書評家・嵯峨景子の「転換点となった5冊」

更新:2022.5.19

 悩んでいる時や苦しい時、そっと心に寄り添い、あるいは新しい一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのは、いつだって本でした。ひと一倍ジグザクな人生を歩んでいる私ですが、振り返ってみればさまざまな局面で出会った本に背中を押され、自分なりの信念を掲げながら生きてきたように思います。  今回は、そんな私の「転換点となった5冊」をご紹介します。将来の方向性を決定づけた一冊や、己の美意識に輪郭を与えてくれた本、進学のきっかけや新しい仕事の手がかりとなった本……。ここで紹介するのは、パーソナルな基準で選ばれた本と、それにまつわる思い出ばなしです。  ごく私的な軌跡ではありますが、何かしらの悩みを抱えた人や、将来の方向性に迷っている人へのヒントとなれば幸いです。

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氷室冴子『海がきこえる』

 ライター・書評家という肩書で仕事をしている私にとって、さまざまな本の紹介記事を書くことは仕事の大きな柱となっています。ジャンルを問わずに執筆しているつもりですが、これまでに「少女小説」をテーマにした本を何冊か出しているため、その道の専門家とみなされることも少なくありません。

 そもそもなぜ、私は少女小説というジャンルについて書くようになったのか。そのルーツを遡ると、氷室冴子へとたどり着きます。

 氷室冴子は、集英社が発行する少女小説レーベルのコバルト文庫で看板作家として活躍し、1980年代から90年代にかけて『なんて素敵にジャパネスク』などのヒット作を多数世に送り出した人気作家です。ある年齢以上の女性たちの中では、思春期の読書体験と氷室冴子の名前が深く結びつく人も少なくないでしょう。

 私もそんな一人ではありますが、最初に読んだ作品はコバルト文庫ではなく、徳間書店刊行の『海がきこえる』でした。『アニメージュ』という雑誌に連載されていた『海がきこえる』の終盤をリアルタイムで読んだのが、私と氷室冴子との出会いです。多くの人にとって、コバルト文庫が氷室冴子への入り口となっていますが、私はややイレギュラーな入り方をしました。

 『海がきこえる』は、高知市で暮らす高校生の杜崎拓と、両親の離婚で東京から転校してきた武藤里伽子を中心とした青春小説です。高知での高校生活の思い出と、上京後の東京での大学生活の交差が、みずみずしいタッチで描かれています。本作はスタジオジブリでアニメ化もされたので、タイトルに聞き覚えがある人もいるでしょう。

 『海がきこえる』と出会った時の私は小学6年生とまだ幼く、おまけに連載の途中から読み出したので、物語をきちんと把握できていたのかもあやしい。それでも、高知を舞台にした青春グラフィティは札幌で暮らす少女の心を捉え、また地方都市からの上京物語というストーリーにも憧れを募らせていきました。その後は『海がきこえる』だけに留まらず、コバルト文庫で刊行中だった古代転生ファンタジーの『銀の海 金の大地』も追いかけるようになります。

 というように、氷室冴子との出会いは早かったのですが、他の小説を熱心に読むようになったのは20代以降のことでした。大人になってから氷室作品と再会し、時を経ても色褪せないその魅力や、少女小説家として戦い続けた姿に感銘を受けて、私は少女小説をテーマに原稿を書くようになりました。その後、『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』や『氷室冴子とその時代』という本も上梓します。いつしかライフワークとなった、少女小説というテーマ。小学生時代に出会った作品が、のちの大きな選択に繋がっている。そんなドラマも含めて、私の読書体験の原点ともいえる作品です。

著者
氷室 冴子
出版日

長野まゆみ『天体議会』

 これまでの人生の中で、一番苦しかった時期は思春期です。とりわけ高校時代は自分にとって暗黒期で、結果的に学校を中退して大検を取り、通信制の大学に進みました。ですがこの苦しい時代に触れたものたちが、私という人間の土台となり、趣味嗜好や価値判断の礎となっている。高校の図書室で出会った長野まゆみも、そんな作家のひとりでした。

 1988年に『少年アリス』でデビューした長野まゆみは、少年を主人公にした小説を多数発表し、天体や鉱石などの理科系アイテムをちりばめた人工的かつ耽美な作風は、女性を中心に熱狂的な支持を受けました。なかでも『天体議会』は初期の代表作のひとつであり、読者人気が高い作品としても知られています。

 『天体議会』の主人公は、13歳の少年・銅貨。物語の舞台は、人口の激減に伴い連盟{ユニオン}が人口管理をするようになった世界です。銅貨と、彼の友人である水蓮を中心に、自動人形と噂される謎の美少年や、銅貨と確執のある兄の藍生なども登場し、友情や嫉妬、家族との関係や絆などが描かれます。

 近未来感と懐かしさが入り混じった作風や、ルビを駆使した視覚的な遊戯性にあふれた文体など、長野まゆみが生み出す硬質で透明な小宇宙に思春期の私はどっぷりとはまり込みました。現実世界がつらく、女性であることに苦痛を感じていた高校生の私にとって、長野まゆみの小説は美しいものばかりが陳列された標本箱のように思えました。つかの間その中に逃げ込んで夢を見ることで、私は再び現実と向き合う力を得ていたのかもしれません。

