5分で分かるカッシーラ|人間と動物を分ける「シンボル」の正体とは?|元教員が解説

更新:2026.8.1

エルンスト・カッシーラー(1874-1945)の功績とは、人間を「シンボルを操る動物」として定義し、文化のあらゆる領域を統一的に理解する壮大な哲学体系を打ち立てたことにあります。 彼の「シンボル形式の哲学」は、言語、神話、芸術、科学といった人間の文化的営みすべてを、シンボル機能という共通の原理から説明する試みでした。 カッシーラーの思想は哲学的流域にとどまらず、現代の記号論、文化人類学、認知科学にまで影響を与え続けています。 今回の記事では、まず「シンボル」という概念の本質を明らかにし、次にメルロ=ポンティを参考にしながら、動物実験が示す人間の独自性を検討します。 続いてカッシーラーの遍歴をたどりながら、シンボル形式の哲学を解説し、亡命生活が生んだ政治神話論を取り上げ、最後に現代的意義を考察したいと思います。

大学院のときは、ハイデガーを少し。 その後、高校の社会科教員を10年ほど。 身長が高いので、あだ名は“巨人”。 今はライターとして色々と。
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ハトが平和の象徴なのはなぜ? 人間だけがわかる「シンボル」の秘密

シンボルという言葉は、象徴、記号、表象など多様に訳されることからも分かるように、きわめて多義的な概念です。

たとえば鳩が平和の象徴(シンボル)であるように、シンボルとは「何か」が「別の何か」を指し示す関係のことです。ただし両者の結び付きは自然に決まっているわけではなく、あくまで人間社会の「約束事」であるという点が何よりも重要です。

火と煙の関係のように、原因と結果が自然法則で結ばれている場合、私たちはこれを「サイン」や「シグナル」と呼びます。

煙は火の存在を示しますが、これは物理的な因果関係に基づいています。動物もこうしたサインを認識し、反応することができます。雷鳴を聞いて身を隠す動物の行動が具体例になるでしょう。

その一方、シンボルにおける関係は恣意的であり、社会的な約束事に基づいています。「犬」という音声が四本足の特定の動物を指すのは、日本語という言語共同体の中での取り決めに過ぎません。

英語では「dog」で、フランス語では「chien」という全く異なる音声が同じ動物を意味します。この恣意性こそがシンボルの本質であり、だからこそシンボルを理解し操作する能力は、社会的な学習を必要とする人間固有の能力となるのです。

動物実験が明らかにした人間だけが持つ「シンボル機能」

1917年、ヴォルフガング・ケーラーが発表した「類人猿の知恵試験」は、チンパンジーの驚くべき知的能力を明らかにしました。

チンパンジーは棒を使って檻の外の餌を引き寄せたり、箱を踏み台にして高所の餌を取ったりできたのです。さらに複数の箱を積み重ねて新しい踏み台を作るという、道具の製作能力さえ示しました。

ところが興味深いことに、こうした高度な道具使用を学習したチンパンジーでも、奇妙な限界を示します。餌を取るために棒を使えるチンパンジーが、同じ棒が背後の壁に立てかけてあると、振り返ってそれを取ろうとしません。

また箱を踏み台として使えるチンパンジーが、仲間がその箱に座っていると、相手をどかして箱を使おうとはしないのです。

フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、チンパンジーの現象について「シンボル機能」という概念で説明しました。

チンパンジーにとって「餌の手前に置かれた棒」と「壁に立てかけられた棒」は全く別のものとして知覚されています。同様に「踏み台としての箱」と「腰掛けとしての箱」も異なる対象なのです。

両者を「同じ一つの道具が、違う場面で違う役割を果たすことができる」と把握するためには、具体的な状況から一歩離れて、より抽象的な次元から対象を眺める能力が必要となります。

たとえば私たち人間が「棒」を認識するとき、それが餌の前にあろうと壁に立てかけてあろうと「細長い固い物体」という共通の性質を見出すことができます。

つまり個別の状況(餌を取る場面、壁際の風景)から心理的に距離を取り、「棒という物それ自体」を頭の中で独立した概念として扱えるのです。

目の前の具体的な文脈を一旦カッコに入れて「これは要するに何なのか」という本質的な問いを立てる能力とも言えるでしょう。チンパンジーには「要するに」という思考の飛躍ができないのです。

