嵯峨景子の『今月の一冊』|第十三回は『祖母姫、ロンドンへ行く!』|祖母と孫のロンドン旅行エッセイ

更新:2023.5.30

少女小説研究家の第一人者、嵯峨景子先生に、その月気になった本を紹介していただく『今月の一冊』。第13回目となる5月号は小学館から2023年4月に刊行された『祖母姫、ロンドンへ行く!』をお届けします。コロナ禍もだんだんと落ち着きを見せ、旅行欲が沸いている方が多い昨今にぴったりの、本書の魅力を紹介していただきました。

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「嵯峨景子の今月の一冊」、第13回目。今月は2023年4月刊行の椹野道流『祖母姫、ロンドンへ行く!』(小学館)をご紹介します。

著者
椹野 道流
出版日

家族に関するドタバタが落ち着き、新型コロナウイルス感染症の位置づけも5類に変わった今、久しぶりにむくむくと旅行熱が高まっています。国内旅行もいいけれど、今は無性に遠くへ、海外へ行きたい気分。書店に立ち寄れば、ついつい海外旅行のガイドブックを買い込んでしまいます。『祖母姫、ロンドンへ行く!』は、そんな今の気持ちにぴたりとはまる一冊で、ロンドンに行きたい!という衝動に駆られながらこの原稿を書いています。

作者の椹野道流は、法医学をバックグラウンドにもつ作家です。大学院在学中に『人買奇談』で第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞し、作家デビュー。本作は『奇談』シリーズとして書き続けられ、他にも法医学ミステリの『鬼籍通覧』シリーズや、『最後の晩ごはん』シリーズをはじめ、多数の作品を手掛けています。

今回取り上げる『祖母姫、ロンドンへ行く!』は小説ではなく、80代の祖母と若き日の作者が出かけたロンドン旅行の顛末を綴ったエッセイ集です。年月を経て成熟された遠い日の記憶の封印が解け、宝物のような日々が鮮やかにたちのぼる。かけがえのない思い出を封じ込めた、愛おしくも切ないタイムカプセルのような旅行記でした。

「一生に一度でいいからイギリスに行きたい。お姫様のような旅がしてみたいわ」

という、祖母の一言から始まった5泊7日のロンドン旅行計画。英語が全く喋れない祖母と、イギリスのブライトンに留学経験がある若き日の椹野道流は、伯父たちの資金提供を受けて二人きりで旅をすることになりました。

飛行機はファーストクラス、宿泊は五ツ星ホテルと、旅行プランはどこまでも豪華かつ優雅。けれども祖母には高齢者特有の気難しさがあり、なおかつ自己肯定感が大変高い性格なのでした。気まぐれな祖母が繰り出す無茶振りに振り回される筆者の奮闘と、そんな二人をサポートする旅先で出会ったスタッフたちの仕事ぶりが、ユーモアと愛を込めて綴られています。それにしても「祖母姫」という呼び方は、祖母のチャーミングさと面倒くささの両方を捉えた、絶妙なワードですね。

高齢者との旅は、体力と気力にあふれた若者の旅行と同じようにはいきません。車椅子やタクシーの手配、余裕をもったスケジュールの組み方やお手洗いのことなど、さまざまな場面で配慮が求められます。私の場合は祖母ではなく母ですが、今後は母と二人で海外旅行に出かけたいなと計画を立てているところです。本書から、高齢者と一緒に旅行をするうえでのヒントをたくさんもらうことができました。

『祖母姫、ロンドンへ行く!』は楽しい旅行エッセイであるとともに、自己肯定感について、そしてホスピタリティについても考えさせられる、含蓄に飛んだ内容に仕上がっています。祖母が孫に対して語った言葉の数々は、私の心にもぐさりと刺さりました。祖母の堂々とした態度の根拠を形作るのは、たゆまぬ努力から生まれる自分自身への信頼感なのです。揺るがぬ美意識と筋が通った生き方がまぶしく、私もその心意気を見習いたいと思いました。気持ちが弱ったり、人生に迷った時には、きっとこの本を開きたくなる。これからも手元に大切に置いて、折に触れて読み返すつもりです。

『祖母姫、ロンドンへ行く!』の名脇役として活躍するのが、二人が宿泊するホテルのサービスを担当するバトラーのティム。一流ホテルのホスピタリティを、これでもかと体現したような人物です。人に対する敬意を失わないサポートぶりが、接客のプロフェッショナルの矜持を感じさせました。梅干しやお寿司など、日本の食べ物にまつわるエピソードにもほっこりとさせられます。

日中は祖母のよきアテンド役に徹し、彼女の就寝後にはバッド・ガールに変身して夜遊びをする椹野は、ホテルスタッフに祖母と孫ではなく“金持ちの老婦人と彼女の秘書”だと勘違いされてしまいます。そして旅の最後までその間違いをあえて正さず、ロールプレイを楽しみました。結果、ホテルのスタッフから「気難しいカスタマーにお仕えする仲間」だとみなされ、思わぬところで連帯感を得ていくのです。そのクライマックスといえるのが、書き下ろしで収録されたティムとのサプライズエピソード。『祖母姫、ロンドンに行く!』の初出はウェブ連載でオンライン上でも読めますが、この箇所は書き下ろしなので、ぜひ書籍版で確認してみてください。

最後になりましたが、本書はロンドンの観光案内書としても楽しめます。大英博物館やロンドン塔、アフタヌーンティーにスコーン、ハロッズでのお買い物、オリエント急行のディナーツアー、ハー・マジェスティーズ劇場での「オペラ座の怪人」鑑賞などなど……。これを書いているだけで、ロンドンに行きたくなります。仕事が一段落したらスコーンを買いに行って、紅茶を淹れて、英国に思いを馳せながら旅行の計画を練りたいところです。

著者
椹野 道流
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