なんにでもなれる【小塚舞子】

更新:2021.12.15

「カレー屋さんになりたい」一度でもそんな風に思ったことはあったのだろうか。飲食店の経験もなければ、毎日同じことができる忍耐力も根性もない。やってきた仕事を続けなければという固定概念に縛られ、それに気が付きながらも、自分で縛った縄を自分で解くこともできない。他の職業に就く自分を想像するのが怖かった。そんな中、たむらけんじさんの「自分のカレーを人に食べてほしいとか思わんの?」という一言から、一日だけカレー屋さんをやることになった。どういう風にカレーを作ろうか。どんな順番で作業すれば効率的なのか。それをどうやって運ぶのかを考えていると脳みそが息を吹き返していく感じがした。カレーのことで頭がいっぱいになって他のことを考える余裕はなくなったけれど、久しぶりに色のついた世界を見た。それは子どもを産んでから初めてかもしれなかった。

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カレー屋さんの前日

本番の前日。朝からカレーの材料を調達するべく、スーパーや八百屋さんをまわった。野菜が高騰していて、なすやきゅうりなどは想定していた値段の倍以上。いつもなら『今日はキャベツが安いから炒めものでも作ろう』とか、『お魚は高いからお肉料理に変更しよう』と高い食材は避けて買い物できるけど、お店で出すとなるとそういうわけにもいかない。作るカレーと副菜、それに必要な分量を決めていたので、変更することができなかった。それでも経験や知識がある人なら、上手にやりくりしてメニューを考えるのだろうなぁと羨ましく思いながら、高いうえに小ぶりなきゅうりを見つけて買った。

思っていたよりも食材調達に時間がかかってしまったので、休憩する間もなく帰宅してすぐに仕込みを始める。チキンカレー、なすのアチャール、さつまいものココナッツ炒め、赤玉ねぎときゅうりのカチュンバル(サラダ)が今回のメニュー。カチュンバルは当日作ると決めていたので、前日の作業は、チキンをスパイスで漬け込むこと、カレーのベースになるペーストを作ること、アチャールとココナッツ炒めを作ることの大きく分けて4つ。まずはチキンから取り掛かることにした。漬け込むスパイスを準備する。スパイスを炒って、ミルにかけて粉末にすると、部屋全体がスパイスの香りでいっぱいになった。スパイスとヨーグルトを合わせて、準備完了。

次は鶏肉を切る。足りなくなることを恐れて結果的に40人前くらい作ってしまったカレーの鶏肉は、切っても切っても終わらず、鶏地獄。何とか抜け出したら、ヨーグルトとスパイスでマリネする。このために買ってきた大きいタッパーは早々に容量オーバーになって2つにわけた。まとめて冷蔵庫に入れようとすると、めちゃくちゃ重い。他の具材や米と一緒にお店までちゃんと運べるのか不安になる。トマトと玉ねぎをみじん切りにして炒め、カレーのベースになるペーストも作った。これも40人前となると、とんでもない量と重さになった。手が痛い。

次はアチャール。大量のなすを延々と切り続けるのだが、作業できるスペースが限られているので、なかなか効率よく進めることができない。あちこちになすの山ができたところで、まとめてスパイスと一緒に炒め始めると、つーんと目にきた。スパイスが空気中に舞っているのだ。息を吸ったらむせるレベルで、激辛カレー屋がゴーグルをつけて調理していた光景を思い出す。換気扇を最大にして、すべての窓を開け放った。何もかもが少量作るのとは違う。たくさん作ることがこんなに大変だとは……。時間も手間も想像以上にかかるし、誰かに食べてもらうとなると緊張する。でも、嫌じゃないなと思った。ラジオを聴きながら、もくもくと作業するのは頭がスッキリするし、楽しい。

出来上がったアチャールをタッパーに移したら、さつまいものココナッツ炒めに取り掛かる。これは直前になってメニューに入れようと決めたものだった。実は最初、カレーの値段を1000円に設定しようとしていた。たむらさんに相談したところ、安すぎるのではと言われた。でもランチだし、カレーだし……と思い、とりあえず保留にしてもらって考えることにした。しかし、そのまま告知する段階になるまで決められず「もう1500円でいいんちゃう?」と言われ、そうしてもらうことにした。でもやっぱり1500円という値段に自信が持てず、せめてもう一品増やそうと考えたのだ。しかし大量のさつまいもを切り始めてすぐに後悔した。……硬い。先にやればよかった。もっと簡単に切れるものにすればよかった。いや、かぼちゃよりマシか。かぼちゃにしなくてよかった。“さつまいも、柔らかいぃぃぃ〜”と自分に暗示をかけながら、さつまいもを切っていく。radikoから流れるおぎやはぎに励まされ、ココナッツ炒めを作り上げた。

