「もしあなたが記憶を失ってこの世界に放り出されたらどうするか」みたいな質問はたまに出てくるけれど、記憶を失うことへの想像力って実はかなり足りていないんじゃないか。とこの本を読んで思った。目の前に出された米が食べ物だとわからない感覚とか、自分のことを知っている人が自分をみると決まって悲しい顔になる、思わず逃げ出したくなるような空気とか。僕は全然わからない。怖いんだろうけれど、僕たちは記憶がある状態で記憶がないことを想像するしかないから。 溺れている人の苦しさをわかってあげられるのは、実際に溺れたことのある人だけだ。
「前世の記憶を保持したまま赤子の肉体へ移る(=転生をする)」物語ってあるけれど、あれはなかなか地獄だと思う。自分の意思では満足に動くこともできないし、しゃべることもできない。肉体的には自由がなく思考だけが自由な状態で数年過ごさなければいけないのって、僕なら確実に狂うと思う。
『記憶喪失になったぼくが見た世界』はその逆で、大人の肉体のまま記憶がまっさらになってしまった作者の、苦悩と発見が綴られている。これもまた苦しい。
大学生1年生の坪倉優介さんは、スクーターで帰宅中に、トラックに衝突して病院へ運ばれる。そして目覚めると、何も知らなかった。重度の記憶障害とされ、彼は肉体が大人なまま、ほぼなにもかもリセットされてしまった。
- 著者
- 坪倉優介
- 出版日
記憶喪失って、文字通り記憶(思い出とか)をなくすだけだと思いがちだけれど、坪倉さんの場合は違った。彼は五感の記憶も失ってしまった。これは五感がなくなる、ということではなくて、「そこで感じたことがどういうものなのか、良いのか悪いのかがわからない」と表現するのが良いかもしれない。
たとえば、熱いとか冷たいとかの感覚。お母さんの独白という形で、他人からみた「五感の記憶喪失」が語られている。
お風呂にしても、「熱い」「冷たい」がわからない。だから浴槽の水が冷たくても、おかしいと思わずに入ってしまうのです。あとで見るとぶるぶる震えていて、こっちがびっくりするようなことがありました。
坪倉 優介.記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫).朝日新聞出版.
感覚はあるけれど、それと結びつく常識と言葉がわからない。きっと不快感はあるけれど、それが避けるべきものなのかがわからない。きっとこれが冷たい水ではなくて熱いお湯につかったとしても、反射で外へ出ることはあるだろうけれど、そのまま受け入れて火傷をおってしまうのではないかととても心配になってしまう。読んでいるだけでこれほど心配になるのだから、坪倉さんのお母さんの心労はとてつもないものだったと思う。
しかし、まっさらな状態からの発見は喜びに溢れていることもある。はじめて見た食べ物を口にする瞬間とか。
かあさんが、ぼくのまえになにかをおいた。けむりが、もやもやと出てくるのを見て、すぐに中をのぞく。すると光るつぶつぶがいっぱい入っている。きれい。でもこんなきれいな物を、どうすればいいのだろう。じっと見ていると、かあさんが、こうしてたべるのよとおしえてくれる。なにか、すごいことがおこるような気がしてきた。だから、かあさんと同じように、ぴかぴか光るつぶつぶを、口の中へ入れた。
それが舌にあたるといたい。なんだ、いったい。こんな物をどうするんだ。かあさんを見ると笑いながら、こうしてかみなさいと言って、口を動かす。だからぼくもまた、同じように口を動かした。動かせば動かすほど、口の中の小さなつぶつぶも動き出す。そしたら急に、口の中で「じわり」と感じるものがあった。それはすぐに、ひろがる。これはなに。
坪倉 優介.記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫).朝日新聞出版.
