鬼の居ぬ間に何しよう【小塚舞子】

更新:2021.12.11

リビングで一人、時間を持て余していた。やることがあるにはあるが、やる気は起きないし別に今日やらなくたっていい。眠たいような眠たくないような。テレビもラジオもつけない、スマホも見ない時間。つい考えることを探すための考え事をしてしまう。次のコラムは何を書こうかなぁとか、買い忘れていたものはあったかなぁとか。何も考えない時間を作るのは意外に難しい。それもまた考えることのひとつになる。瞑想でもしてみようかなぁとか。考えて考えて、くるくるくる。脳みそが疲れてくる。あ、今日の晩ごはん何にしようか・・と思ったところである言葉が頭上にぽわんと浮かんできた。

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“鬼の居ぬ間に洗濯”

洗濯はさっき済ませた。最近柔軟剤のきつい匂いが苦手になってきて、無香料のものや自然な香りの洗剤を使うようになった。人工的な香りがダメだというアレルギーもあるらしくて、最近友達とそんな話をした。わりとデリケートな話題だけど、いつか書きたいなと思っていたんだった、洗濯。せんたく、せんたく、せんたく。おにの、いぬまに、せんたく、した。おにのいぬま?

・・・ちょっとちょっと。改めて考えるとすごい言葉じゃないですか。鬼の居ぬ間に洗濯。せっかくの鬼不在を利用して洗濯するなんて。鬼がいるときにこそせっせと洗って、働いてますよとアピールすればいいものを。むしろ鬼が帰ってきた時に洗濯が終わっているという方のアピールなのか。そっちの話なのか?いや、そんなせこいことを考えている人には到底思いつかないことわざだ。きっと心が清らかな人が考えたのだろう。出かけてる間に洗濯してくれるなんて。いいなぁ、鬼。幸せだなぁ、鬼。

・・・とか考えて語源を調べたらとんだ勘違いだった。無知!恥!鬼の居ぬ間に洗濯とは、こわい人や気詰まりする人がいない間に思いっきりくつろいで息抜きするという意味。意味そのものは合っていたけれど、肝心の「洗濯」は服やらシーツやらを洗う洗濯じゃなくて、「命の洗濯」を指す言葉だそう。これまたすごい言葉。命を、洗濯する。何をどう洗えばいいのだ。

そもそも私はこのことわざの“鬼”を、姑や旦那のことかと思っていた。(なんて浅はか!)つまり鬼は一緒に住んでいるこわい人で、その人がいない間に洗濯を済ませておけば、小言を言われたりして手を止められないので、早く終わって楽だわぁ!みたいなことわざなのかと思い込んでいた。昔は今より同居している人も多かっただろうし、意地悪なお姑さんと、いちいちうるさい小姑と、全然気の利かない旦那に挟まれて、だからと言って逃げ出すわけにもいかず、唯一の楽しみは一人のときに誰にも文句を言われずに洗濯するくらい・・・という昼ドラっぽい嘆きから生まれたのかと。(最近昼ドラってなくなったね)

現代ならば“鬼の居ぬ間にホテルビュッフェ”とか“鬼の居ぬ間に一人カラオケ”とかに置き換えられるなとさえ思っていたが、意味が違ったことで「鬼の居ぬ間に洗濯」にグッと親近感を覚えてしまった。

特殊能力か上書きできる強さか

我が家に鬼はいない。というか、どちらかと言えば私が夫や子供にとって鬼かもしれない。こわいし、うるさいし。仕事で付き合う人となると、まぁ鬼的なあれもなくはないが、命の洗濯を欲するほどの強烈な鬼はいない。(そちらにおいても私のほうが鬼かもしれない)プライベートでも、基本的に人間関係は苦手だが、これも鬼となりそうな人は避けて生きてきたので、洗濯は不要だ。

となると、鬼はいないということになる。しかしストレスがないわけではない。それなりにイライラするし毒素もたまるし、疲れていると胸を張って言える。最近栄養ドリンクばかり飲んでいるし。でも、何に疲れているのかはよくわからない。私にとっての鬼とはなんなのだろう。

少し話は反れるが、2歳半の娘を見ていると、さっきまで泣いていたのに好きなキャラクターを見た途端にケロッと笑っていたりしてすごいなと思う。私に怒られても引きずったり恨んだりしない。切り替えの早さに感心するし羨ましくもある。その感覚を取り戻したい。私だって幼い頃は持っていたはずだが、いつなくしたのか。小学生くらいで既に失っていた気もする。周りの子どもを見ていてもそうだ。大人ほど鈍くはないにしても、それなりの時間は引きずる。あれほど明確に切り替えられるのは幼児の特殊能力なんだろうか。