温かいものはすぐ冷蔵庫に入れられないので、タッパーに移し替えるとテーブルに並べて冷ましていく。明日使う食材や、スパイスも用意していたら、いよいよだなと思ってドキドキした。すっかり夕方になっていた。お昼ごはんも食べられず、何なら夕飯の準備もできていない。買い出しの時に買っておいたマグロでポキ丼とお味噌汁を作り、スパイスの匂いが充満する中、簡単に夕食を済ませた。ベッドに入っても、頭の中で翌日のシミュレーションをずっとしてしまい、緊張して全然眠れなかった。朝方になってやっとうっすら眠りについたけれど、すぐに目覚ましが鳴った。カレー屋さんとしての一日が始まる。

カレー屋さんの開店準備

朝は7時にお店に入り、仕込みをはじめた。野菜と、鶏ガラで出汁を取り、その間にカチュンバルを作る。赤たまねぎときゅうり、レモンと塩とスパイスだけのシンプルなサラダだが、その爽やかな酸味と食感がカレーによく合う。トマトや果物を入れても美味しいから、もし次の機会があれば季節の野菜や果物を使いたいなと思う。この日はYOUTUBEの撮影のためにスタッフさんたちも来てくださっていた。手元の不器用さがバレないよう、ごまかしながら作業する。スパイスの瓶を開けるたびに「わあ!今、いい匂いしました!」と言ってくれるのが嬉しかった。

出汁が完成したら、カレーを仕上げていく。どのサイズの鍋で調理するか迷いに迷って、結局大きめの寸胴を使って一気に作ることにした。しかし、寸胴で鶏を炒めようとすると、重たくて木べらが動かない。四苦八苦しているうちに底が焦げ付きそうになり慌てて混ぜる。前の日からずっと『たくさん作ること』の壁にぶつかってきたが、やはりメインのカレーを作るのが一番骨の折れる作業で、実際に木べらか腕のどちらかが折れるかと思った。あとから飲食店の知り合いに訊くと、男性でも手首を痛めることがあるらしく、テーピングを巻きながら調理しているらしい。途中スタッフさんの手を借りながら、なんとか炒め終えた。ここに、さっき取った出汁を加える。

……加えたいのだが、出汁の鍋の前まで来て立ち尽くした。もう言うまでもないだろう。その時の私も、持ち上げるまでもないなと思いながら鍋を見つめていた。うん、絶対重い、絶対無理。頑張って持ち上げたところで、全部ぶちまける自信大アリ。やってしまった。何もかもが想定外だが、こんな簡単なことが想定できなかった自分にうんざりする。またスタッフさんに手伝ってもらってしまった。というかほぼやってもらった。撮影があってよかった。

鶏肉と出汁が合わさると、あとは昨日作っておいたペーストを入れて、かき混ぜながら火を入れていく。最後に塩加減を調整することを除けば、もうできることはない。美味しくできてくれるよう祈るだけだ。祈りながら米を炊くことにした。使うのはジャスミンライス。簡単に炊飯器の早炊きモードで炊くことにした。使い慣れていないお店の炊飯器を使うのが怖かったので、家から持ってきた炊飯器でとりあえず10人分ほど炊いてみた。ジャスミンライスの香ばしい香りがスパイスに混ざって、なんとも幸せな気分になる。もっとたくさん炊いて、お米を保管しておけるボックスに入れておいてはどうですかと提案してもらったのだが、炊きたての方が美味しいだろうと思って、その都度炊きますと答えた。

鶏肉に火が通り、塩を追加してチキンカレーが完成した。最後にカレーに足すためのガラムマサラを作る。壁にぶつかりすぎてもうボロボロだったが、32人前のカレーと副菜が完成した。そして、これも無料で出そうとしてみんなに止められたオーガニックのルイボスティーを沸かす。試しに盛り付けてみて、撮影に来ていたスタッフの女の子に食べてもらう。ニコニコしながら「美味しいです」と言ってくれた。まもなく、開店だ。