 長野まゆみ作品の魅力のひとつは、作中に登場するレトロなガジェットやおいしそうな食べ物の描写。なかでも『天体議会』に登場する「鉱石倶楽部」という店舗は、私にとって永遠の憧れでした。長野まゆみ作品との出会いによって、理科趣味や少年趣味という自分の趣味嗜好をはっきりと自覚した私は、全著作を集めるだけにとどまらず、ファンクラブ「三月うさぎのお茶会」にも入会し、上京後は「耳猫風信社」という長野まゆみのショップにも足繁く通い、鉱石などを蒐集しました。

 長野まゆみの小説やエッセイは、私にとってまだ見ぬ少年的な文化へと誘ってくれる水先案内人でもありました。『一千一秒物語』の稲垣足穂や、ボックスオブジェのジョゼフ・コーネル、マネキン写真のベルナール・フォコン、そして少年映画の名作の数々……。今のようにネットやSNSが発達していなかった時代には、自分の趣味嗜好にフィットする情報を手に入れることが今よりもずっと難しく、そんな時代に長野まゆみという存在はカルチャーの情報源としても、私の世界を大きく広げてくれたのです。

 40代となった今でも、自分の嗜好のベースに長野まゆみの小説で育てられた感性が深く息づいているのを感じます。部屋の中に並ぶ鉱石や真空管、古い理科器具やインク、ガラスペンなどなど。かつて耳猫風信社で手に入れたアイテムの数々も、大切に飾られています。長野まゆみの作品で一番好きなのは、『テレヴィジョン・シティ』という近未来SF小説です。ですが自分の転換点となった本という意味では、圧倒的に『天体議会』に軍配が上がります。今でも心がざらついた時には『天体議会』のページを開き、青い世界と心地よい孤独感の中に身を浸しています。

著者
長野 まゆみ
出版日

嶽本野ばら『ミシン』

  長野まゆみが私の中の少年的な美意識を決定づけた作家であるとするならば、少女側を担ったのが、嶽本野ばらでした。

 最初に出会った嶽本野ばらの本は、国書刊行会刊行のエッセイ集『それいぬ 正しい乙女になるために』です。2000年頃のことで、当時はまだこの一冊しか著作がない時期でした。その後まもなく初小説の『ミシン』が刊行され、こちらはリアルタイムで購入しました。

 のちに作者は『下妻物語』で大ブームを巻き起こし、乙女のカリスマと呼ばれ、物語に登場するロリータファッションも社会的な注目を集めていきます。『下妻物語』も大好きな小説ではありますが、強烈なインパクトを与えてくれた最初の二冊に私はどうしても肩入れしてしまいます。

 転換点となった一冊を選ぶ時に、『それいぬ』と『ミシン』のどちらを選ぶか、ものすごく悩みました。一番読み返しているのは『それいぬ』ですが、エスと呼ばれる女性同士の関係性や、吉屋信子の『花物語』という古典的な少女小説の使われ方など、研究者時代から現在にいたるまでのテーマにより深く影響を与えているのは、『ミシン』なのです。迷った末に、結局『ミシン』を取り上げることにしました。

 『ミシン』は、パンクバンド・死怒靡瀉酢{シドヴィシャス}のカリスマボーカルのミシンに恋をした、とある少女の物語です。主人公は、偶然テレビで見たミシンとエスの関係になりたいと願うあまり、常軌を逸した行動の数々を取り始めます。主人公の過激な行動の数々の根底にある、ミシンへの純粋な想いがあまりも切なく、そして痛ましい。ミシンが好きなMILKというブランドをはじめ、実在するアパレルの名前がたくさん登場するのも、嶽本野ばら作品の読みどころとなっています。

 物語としての魅力もさることながら、作中に登場する古めかしい少女文化も、私の心を捉えました。「私が自分が乙女であることに気付いたのは吉屋信子の少女小説集『花物語』を読んでからでした。私はどうした訳か、物心がついた頃から流行りものに興味を示せぬ体質でした。(中略)独りぼっちな私の心を癒やしてくれるのは、尾崎翠や森茉莉の文学作品、バッハのフーガやシューベルトの歌曲、中原淳一や高畠華宵の挿絵などでした。私は古いものしか興味が持てないのです」という一節は、とりわけ当時の私の心情に寄り添ってくれるものでした。

 『それいぬ』や『ミシン』を読んでいた頃の私は、通信制の放送大学で学びながらアルバイトを続けている、フリーター的な暮らしをおくっていました。古書店に出かけるのが一番の楽しみで、各所で出会った往年の少女小説(そのほとんどは国書刊行会の復刻版でした)を通じて、それまで避けがちだった少女文化に対する関心を深めていったのです。

 のちに私は東京大学の大学院に進学し、『ミシン』の中で言及されていた、古い少女雑誌や少女小説の研究に取り組むことになります。それまで少年表象に傾倒していた私に、少女文化という新しい世界の扉を開いてくれたのが、嶽本野ばらの作品なのでした。

