室町幕府の権威が失墜した15世紀末から16世紀にかけて、「力こそが正義」だった動乱の時代が戦国時代です。守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも強ければ戦国武将になれる実力社会でした。裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。とにかく一斉に天下統一を目指しだしたため、わかりにくく複雑な時代でもあります。この記事では戦国時代の流れをわかりやすく説明し、さらに理解を深めるおすすめの関連本をご紹介していきます。
実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった時代。明確な年代の線引きはありませんが、1467年に起きた「応仁の乱」から、徳川家康が天下統一をして江戸幕府を開くまで約140年間とされています。
武力で権力を勝ち取る風潮が広がり、多くの地に戦国武将が生まれました。きっかけは、「応仁の乱」による室町幕府の権威の失墜。それまで争いを避けていた領主たちが一国の主を目指し、自分の土地を広げようと各地で争いはじめたのです。
ちなみに、戦国時代に活躍した名のある武士はみな「武将」です。そのなかでも豪族などの国人たちを鎮圧して独自の領地を支配していた武将を「戦国大名」といいます。下克上でのし上がった大名と、勢力を拡大させた守護大名が戦国大名になる場合がありました。
1467年 応仁の乱(~1477年まで)戦国時代のはじまり
1543年 鉄砲伝来
1549年 キリスト教伝来
1560年 桶狭間の戦い
1570年 金ヶ崎の戦い、姉川の戦い
1571年 比叡山焼き討ち事件
1573年 室町幕府が滅亡、朝倉家・浅井家の滅亡
1574年 長島一向一揆
1575年 長篠の戦い
1576年 織田信長、安土城の築城開始
1577年 松永久秀の謀反
1579年 安土城天守閣の完成
1580年 石山合戦の終結
1582年 本能寺の変 、山崎の戦い
1583年 賤ヶ岳の戦い
1584年 小牧・長久手の戦い
1585年 羽柴秀吉、関白に任命される
1586年 羽柴秀吉が太政大臣に就任、豊臣姓を賜る
1587年 豊臣秀吉によるバテレン追放令の発令
1588年 豊臣秀吉による海賊禁止令、刀狩り令の発令
1590年 小田原の役 奥州平定が終わり、豊臣秀吉による天下統一
1592年 文禄の役…1度目の朝鮮出兵
1596年 慶長の役…2度目の朝鮮出兵
1598年 豊臣秀吉、死去
1599年 石田三成襲撃事件
1600年 関ヶ原の戦の勃発
1603年 徳川家康が征夷大将軍に就任、江戸幕府が開かれる
では戦国時代の詳しい内容を見てみましょう。なかでも天下人の道を歩んだ、織田信長と豊臣秀吉を中心に解説していきます。
南北朝の分裂時代を経て、足利尊氏が開いた武家政権の室町幕府。1467年に起こった「応仁の乱」は、8代将軍・足利義政時代に起こった後継者争いです。
もともとは、義政の子・足利義尚(よしひさ)を推す母親の勢力と、義政の弟・足利義視(よしみ)を推す勢力との戦い、さらに管領(かんれい)家などの跡目争いなどが一緒になったものでした。加えて当事者たちが細川勝元と山名宗全のそれぞれに頼ったため、二大勢力の戦いへと発展します。
この大乱は、1467年から1477年まで約11年間続きました。結果としては9代将軍・足利義尚が誕生するのですが、この時すでに将軍の権力はなく、将軍を守る立場の菅領家も衰退。義尚の死後、足利義稙(よしたね)が継ぐも、管領の細川政元に追われて逃げ出すなど、足利家の権力はどんどん衰えていきます。
一方で守護大名の力は増していき、隣同士の領主の争いや、神社や荘園を武力で横取りするなど、国内の混乱はひどくなるばかりです。
このように戦国時代の前半は、各地の豪族同士の領地の取り合いがメインでした。しかし後半になると、ある程度周辺を治めた大名同士の戦いへと変化していきます。
最初に、下克上にて戦国大名へと上りつめたのが、北条早雲です。もともと駿河の守護大名だった早雲は、伊豆を支配し、相模を支配下に置きました。彼が登場したことをきっかけに下克上が本格化し、「地位ではなく武力こそがものを言う」戦国時代が始まったのです。
そのほか東海地方では、斎藤道三が僧侶から承認を経て美濃の戦国大名へ成り上がりました。
天下統一まであと一歩のところに迫ったことで知られる織田信長が、一目置かれる存在となったのは、1560年の「桶狭間の戦い」です。今川軍およそ2万5000に対し、織田軍はおよそ2000。圧倒的に無謀だと思われた戦いで見事勝利したことをきっかけに、信長は尾張の一大名から天下人を目指すようになりました。
ちなみにこの戦いで今川家が敗北したことに紛れて、徳川家康は人質から独立しています。
その後信長は、斎藤道三の孫・龍興(たつおき)を破って稲葉山城へ入城し、足利義昭を室町幕府15代将軍に担ぎ上げて自らも入京。このころから彼は「天下人になるために、まずは京都を制してから全国を支配しよう」と考えるようになります。
一方、そのように政治権力を握る信長のことを、義昭は気に入りません。義昭はやがて浅井氏、朝倉氏、武田氏と組んで「信長包囲網」を築きます。
しかし延暦寺が焼き討ちにあい、「金ヶ崎の戦い」や「姉川の戦い」によって朝倉氏、浅井氏は滅亡。1573年には義昭が京都から追放され、室町幕府は幕を閉じました。
その後、「信長包囲網」を撃破するために、信長は当時最強の戦国大名といわれていた武田勝頼と戦います。これが1575年に起こった「長篠の戦い」で、信長が生涯でもっとも武才を評価される戦いでもあります。勝頼軍に長篠城から迎え撃たれるも、信長軍の最先端武器を使った鉄砲隊と「馬防策」で大勝利を収めました。