カレー屋さんとして見た景色

開店時間の少し前からお客さんが到着し始めたので、そのままお店の中に入ってもらう。静かだった場所が、呼吸を始めたような気がした。「こんにちは〜」と声をかけるものの何だかぎこちない。ここは「いらっしゃいませ」と言うべきなのかと思い、小さい声で言ってみる。しかしやはり気恥ずかしいので「こんにちは」に戻す。一巡目のお客さんが揃った。カレーを盛り付けようとカウンターに立つと、お客さんの視線が集中する。これは……めちゃくちゃ気まずい。それはもう人生最大の気まずさと言っても過言ではないくらいで、無駄にヘラヘラしてしまう。舞台に立つより緊張するかもしれない。カウンターで食事するたびに、中をジロジロ見ていたことを反省した。いつもと反対から見る景色は少しこわかった。

一皿ずつカレーを仕上げて顔をあげると問題発生。提供する順番がわからない。「こんにちは」か「いらっしゃいませ」で悩んでる場合ではなかった。なぜ端から詰めてもらわなかったのだ……。結局「最初に来てくれた人〜(手あげて〜)」と、チャラい感じで順番を聞いていると、みんなとてもいい人で「先にどうぞ〜」と譲り合ったりしてくれる。客側からすれば、自分の方が先に来たのになぁと思うこともよくあるが、料理や片付けや会計もしながらお店を回すということはとても大変なことなのだ。目線や立場を変えてみなければ本当に意味で気がつけないことがたくさんある。

オタオタしながらカレーを出し終えてほっとしていると「次のごはん間に合いますか?」と言われ、時計を見る。
……あれ?間に合わない。

慌ててお米を洗ってセットする。家から持参した方の炊飯器はまだ残っているので、お店の炊飯器を使わせてもらうが、使い方がわからずまた四苦八苦。早炊きモードを見つけてスイッチを押すも、最新の炊飯器は米の量によって炊ける時間が変わるらしく、なかなか炊けない。ちょっと待ってもらうしかないのかもと焦っていると、今度は手伝いにきていた夫に「そもそも米足りるの?」と訊かれて、測ってみる。「……あ、足りない。」

カレーの作り方を教えてくれた方にも「店をやるときは、とにかく米に気をつけてください」と言われていたのに、何をやっているんだろうと悲しくなる。しかし悲しんでいても米は生えないので、対策を考える。ちょうど、店に向かっているときに近くにアジア食料品店が近くにあったことを思い出し、夫にそこに買いに行ってもらった。お店の自転車を借り、5キロの米を担いできてくれたおかげで米不足はなんとか解決。少し遅くなってしまったが、次のお米も炊けたのでまた不器用に盛り付けて、二巡目のお客さんに食べてもらうことができた。

その他にも、ルイボスティーが足りなくなってまた沸かしたり、ガラムマサラをかけ忘れたり、なすのアチャールが異常に余ってお客さんに食べてもらったり、うまくいかないことばかりだった。しかし、全然無事にとは言えないものの、一日カレー屋さんが終わった。予約してくれた32人のお客さん全員がちゃんと来てくれただけでもありがたかったのだが、お店の人が「小塚さんのお客さんはすごくいい人ばかりですね。」と言ってくれたのが何より嬉しかった。本当にその通りで、次のお客さんがきているのに居座り続けたりする人も、何かしらの文句を言ってくる人もおらず、みんなニコニコ食べてくれた。

素人のつくるカレーだ。味はイマイチだったかもしれない。「おいしかったよ」と言わざるを得ない雰囲気だったかもしれない。そう考えると申し訳なくもあるのだが、それより「いつかもっと美味しいものを作って提供したい」と力が湧いた。料理を作って、お金を頂いて、食べてもらう。このシンプルなことが、とっても怖くて、とっても嬉しい。決して大げさでなく、人生が変わるかもしれないと思った。

残ったカレーをみんなで食べ、片付けをして家に着くと味わったことないくらいの疲労感でリビングの床にべたーっと寝そべった。「大変だった」「でも嬉しくて楽しかった」と、夫とポツポツしゃべりながら見たいつもの部屋は、朝とは違って見えた。