坪倉さんが「おいしい」という感覚を獲得する話が、僕は好きでよく読み返している。「じわり」と広がる感覚を前に戸惑っている彼をみて、お母さんは「もっと口に入ると思ったら『おいしい』と言って」と言い、坪倉さんは「これが『おいしい』ということなんだ」と理解する。このやりとりがとても心地良い。泣きそうにもなる。
このような「悲しみ」と「喜び」がぐちゃぐちゃになって綴られている。ぐちゃぐちゃというのは悪いことではない。「知識や感覚を獲得するのって、こういう曲がりくねった道の上を歩くような働きなんだ」と理解することができる。だからこの本は良い。
坪倉さんは大学一年生で事故に遭い、記憶喪失になった。坪倉さんのお母さんは、それでも彼を大学へ通わせた。文字を読めもしない、ましてや書けもしない状態で大学へ行かせるのは酷なことだと一瞬思うけれど、それが優しさなんだろうと思う。坪倉さんははじめ、気になることは全て目で見て確かめないと気が済まなかった。だから、大学まで行く電車を途中でおりたり、あるいは降りなかったりして、とんでもないところに行ってしまう。
お母さんは行方不明の坪倉さんを明け方まで探し回ったこともあったし、「もしかして私の願望を押し付けすぎているのではないだろうか」と苦悩もする。しかし、「生きていくこととはそういうことだ」と割り切り、辛くても自立させなければいけないと思い至る。だから、「こう生きなさい」と上から抑圧するのではなく、一人の人間として彼と向き合う。
坪倉さんは、同情や憐れみの目が一番嫌いだった、と書いていた。人と会うとみんな自分を見て「かわいそうだ」と悲しい顔をする。そしてその場の空気が重くなる。それが嫌だった。だからよく家を抜け出して誰もいない場所へ行き「生き返らなければよかった」と悩む。
しかしある日、また逃げ出したい一心で家を出て行こうとするところを見つけられ、お母さんに引き止められる。そしてお母さんが「どうして家から出ていきたいの」と涙を流す。その様子を坪倉さんは
口は力を込めて閉じているのに、目から何かが、止まることなく流れている。それを見ると、急に息ができなくて胸が苦しくなった。それは見たくない顔だ。ぼくがこんなことするからこうなるのだ。もうやめよう、もうやめなくてはいけない。
坪倉 優介. 記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.983-985). 朝日新聞出版. Kindle 版.
と理解する。それまでは「気になるものがあったから電車を降りて追いかける」とか、「逃げたいから逃げる」というような「自分がこう思うからこう行動する」という自分の願望に則っただけの内容だったのが、ここから「この人を悲しませてはいけない」というような、他人を思いやる心のもとで思考し、独白するようになっていく。
これ以降、彼は昔の手紙を見て「この頃の気持ちを知りたい」と思うようになったり、やり方を忘れてしまった「絵」を頭で考えてやってみたり、昔の髪型に戻して記憶を取り戻そうとしてみたり、周りに合わせて社会的な行動を取ったりと、自分で考えて工夫して行動するようになっていく。
そして、最終的には彼は絵以外の新しい世界に触れ、才能を開花させるようになる。それが今の坪倉さんの職業である「草木染作家」につながっていくのである。
記憶を失い、五感の情報すらも失った大学生が、周りの手を借りながら世界と触れ、(十全にとはいかないまでも)それまでと同じような生活に戻り、幸せに生きていく。流れだけをなぞると、ノンフィクションの感動モノに感じる。しかし、感動だけでは終わらないところに現実の怖さというか凄みがある。
坪倉さんは、恐怖を抱いている。それは「元の記憶が戻ること」である。坪倉さんは「記憶が戻ることが怖い。今いる自分がいなくなってしまうのが怖い」と言う。坪倉さんは記憶を失ってから長い時間をかけて「全部が新しい世界」「何も知らない自分」と戦ってきた。けれどこれから彼は、「過去の自分に今の自分が消される恐怖」と戦わなければいけない。
もしも昔の記憶が戻ったらどうなるのか。今の彼は死に、昔の彼が蘇るのか。あるいは2つは統合され、新たな坪倉優介という人格になるのか。
それは誰にもわからない。だから彼は恐怖し、悩み、戦っている。手放しで喜べないこの焦燥感が、現実の恐ろしさを物語っている。そしてその恐怖を抱いたまま、この本は終わる。
『記憶喪失になったぼくが見た世界』は、記憶を失った坪倉さんの独白と、お母さんの独白、2種類の独白を軸に構成されている。坪倉さんの独白は、やはりはじめはたどたどしい。ほとんどひらがなで構成されているし、話の進め方もどこか子供っぽい。だが後半になってくると、僕たちと同じように文章を書き、思考しているのがわかる。この変化に、人間の希望というか、力強さを感じる。
しかし、深く思考できるようになったからこそ、「昔の自分の記憶」という恐怖も同時に得ることになってしまった。得た希望がそのまま恐怖につながってしまうような人間のその歪さにはやはり不安を感じる。だからこそ人間は慈しむべき生き物なのかもしれないけど。
最後に好きな部分をあげておく。坪倉さんが、はじめてジュースを飲んだ時の頭の中が、光に照らされていて好きだ。こういう感じ方で生きていきたいな、と思う。
ぼくも箱(自販機)の小さなとびらをあけて、とり出してみると、ちがう色の水だった。ぱちぱちと小さいアワを出している。これものめるのかと聞くと、すかっとさわやかになるぞと言う。それを口の中に入れて、のみこむと、ノドがいたい。でもおいしかった。これがジュースというものなのか。大きなハコも、色がついた水も、ぼくと同じ人間が作ったのかと聞くと、そうだと言う。人間というのは、かなりすごいのではないか。
坪倉 優介. 記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.562-566). 朝日新聞出版. Kindle 版.
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- 坪倉優介
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