基本的に動物は、生物学的環境に閉じ込められており、現在の知覚から自由になることができません。

チンパンジーにとって棒は「今、ここで、餌を引き寄せるための道具」としてのみ存在し、壁に立てかけられた瞬間に、それは全く別の風景の一部となってしまいます。

動物の意識は、現在の刺激と本能的な欲求に強く束縛されており、目の前の状況を超越して物事を捉えることが困難なのです。

それに対して人間は、現在の環境を過去の経験や、未来の可能性と重ね合わせ、相互に関係づける高次の構造を作り上げることができます。

私たちは壁に立てかけられた棒を見たとき「昨日餌を取るのに使った棒」「明日また使えるかもしれない棒」「他の用途にも転用できる細長い物体」といった多層的な意味を同時に把握できます。

現在の知覚に対して、記憶と想像力を重ね合わせることで、物理的には同じ対象(道具)に複数の意味を付与し、状況に応じて柔軟に切り替えることが可能になるのです。

メルロ=ポンティが「シンボル機能」と呼んだ能力こそ、人間が言語をはじめとするシンボル体系を操作できる根本的な理由です。

「犬」という音声記号が、目の前にいない犬、昨日見た犬、想像上の犬をすべて指し示すことができるのは、私たちが具体的な知覚を超えて、抽象的な概念のレベルで思考できるからにほかなりません。

シンボル機能とは「現実の状況(今、ここ)」に縛られずに、過去や未来、あるいは架空の事柄について、自由に思考できる人間固有の能力なのです。

ある図書館との出会いが、カッシーラを変えた

1874年、ドイツのブレスラウ(現ポーランド領)のユダヤ系家庭に、カッシーラーは生まれました。ベルリン大学やマールブルク大学で学び、新カント派マールブルク学派の指導者ヘルマン・コーエンに師事します。

初期のカッシーラーは典型的な新カント派の哲学者でした。カントの批判哲学を基礎として、認識論と科学哲学の研究に打ち込んでいたのです。『ライプニッツの体系』(1902年)や『実体概念と関数概念』(1910年)といった初期の著作では、近代科学の認識論的基礎の解明を試みています。

1906年から1920年にかけて刊行された『近代の哲学と科学における認識問題』全三巻は、デカルトからカントに至る認識論の歴史を包括的に論じた記念碑的著作となりました。当時のカッシーラーは、まさに新カント派の正統的継承者だったと言えるでしょう。

1919年、転機はハンブルク大学教授就任後に訪れます。

同大学の文化学図書館には、言語学、民族学、宗教学、芸術史など、多様な文化研究の膨大な資料が所蔵されていました。科学哲学に専念していたカッシーラーですが、これらの資料と格闘するうちに、ある重要な洞察に到達します。

「神話的思考や芸術的表現においても、それぞれが独自の論理と一貫性を持っているのではないか」

「言語、神話、芸術といった文化現象もまた、科学と同様に、人間が世界を理解し意味づけるための積極的な精神活動の結果ではないか」

つまり科学だけが世界認識の特権的な形式なのではなく、人間は多様なシンボル形式を通じて現実を構成しているのではないか。

このような洞察によりカッシーラーの関心は、認識論から文化哲学へと大きく転回していきます。

もはや問題は「いかにして科学的認識は可能か」ではなく「人間はいかにしてシンボルを通じて文化的世界を創造するか」となったのです。こうして、あらゆる文化形式を統一的に理解しようとする「シンボル形式の哲学」の壮大な構想が生まれたのです。

科学も神話も芸術も、みんな同じ仲間? カッシーラーの壮大なアイデアとは?