これまでは、やってきた仕事を続けていかないと今までの自分も否定することになると思っていた。けれど、昨日だってもう過去なのだ。大切なのは今、そしてこれからどうするか。いつかのコラムにも書いたけれど、自分がどう見られるのかではなく、自分からどんな景色が見えるか。料理を食べてくれたお客さんの笑顔は、どんな絶景よりも素敵だった。自分の作ったカレーがスプーンにすくわれるカチャカチャという音も、木べらを折りかけながら混ぜた鶏肉の重みも、頭のてっぺんから足の先まで染み込んだカレーの匂いも、このべったりとまとわりつく疲れも、最高だ。なんにでもなれると思った。

なんでもできる、人生は変わる

いつだったか、夫の先輩ミュージシャンが営むカフェに個展を見に行ったことがあった。個展を開いている人もまたミュージシャンで、音楽もできれば絵も上手い。そこに並べられた絵を眺めながら「絵が描けるっていいですね〜」と話した夫に先輩ミュージシャンが言った。

「描いたらいいやん!」

真っ直ぐなこの言葉だった。その人は「なんでもできるやん。」と続けた。若いから何でもやってみればいいとか、軽い感じで言う人はいる。でも、もっと純度の高い言葉だった。描きたいなら描けばいい。当たり前であるはずのことが突き刺さった。

“なんでもできる”
きっと、それこそ若い頃はそう思っていたからこそ、何もやらなかった。いつかできるだろう、いつかやればいいだろうと何でも後回しにしていたし、そもそも何をやるかなんて特に考えていなかった。それでも人生は流れ続けていて、当たり前になり、日常になり、気がつくとその日常にしがみついていた。振り落とされれば終わってしまうと必死だった。

しかしカウンターの中に立つことで、自分自身を閉じ込めていた自分に気づくことができた。これから、カレー屋さんになることだってできるのだ。ケーキ屋さんでもいいし、何かを勉強したっていい。若くても、若くなくても、なんでもできる。つい「さすがにできないこともあるだろう」と、揚げ足を取りたくなってしまうが、そんな性格の悪い自分は無視。もちろん他人も無視。自分の景色は、自分だけが見るものなのだ。誰だって、なんにでもなれる。そのことを考えるだけで、日常の景色は昨日より鮮やかになる。

最後に、このコラムが今回で終わることになった。2017年から書き始めて、4年半ほど。書くことで、自分の内側を見るような体験がたくさんできた。書く楽しさも知ったし、本のこともより好きになった。一日カレー屋さんと同じくらい人生に影響を与えてくれたコラムが終わることは寂しいけれど、何かに導かれたようなタイミングでもあるなと思う。本は人生に欠かせないスパイスだ。これからも読み続けて、そして書き続けたいと思う。また、どこかでお目にかかれますように。ありがとうございました。

生きるを考える本

著者
植本 一子
出版日

母との絶縁、義弟の自殺、夫の癌————。写真家であり、エッセイストでもある植本一子さんの日常の記録は、壮絶でありながら、やはり“日常そのもの”で、どんなことがあっても流れていく刹那的な人生を見つめる時間を与えてくれます。表紙を見てなんとなく気になって買っていたのですが、読みかけのこの本をリビングに置いていたところ、夫が「一子さんの本買ったんだ」と言うので、知っているのかと訊けば、昔写真を撮ってもらったことがあるそう。この本には縁があったんだなぁと感じました。なので、今初めてこの本を知ったという方がいらっしゃいましたら、ぜひ手にとっていただきたいです。私も、人生のどこかでもう一度読みたいと思います。

著者
小川 糸
出版日
2014-04-28

本を読むのが苦手だという方でもスルスル読める短編集です。物語に登場する食べ物がどれもとっても美味しそうで、文字から湯気がでてくるんじゃないかと思うくらい。食べることは、生きること。あつあつの美味しいものを食べる喜びは、悲しい気持ちをも包んでくれるのだと教えてくれる一冊です。また個人的なことですが、この本を読み終えた翌日に食べに行ったカレー屋さんで、座った席の目の前にこの本が置いてあって嬉しくなりました。あつあつのごはんと、素敵な本は、人生を豊かなものにしてくれます。

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