いや。切り替えるとか、引きずらないと言うより単純に「すぐ忘れる」だけの話かもしれない。しかし、嫌なことをすぐに忘れられるのであれば、多少生活に支障をきたしたとしても、欲しい。私は、さっさと忘れたらいいものをいつまでも覚えていてしまうし、根に持ってしまう。挙げ句、いきなり思い出して勝手に落ち込んだりして、我ながらたちが悪い。いいことも、悪いことも、蓄積じゃなくて上書きされていけばいいのに。そしたら、悲しいことがあったとき、周りに機嫌をとってくれる人がいなかったとしても、自分で楽しいことをして蓋ができる。

そういえば大人でも、なんでも都合よく忘れてるよなという人がたまにいる。嫌な感じのことがあったのに、何事もなかったかのようにピュアな笑顔を作れる人。こわいけど、いいなと思う。学生のときに無視や意地悪をしてきていた同級生が、服屋の店員さんになっていて「まいこー!ひさしぶり!いつもテレビとか見てるよ!」と話しかけてきたときには驚いた。何とも言えない苦い記憶がこみ上げてきたが、ドギマギしているのを悟られるのも悔しいのでなるべく普通に振る舞った。そして、ちゃっかり社割で服を買わせてもらった。

彼女とはそれきり会っていないし、しんどかった思い出もそのままだが、あのとき逃げていたら、苦い記憶にさらに嫌なものがべったり張り付いているところだった。でも、ちょっと踏ん張ってみたら上書きされたものは社割だった。いいように考えれば、学生の頃は周りのノリに合わせていただけで、それほど嫌われてはなかったのかもしれない。完全に蓋をすることはできなくても、下が透けていたとしても、ちょっとずつ上書きしていくことはできる。

心の洗濯をする時間を

鬼の居ぬ間に洗濯、に戻ろう。わたしの周りには鬼はいない。でも目には見えない思い出やプライド、それが鬼なのだろう。きっと、わたしだけでないはずだ。鬼だと認定すべき人がいれば、息抜きのタイミングもわかりやすいが、大人になれば“鬼”の対象は人よりも、記憶だったり概念だったり、曖昧なものになりやすい。そうなると鬼の目を盗んで羽根を伸ばすのはとても難しい。できることなら脳みそを空っぽにしてみたいが、かなり意識したとしても意識しているという意識が残ってしまう。

それでも、たとえ不自然であったとしても、日常に意識的な休憩は必要だと思う。対象の鬼が見つからなければ、自分自身のストレスにあえて目を向けてみて、そこから逃げたり、少しだけ向き合ってみたりする時間。本当は何も考えない時間を取れればいいのだが、逆に考えることですっきりすることもあった。でも、考えてばかりいるとやっぱり疲れるから、次の休みにはホテルビュッフェに行きたい。好きなものを好きなだけ食べて、「おいしい」に集中してしまおう。マンゴーフェアはもう終わっちゃったかな。

優しく鬼を退治する本

著者
西 加奈子
出版日

八つの短編の中に暮らす人々は皆、人にも言えないし何とも形容しがたいけれど心にぐっと根を張ってしまった悩みを抱えています。そういう言葉にできないものほど誰もが持っていて、消化しきれず、どこかにひっそりとぶら下げたまま生きているのかもしれません。この本の中にはそんなどうしようもない傷をそっと癒やしてくれる言葉が並んでいます。物語を通して語られる西さんの言葉に私はいつも助けられています。

とくに「孫係」という物語。誰かのために“係”を演じることは、とても優しいというお話そのものが優しくて泣きそうになりました。

著者
アカリ・リッピー
出版日

南インド料理を食べ歩いていた時、ベジ料理とアーユルヴェーダが気になりだしました。それまでノンベジ(お肉やお魚を使ったお料理)でしか満足感や満腹感がないと思っていましたが、ベジタリアンメニューでも十分だしむしろ調子が良い。それには何だか“アーユルヴェーダ”にヒントがあるようだと思っていると、ちょうどカレーを食べた帰り道にこの本に出会いました。

“風邪にはこの薬”と決まっているわけではなく、同じ症状でも個人に合わせた薬を出すアーユルヴェーダ。医療だけでなく、肉体、精神、魂を癒やす健康増進法だそうです。この本では「体を整えること」「心を整えること」「食事法」の3つの項目に分けてアーユルヴェーダの考え方がわかりやすく説明されています。中には鬼との向き合い方も出てきて(鬼という言葉は直接出てきませんが)その優しい考え方がとてもいいなと思いました。自分と向き合い、他者や地球を眺めることで、居心地をよくしていくアーユルヴェーダは、だいたいの悩みは全部解決してくれそうなくらい懐の深いものでした。鬼の居ぬ間に読んで欲しい一冊です。

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