1923年から1929年にかけて刊行された主著『シンボル形式の哲学』全三巻において、カッシーラーは人間のあらゆる文化的営為をシンボル形式として統一的に理解する体系を提示しました。

第1巻で言語、第2巻で神話的思考、第3巻で認識の現象学を扱った著作は、人間精神の全体像を描き出そうとする野心的な試みでした。

カッシーラーによれば「神話」「芸術」「科学」とは、私たちが世界を理解するための、それぞれ異なる「レンズ」のようなものです。どのレンズが優れているというわけではなく、それぞれが独自の方法で世界の姿を映し出します。

神話的な世界観とは、世界を人間関係のドラマのように、感情的・直観的に理解する方法です。たとえば嵐が来たとき、科学はそれを気圧の差による自然現象だと説明しますが、神話の世界では「空の神が怒っている」と解釈します。このように自然現象や出来事の背後に、喜び、怒り、悲しみといった意志や感情を持つ「生命的な力」の働きを見出すのが特徴です。

次に芸術とは世界の「ありのままの姿」を、理屈抜きで純粋に感じ取ろうとする試みです。例えば、美しい夕焼けを前にしたとき、私たちは「なぜ空は赤いのか」という科学的な問いや、「この夕焼けにはどんな物語があるか」という神話的な問いを一旦忘れ、色彩の豊かさや形の美しさに心を奪われます。芸術は物事の機能や意味から離れて、色、形、音、リズムといった感覚的な側面に光を当て、世界の新たな表情を私たちに見せてくれるのです。

そして科学とは感情や主観を排し、客観的な「概念と法則」によって世界を説明しようとします。神話が「誰が?」と問い、物語で答えるのに対し、科学は「どのように?」と問い、普遍的なルールで答えようと試みます。雷の例で言えば、特定の神様の怒りではなく、「雲の中の電荷の移動」という、誰が観測しても同じように再現できるメカニズムを探求するのが科学の役割です。

カッシーラーが掲げる思想の本質は、これらの文化形式の間に優劣を設けない点にあります。

科学的認識だけが真理に到達する唯一の道ではなく、神話や芸術においても、それぞれの仕方で世界の意味を開示します。人間とはただの理性的動物ではなく、多様なシンボル形式を創造し、それを通じて世界と関わる「シンボルを操る動物」なのです。

この人間観は、アメリカ亡命後に英語で出版された『人間(1944年)』において、より簡潔かつ包括的に展開されることになりました。

同書を通じてカッシーラーは、ドイツ語で書かれた『シンボル形式の哲学』の複雑な議論を整理し、英語圏の読者に向けて自身の思想を明快に提示したのです。

なぜドイツは熱狂したのか? 故郷を追われた哲学者による最後の問い

1933年のヒトラー政権成立は、ユダヤ系のカッシーラーに亡命を余儀なくさせました。まずイギリスのオックスフォード大学へ、次いでスウェーデンのイェーテボリ大学へと移り、1941年にはアメリカに渡ってエール大学、さらに1944年からはコロンビア大学で教鞭を執りました。

この亡命生活は、彼に新たな哲学的課題を突きつけることになります。

なぜ高度な文明を誇るドイツにおいて、ナチズムという野蛮な政治思想が勝利したのか。

この問いに答えるべく書かれたのが、死後の1946年に出版された『国家の神話』です。カッシーラーは、ナチスが利用した「アーリア人種の優越性」や「千年帝国」といった政治的な神話を、単なる理性の欠如や文明の後退としてではなく、権力者が意図的に設計し、大衆心理を操作するための高度な技術として分析しました。

現代の政治的神話は、古代社会で自然発生的に生まれた素朴な神話とは根本的に異なります。それは宣伝技術を駆使して人工的に作り出され、メディアを通じて計画的に流布される、いわば「製造された神話」だというのです。

カッシーラーによる分析は、現代でこそ重要な意味を持ちます。フェイクニュースやポストトゥルースが語られる現代において、シンボル操作による大衆動員のメカニズムを理解することは、喫緊の課題となっています。

カッシーラーの政治神話論は、シンボルの創造的な力が破壊的にも作用しうることを警告しているのです。

現代の記号論や文化研究の基礎となっているカッシーラ

カッシーラーのシンボル形式の哲学は、20世紀後半以降の人文科学に計り知れない影響を与えてきました。構造主義言語学、記号論、文化人類学、メディア論など、人間のシンボル活動を扱うあらゆる分野で、彼の哲学は参照され続けています。

注目すべきは認知科学や脳科学の発展により、シンボル機能の神経基盤が解明されつつある点です。カッシーラーが哲学的に洞察した人間のシンボル能力の独自性が、実証的に裏付けられているのです。

