠然とした理想像に引っ張られて自分を見失っていた。“売れている”というのがどういうものなのか、“売れて何がしたいのか”ということは考えもせず、というかそれを考えることからは逃げて、とにかくそれっぽい振る舞いができるようにしていた。しかし、欲深いわたしはお菓子を断れず、かと言ってたぬきを心から欲しいとも言えず、中途半端なところでフラフラしていた。

それが、コロナ禍で仕事が減ったりして、マイナスなことをぐるぐる考えているうちに、何だかとっても、どうでもいいなと思えるようになってきた。わたしは一生、ひょうひょうとした振る舞いなんてできない。もし、周りからそう見られることがあったとしても、自分の感情の中では不安とか迷いとか欲とか、いろんなものがぐるぐるドロドロ渦巻きすぎて、無の境地に陥っているだけだと思う。でもそれでいい。それでいいと思えるから、こんなことを言ってしまえるようになった。そして、心の底から、楽になった。

ひょうひょうと見えている人だって、何も考えていないわけではないだろう。本当はぐるぐるドロドロしているのかもれないのだ。そこを無視して表面を真似たって仕方ない。わたしは人に見られるような職業を選んでしまったから、「人に見られること」を人一倍気にしているのだと思っていたけれど、どんな仕事をしていたって、学校に行ってたって、ブラブラしていたって、同じなのかもしれない。

仕事をしているとき、先生と話しているとき、友達と過ごしているとき、家族と過ごしているとき、一人でいるとき。俯瞰で自分を見たら、全部ちょっとずつちがっているものではないだろうか。お母さんが電話にでるときにいつもより声が高くなるあの感じ。あれだって全然不自然ではないじゃないか。

「たるもの」が必要な人もいると思う。「政治家たるもの!」とか。…いや、いらないか。

自分の内側を見つめたり、理想像を思い描いたりすることも、きっと大切なことだ。しかし“こんな風に見られたい”と他人の目になって自分を見つめてばかりいると、自分の目で外を見ることを忘れてしまう。「誰にどう見られても良い」というとあまりにも投げやりに感じるが、着飾ることよりも、自分の着心地重視。その感覚を心にも身につけたい。

あと、前頭葉の衰えも食い止めたい。

「たるもの」から解放される本

著者
山本 文緒
出版日

東京に出て、自分の好きなブランドで働いていた32歳の都は、親の看病のために実家に戻り、近所のアウトレットモールで働き始めます。恋愛、結婚、介護、仕事、友達づきあい。あちらから見た自分、こちらから見た誰か、誰かが見る自分。まさに自転しながら公転するように、30代女子が陥る日常の複雑さを、共感共感共感!な物語で綴られていて、「わっかるー!」と何度も思いながら読みました。

主人公が「自分らしさ」を捨てているようで、実は形成している様子にはとても励まされます。固定概念とか、「たるもの」とかにガチガチに固められている人に読んでほしいです。

著者
はるな, 寺地
出版日

突然の婚約破棄に遭った妙。仕事も辞め、周りにも知らせていたのに…と途方にくれて泣いていたところに声をかけてきた菫さんの店「ビオレタ」で働くことになります。そこで売っているのは心を奪われる素敵な雑貨と「棺桶」と呼ばれる美しい箱です。棺桶に入れるのは遺体ではなく、感情や記憶や、捨ててしまいたいのに捨てられないものたち。いつかビオレタを去ると思っていた妙でしたが、そこで人と関わっていくうちに考えが変わっていきます。

物事を見る角度をちょっと調整してくれるような薫さんの存在にハッとさせられました。自分なら棺桶に何を入れるだろうなぁと考えながら、自分の目でちゃんと見つめるということを整えてくれる一冊です。

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