著者
嶽本 野ばら
出版日
2007-12-04

吉見俊哉・水越伸『メディア論』

 学ぶことは好きだけれど、学校という場所は昔から苦手。そんな私が通信制の放送大学に行き着いたのも、ある意味必然の流れだったのかもしれません。私が放送大学生だったのは1999年から2004年までで、「人間の探求」というコースを専攻しながら、さまざまな講義を受講していました。

 この時に、自分の人生を決定づける授業と出会います。それは『メディア論』という講義で、講師は吉見俊哉先生と水越伸先生のお二人でした。2000年頃の私はインターネットの世界にどっぷりとはまり、夜な夜なダイアルアップでネットに接続しては(のちにADSLになりました)個人HPを渡り歩き、BBSと呼ばれる掲示板で交流を重ねる日々を過ごしていました。やがて自分でもホームページを作りたくなり、ジオシティーズに手打ちでHTMLを書いて読書サイトを作り(というあたりに時代がにじみ出ますね)、情報を発信するようになります。インターネットをきっかけに、漠然と「メディアって面白いな」と思っていたところに『メディア論』を受講したことで、学問としてこのジャンルを掘り下げられることを知ったのです。

 全15回の講義と、テキストの『メディア論』の中では、メディアの歴史社会的考察や、現代的なメディア文化の紹介や実践が語られています。毎週の授業は本当に面白く、受講後に「私もメディア論を学びたい、できれば吉見俊哉先生の元で」という目標が生まれました。その後、吉見先生が所属する東京大学大学院学際情報学府に進学し、なんとか研究室に潜り込みます。

 長らく独学を続けていた私にとって、最高学府ともいわれる大学の院に進学して、さまざまな学生たちと触れ合いながら学ぶことは、大きな刺激になりました。修士・博士をあわせた在学期間は、自分の人生の中でも充実した時間となり、この頃のさまざまな体験がその後の仕事にもつながっていきました。

 私には研究者としての才能はなく、ある時点で自分自身に見切りをつけて、アカデミックな世界から離れました。今は在野のライターという肩書で物書き仕事を続けていますが、大学院で学んだことは決して無駄ではなく、ライターとして生きていくうえでも大きな武器となってくれています。

 ちなみに放送大学には、今でも『メディア論』という講座があります(講師は水越伸・飯田豊・劉雪雁先生へと変わりました)。書店で新しい『メディア論』のテキストをめくると、20年分のメディア状況の変化も垣間見えて、また講義を受けたくなってしまうのです。

著者
["吉見俊哉", "水越伸"]
出版日

佐藤友美『書く仕事をしたい』

 ライターという肩書で仕事をするようになったのは2020年から。ただ、2011年頃から商業誌に寄稿をしたり、研究者時代にも単著を出していたので、それ以前にも物書きとしてのキャリアはありました。とはいえライターとして求められるスキルは異なり、自分の力不足を痛感していたので、さまざまな本やウェブ記事などを読みながら文章の勉強を続けていきました。

 一年目は無我夢中で書き続け、二年目は取材やインタビューのスキルを高めることに注力。多少の経験値を積み、スタート時よりは文章を書けるようになった手ごたえは感じたものの、これだけで今後生き残っていけるとは到底思えない。そんなもやもやを抱えていた時に出会ったのが、佐藤友美の『書く仕事がしたい』という本でした。

 この本の帯には、「書いて生きるには文章力“以外”の技術が8割」と記されています。自分が漠然と感じていたことがはっきりと言語化されていて、すぐさま本を買い求めました。

 著者の佐藤友美は、20年以上のキャリアをもつライターです。ファッション誌のライターからキャリアをスタートして、ヘアライターとして『女の運命は髪で変わる』などを出版、その後は書籍のライティングやコラム執筆へと仕事を広げながら活躍を続けています。『書く仕事したい』の中では、ライターとして食べていくために身につけるべき力や、仕事を獲得するための戦略などが、著者自身の経験に基づきつつ、具体的かつ実践的に語られています。

 これまでにも文章やライティングに関する本をたくさん読んできましたが、『書く仕事がしたい』には私が一番知りたかったことが書かれていました。勉強になる話から耳の痛い指摘まで、ライターが知っておくべきことがぎゅっと詰まった一冊です。ライターにとっては必読の本といえるでしょう。これからも私は、文章を書いて生きていきたい。そう考えていた時に出会った『書く仕事がしたい』は、具体的な道筋を示してくれる、頼もしい先輩からの愛のエールなのでした。

著者
佐藤 友美
出版日

おわりに

 壁に並んだ本棚はもちろんのこと、押入れの中やベッドの下まで、自宅のスペースを埋め尽くしているたくさんの本の中から、特に私の転機となった5冊を選りすぐって紹介しました。どの本も表紙を開けば過去の思い出が甦り、そして今なお新しい発見を与えてくれます。この記事を読んでいる皆さんにも、人生を共に歩む良書との出会いが訪れることを願っています。

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