AIが言語を操り、画像を生成する現代において「シンボルを操る」とは何を意味するのでしょうか。機械が記号を処理することと、人間がシンボルを通じて意味の世界を生きることの違いはどこにあるのでしょうか。

デジタル技術が私たちのシンボル的な営みを根底から変容させる現代において、カッシーラーが問い直した「人間とは何か」という課題は、改めて重要な意味を持ってくるでしょう。

カッシーラを理解するためのオススメ書籍

カッシーラー(2018)『国家の神話』(宮田光雄 訳)講談社

著者
["エルンスト・カッシーラー", "宮田 光雄"]
出版日

本書でカッシーラーが明らかにしたのは、ナチスのプロパガンダが文明の単純な退行ではなかったという事実です。

むしろ最新のメディア技術と大衆心理学を駆使し、計画的に設計された「政治的神話の製造」でした。理性的な議論を迂回し、感情に直接訴えかける手法が、いかに効果的に機能したかについて、彼は冷徹に分析しています。

著者自身がナチスから逃れた亡命者として、ナチス問題と向き合った本書には特別な重みがあります。理性の基盤がいかに脆弱で、シンボル操作がいかに破壊的な力を持ちうるのかー。

陰謀論やプロパガンダが社会を分断する現代において、その推察は鮮明さを増し続けています。カッシーラーの遺作となった本書は、時代を超えた警告の書として、混迷する現代を生きる私たちにとって必読の一冊と言えるでしょう。

カッシーラ(2003)『啓蒙主義の哲学』(中野好之 訳)筑摩書房

著者
["エルンスト カッシーラー", "Cassirer,Ernst", "中野 好之"]
出版日

啓蒙主義を画一的な理性崇拝としてではなく、相互に影響し合う多様な思想の運動として描き出した点が、本書の特徴です。

ヴォルテールの寛容思想、ルソーの感情の復権、カントの批判哲学まで、カッシーラーは各思想家の独自性を尊重しながら、理性と感性、個人と社会、自由と秩序の問題にどう対応したのかを、細部にわたって丁寧に追跡しました。

その中でも重要なのは、啓蒙主義が理性万能主義ではなかったという指摘です。

18世紀の思想家たちは、理性には限界があることを認め、人間の感情や芸術的想像力にも固有の価値を見出していたのです。

カッシーラーの視点は「啓蒙主義は人間性を抑圧した」という20世紀後半からの批判に対して、強力な反論となりました。

理性と感性のバランスを重視した啓蒙思想の真の姿を、カッシーラーは鮮やかに復元してみせたのです。

民主主義への信頼が揺らぐ今だからこそ、人間の尊厳と自己決定を守ろうとした啓蒙の理念を見直す意味を、改めて問い直させてくれる一冊になるでしょう。

鷲田清一(2020)『メルロ=ポンティ<可逆性>』講談社

著者
鷲田 清一
出版日

私たちの身体は世界を感じると同時に、世界から感じられる不思議な存在です。熱いコーヒーカップに触れるとき、私たちは熱さを感じますが、同時に指先の冷たさがコップに伝わり、コップ自身もまた私たちに「触れられて」います。

著者である鷲田清一氏は、メルロ=ポンティが発見した「可逆性」という概念を、誰もが理解できる言葉で解き明かしていきます。

なぜチンパンジーは目の前の箱を「踏み台」として使えなかったのか。この事例を参考にしながらメルロ=ポンティは、人間だけが物を「道具」として見る能力を持っていることを示しました。

彼の提示した洞察は、カッシーラーが論じた人間のシンボル能力が身体という土台の上に成り立つことを教えてくれます。

「可逆性」とは、右手で左手を握るとき、握る手が同時に握られる手でもあるという関係を意味します。

触れることは、触れられることでもある。

メルロ=ポンティはこの単純な事実から、世界と私たちが分かちがたく結ばれている証拠を見出したのです。

鷲田氏は哲学者の抽象的な思索を日常感覚と関連付けて、身体を通じて世界を理解する豊かさを伝えてくれます。

現象学やシンボル哲学への最良の入門書と言えるでしょう。

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