ホッブズが生きたイギリスはまさに激動の時代でした。アルマダ海戦、ピューリタン革命、王政復古…。ホッブズは亡くなりましたが、このあと名誉革命も起きています。 このときに感じた“恐怖”が、ホッブズの哲学を形成します。 「主義主張(イデオロギー)なんかどうでもいい。殺し合いを止めて、生命の安全をとにかく守ろう」という思想がホッブズの原点になります。 死んだら何も残らないことを、ホッブズは時代を通じて学んだのです。 今回の記事では、ホッブズの政治哲学を紹介したいと思います。
ホッブズの生きた時代、イギリスは常に戦争(戦い)を繰り広げていました。
「理性を持たない生物が平和に生きているのに、人間はなぜ平和に暮らすことができないのか」「人間はなぜ戦争ばかりしているのか」というのが、ホッブズの問題意識になります。
もちろんライオンやチンパンジーなどの動物も争います。しかし、その目的は食べ物を得ることや、異性を獲得すること(生殖活動)に限定されます。
このような争いは、生存に直接関わる基本的な欲求です。
一方、人間の場合はどうでしょうか。
私たち人間も食べ物や異性を求めて争うことがあります。しかし、それだけではありません。
人間は「名誉」や「名声」のために戦うのです。
なぜ人間は名誉や名声を求めるのでしょうか。それは人間には「プライド(自尊心)」があるからです。
空腹に我慢できても、周囲から馬鹿にされたり無視されたりするのは耐えられない、という経験はないでしょうか。
自分の家族、友人、恋人、出身地、学校、応援するスポーツチームなど、自分が大切に思うものがバカにされると、私たちはプライドが傷つきます。
そして最終的には、そのプライドを守るために争いが起こるのです。
ここで重要なのは、名誉や名声への欲望には限りがないという点です。食欲や性欲には物理的な限界がありますが、名誉(名声)への欲望は際限なく膨らみます。
常に他人と比較し、評価を気にする生活。そこから生まれるのが「嫉妬」と「羨望」です。
ホッブズは著書『リヴァイアサン』で、比較が人々の間に憎悪を生み、最終的には戦争につながると指摘しました。
「他人と比較しなければいいじゃないか」と思う人もいるでしょう。しかし、ホッブズは現実社会で完全に比較を避けるのは難しいと考えます。
さらにホッブズは、他人を全く気にしない人は「人生をあきらめた人」か「生きる意志が弱い人」だと主張しました。
野心がなければ努力せず、能力も伸びない。だから「善人は無能である」というのです。
さらにホッブズは続けます。
ホッブズによると、人間が幸福を感じる唯一の方法は、他人と自分を比較して「自分の方が上だ」と感じることだそうです。この感覚を「優越感」と呼びます。
自分が貧乏だと感じても、もっと貧乏な人がいると知ると少し安心してしまう。
自分と他者の比較は「自分だけじゃない」と思うことで、傷ついた自尊心を守ろうとする心の働きなのです。
人々が名声や地位を求めるのも、こうした優越感を得るためだとホッブズは考えました。
しかし、ここに大きな問題があります。先ほども触れましたが、名声や地位への欲望には際限がないのです。
食べ物や性的欲求といった体の欲望には「もう十分」という限界があります。しかし名誉や権力への欲望は違います。
「これで満足」ということがなく、いくらでも求め続けてしまうのです。
ホッブズは、この終わりのない欲望を「死に至るまでやむことのない権力への欲望」と呼びました。
人は生きている限り、他人より上の立場にいることに幸福を感じるのです。
ここからホッブズは「自然状態」という言葉を持ち出します。
自然状態とは「国家(法)」が存在しない状態を意味します。法がなければ不法行為もできません。当たり前ですが、交通規則があるから駐車違反を行えます。法が機能しなければ、善悪も存在しないのです。ホッブズによれば法律がなくても、人間には許される行為が1つだけあります。
「自分の身を守ること(自己保存)」であり「自然法」とも呼ばれます。
自然状態において国家は存在しないため、法律も警察も機能していません。自分の身は自分で守るしかないのです。強盗がくれば自分で戦うしかないため、自分の生命を守るときに強盗を殺しても、自然法に違反しているわけではありません。
「自己保存」こそ、すべての人が持っている最高の権利(自然権)になるのです。
ホッブズの人間観に従えば、人間は安全と名声を求め、また恐怖と嫉妬から、容赦なく他人を蹴落とす生物になります。つまり身内であっても、だれも信用できません。肉親たちが遺産をめぐって殺し合うことは、当時の貴族界ではよくある話でした。いつ攻撃があるか分からないため先制攻撃を考えますが、他人も同じことを考えているかもしれません。そのため自然状態では常に戦争状態です。安心して眠ることもできないので、正直疲れます。
