唯ぼんやりとした不安を熱燗で流す年末

12月になりましたね。私はこの時期が大好きです。

世の中がバタバタとし始め、みんな各々忙しそうなのにクリスマスや大晦日・お正月のイベントや年末年始の休暇に向けて、ちょっとわくわくしているような時期。浮かれているのだか、忙殺されて押しつぶされているのだか、なんだかよく分からないちぐはぐな季節。

そしてなにより、忘年会という考え方が、この上なく好きなんです。なんでもその1年の苦労を全て忘れてしまって良いのだそうです。いくつもあったはずのつらいことを、全部忘れて良い。しかも、幸せな食事と飲酒を伴いながら。

納得の出来なかったこと・もう言われたくないこと・自己嫌悪の瞬間など、この1年の苦しい場面をあえて切り出して反芻し、熱燗で流してゆくのは、なんと気持ちの良い営みなのでしょう……!

 

そもそも、物事の始まりよりも終わりの方が魅力的ではありませんか。決起集会よりも打ち上げの方が好きだし、ラジオ番組もオープニングよりもエンディングの方が好きです。乾杯の挨拶を一方的に聞いているよりも、みんなで気持ちを合わせる三本締めの方が楽しいし、出会いの高揚感よりも別れのセンチメンタルを噛み締めたい。

 

年始や年度始めはこうもいきません。知らない人と仲良くならないといけないし、どこから来るのか分からない緊張感に毎日包まれ、新品の靴や鞄は肌に馴染まない。それなのに何故か少し虚勢を張っちゃって、なじみの薄い人たちとの謎の責任感をぶつけ合い……。今から1月や4月のことを思うとちょっと憂鬱だったりして。なにか新たなことが始まるときは、勝手に感じているプレッシャーとぼんやりとした不安に包まれる。それに、やる気とか抱負とか絞り出すの、ちょっと面倒ではないですか。だから、それらを乗り越えた後で迎えられる年末は、とにかく良いんです。

著者
芥川 龍之介
出版日

この本の最後に収められている「年末の一日」は、1926年1月の『新潮』に発表された短編作品。芥川本人を思わせる“僕”のとある年末の1日が描かれます。

僕は新年号の仕事中、書斎に寝床をとらせていた。三軒の雑誌社に約束した仕事は三篇とも僕には不満足だった。

寂しい崖の上を歩く夢から覚めた“僕”は自分の仕事への不満足を抱えながら、年末の1日を過ごす。午後は新聞記者であるK君と夏目漱石の墓参りに出かけるが、お墓の場所が分からなくなったことで、面目を失う。

動坂の往来は時刻柄だけに前よりも一層混雑していた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきったまま、爪先ばかり見るように風立った路を歩いて行った。

人通りも少なくなった年末の街で帰路につく“僕”の描写はどこまでももの悲しい。

 

大好きな年末に、あえてこんな作品に浸ってみると……時が移ろう寂しさを、その年の自分の不出来を、年末のバタバタ感でごまかしているようにも思えてきます。年始や年度始めに感じる面倒くささは、実際には年末にも感じ得るものなのかもしれない。バタバタと楽しいラジオ番組のエンディングも、イベント終わりの打ち上げでも、傷ついた一場面や自己嫌悪が全て帳消しになるのではないということ。

 

私は芥川の晩年の作品に特に惹かれます。日々の不安と歯痒さに苦しんでいるのに、自らの人生を諦観しているようにも感じ、八方塞がりの焦りというよりは、漠然とした寂しさが伝わってくる。決して自分に期待していた訳ではないけれど、自分で自分の信用をなくしてしまう出来事が重なって呆れてしまうタイミングが、人生には何度もあるように思います。

そういうことも全部含めて、忘年会の熱燗で流してしまえれば良いのにな。

だから毎年12月くらいは、みんなで忙しそうにしながら、せーので忘年しちゃえば良いのです。暗示でもフリでも。


 

このコラムは、毎月更新予定です。

info:ホンシェルジュTwitter

writer Twitter:西川あやの

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