国家(法)のない世界では「絶えざる恐怖と暴力による死の危険性がある。そこでの人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い」と、ホッブズは書いています。
彼の思い描いているイメージは、貴族たちの争いであると思われます。長年、貴族の保護を受けてきたホッブズ独自の視点です。ホッブズの「自然状態」とは、有力者たちがしのぎを削った戦国時代のような世界になるのでしょう。
この戦争状態を終わらせる必要なことは何になるのでしょうか。
意外に聞こえるかもしれませんが「自分の身を守る自由」つまり「自然権(暴力)」を放棄することです。
すべての人間が一斉に自然権(暴力)を放棄し、この権利を「政治権力」に譲ればよいと考えました。自然権を放棄したならば、他人を自由に攻撃する権利はありません。人を殺せば、処罰されてしまいます。
人を殺すこと(処罰)ができるのは「政治権力」だけに限定されます。
多くの人が政治権力に服従するとき、国家が誕生します。そして暴力に満ちた世界も終わり、平和な世界が訪れます。暴力を許されたのは国家だけであり、国家だけが暴力を独占している状態です。だから世界は平和になる、とホッブズは考えました。
自然(戦争)状態を終わらせるために、お互いに約束しあって武器を捨て、政治権力に自然権を委ね、国民は政治権力に従うことになります。「権力への服従」という代償を払い、国民は安全を手に入れるのです。
そのため政治権力が国民の生命と安全を保障し、忠実に実行しているかぎり、国民は権力へ服従する義務があります。
国民は政治権力(政府)に反抗する権利はありません。
気に入らないといって政府を打倒して、別の政治権力に変更する権利はないことを意味します。このとき戦争状態に再び戻ってしまうからです。
戦争をおわらせるために政府を設置したのに、政府に反抗するため戦争になったら、武器(自然権)を放棄した意味がないという論理になります。そのためホッブズは専制(独裁)政治の擁護者として非難されるのです。
ホッブズが生きた時代、イギリスの国家体制はまだ盤石ではありませんでした。
イギリスよりも絶大な力を持つカトリック教会が存在していました。イギリス国王の離婚問題によって、イギリスは独自の教会(イギリス国教会)を立ち上げたばかりでした。カトリック信者にとってイギリス国王(政府)よりも、ローマ教皇の方が偉い存在だったのです。そして国王(政府)に従わない力のある貴族たちも多くいました。彼らがいつ何時、反乱の狼煙をあげるか分かりません。
イギリス国王といっても「貴族のなかでとりあえず力がある存在」に過ぎないため、力が落ちればすぐに首が飛んでしまいます。ピューリタン革命では、実際に王様の首が飛んでいます。
権力なんか簡単に吹っ飛んでしまう、激動の時代にホッブズは生きました。そのため「国家権力は絶対である、反抗するな」と主張したのです。「反抗の権利を認めてしまえば、また戦争状態に戻ってしまう」という恐怖が、ホッブズの思想を形成しました。
ホッブズは何よりも戦争(暴力)に恐怖し、平和を求めたのです。
「国民は政府に反抗する権利はない」と主張するホッブズ。しかし、その論理は意外な展開をたどります。政治権力が国民の生命と安全を保障している限り、国民は国家に服従しなくてはいけません。もし国民の生命と安全を保障できなければ、国民は見限る権利が出てきます。
つまり他の国家への鞍替えです。
「今の国家に満足できず反抗するぐらいなら、他の国に移動すればいいじゃないか。しかも戦争はしなくていいのだから」というのが、ホッブズの結論になります。
(参考文献)
佐伯啓思(2004)『西欧近代を問い直す 人間は進歩してきたのか』PHP研究所
- 著者
- 佐伯 啓思
- 出版日
ホッブズ(2014)『リヴァイアサン1』(角田安正訳)光文社
- 著者
- ["ホッブズ", "角田 安正"]
- 出版日
『リヴァイアサン』はホッブズの主著になります。なによりも翻訳も素晴らしいため、とても分かりやすく内容になっています。分厚い本になりますが、興味のある方はぜひチャレンジみてください。
梅田百合香(2022)『ホッブズ リヴァイアサン』KADOKAWA
- 著者
- 梅田 百合香
- 出版日
「いきなり原著はキツい」という方には本書がオススメです。原著である『リヴァイアサン』からの引用が多いため、ホッブズの言葉を同時に触れながら学ぶことができます。
ホッブズ(1998)『ビヒモス』(山田園子 訳)岩波書店
- 著者
- ["ホッブズ", "山田 園子"]
- 出版日
「リヴァイアサン」は水中の怪獣ですが「ビヒモス」は陸の怪獣を意味します。『ビヒモス』はピューリタン革命後に起きた「イギリスの内戦」についてまとめた歴史書になります。そのため『リヴァイアサン』よりも読みやすく、ストーリー(歴史)もあるため面白いです。ホッブズに挑戦したい方は、まず『ビヒモス』から読んでみてはいかがでしょうか。