勝頼に勝ったことで調子づいた信長は、誇示を込めて1576年から安土城の築城を開始します。
さらに市や座を廃止して自由取引を認める楽市令を発し、城下町の商業発展を促しました。京都一帯だけでなく、近畿地方や中部地方の大部分を平定し、着々と地盤を固めていきます。
しかし、このほかの地域には、彼に従うことを拒否する者たちがいました。宗教勢力もそのひとつです。当時の宗教勢力は組織力も結束力もあり、信徒集団の自治で国を治めたいという動きがあったため、各地で戦国大名と対立していたのです。
寺社が権力を持つことや武装することを非常に嫌っていた信長は、「長島一向一揆」「越前一向一揆」を次々に平定。
1580年にはついに一向宗の総本山である石山本願寺の顕如(けんにょ)を屈服させ、宗教勢力を完全に抑えることに成功します。1570年から11年もの間くり広げられた石山本願寺との戦いを「石山の戦い」といいます。
また、中国地方を治めていた毛利氏も、信長に従わない大名のひとりでした。そのため信長は、羽柴秀吉を総大将として、中国地方最大の大名だった毛利氏を討つように命令します。自らも出陣のため京都の本能寺に泊まっていたところ、家臣の明智光秀に裏切られてしまいました。これが「本能寺の変」です。
天下統一まであと一歩のところまで来ていた1582年に、この世を去りました。
信長の死後、毛利氏と和睦した羽柴秀吉は京へ引き返し、その足で明智光秀を討ちます。これを「山崎の戦い」といいます。これによって秀吉の地位は向上し、1583年には柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。北陸を平定しました。
1583年には石山本願寺の跡地に大阪城を築城。大名だけでなく、宗教勢力も支配下に置いているというアピールをしたのです。
1584年には「小牧・長久手の戦い」で織田信雄・徳川家康軍と和睦。翌年には長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を服属させ、四国を平定します。関白、太政大臣に就任し、豊臣姓を賜った秀吉は、全国に「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、勝手な私闘の停止。反発した大名は討伐するとしました。
1587年には、秀吉に反抗的だった島津義久を服属させて九州を平定。そこでポルトガル人による日本人奴隷の売買現場を見た彼は、博多で「バテレン追放令」を発します。これはキリスト教を禁止したものではなく、宣教師を追放するものでした。
1590年には北条氏を滅亡、さらに伊達政宗を服属させ、関東と奥州を平定し、信長の死後から約8年で全国統一を完成させました。
統一後、1592年と1597年の2度に分けて朝鮮出兵をおこないます。次の目標を中国の明に設定し、手はじめに朝鮮の服従を要求したのです。
最初の出兵である1592年の「文禄の役」では、肥前の名護屋に本陣をおき、釜山に上陸。加藤清正の軍勢は中国との国境沿いの豆満江(とうまんこう)のあたりまで進軍しました。
日本が有利なうちに和平交渉を進めましたが、朝鮮との交渉は決裂。そのため、1597年に2度目の出兵が実行されます。しかし1598年に秀吉が死去したことで、中止になりました。
秀吉が亡くなってからの豊臣政権は、安定しません。徳川家康が独自に勢力を拡大し、伏見城で政治の実権を握ったため五大老が崩壊します。石田三成と真っ向から対立したことをきっかけに、1600年「関ヶ原の戦い」が勃発しました。
戦自体は、わずか1日で決着。家康の圧倒的勝利で終わり、光成軍は処刑や領地に没収をされます。「関ヶ原の戦い」で家康の権力は明らかなものとなり、3年後「征夷大将軍」に就任したことをきっかけに江戸幕府を開きました。ここに戦国時代は幕を閉じ、以後平和が続く江戸時代へ移っていくのです。
天下統一の寸前まで成し遂げた、三英傑のひとりです。短気で癇癪持ちだったといわれていますが、約束事を破ることはなかったそう。秀吉の夫婦喧嘩を仲裁するなど、繊細な性格でもあったそうです。
1534年に尾張国(愛知県)で生まれ、家督を継いで10年ほどかけて尾張国を統一しました。美濃の制圧を済ませ、京に上洛すると足利義昭を室町幕府15代将軍にさせますが、その後関係が悪化。義昭を中心とした「信長包囲網」に苦しめられます。
その後1573年、武田信玄の死をきっかけに室町幕府を滅ぼし、朝倉氏・浅井氏を滅亡させます。
延暦寺を焼き討ちして宗教勢力と対峙。冷徹なイメージがある一方で、商業の発展にも尽力しました。楽市楽座の経済政策や関所の廃止など、これまでになかった新しい政策を次々と打ち出していったのです。
最期は家臣の明智光秀の裏切りによって、非業の死を遂げます。
農民から戦国大名まで成り上がり、天下人に。関白と太政大臣を経験した三英傑のひとりです。知的で人懐こい性格、世渡り上手でした。約300人の女性と関係があったといわれるほど、女好きだったそうです。
織田信長が本能寺にて死んだ後、彼はすぐに上方に戻り、信長の仇として明智光秀を討ちました。その後、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家に勝ち、「小牧・長久手の戦い」を経て天下統一を成し遂げます。
国内の政治については信長の構想を継承しつつ、太閤検地や刀狩りなどを命じ、農民の一揆を封じていきました。2度の朝鮮出兵をおこない、これが秀吉政権のなかで加藤清正などの武断派と、石田三成などの文政派の対立を生みます。
2度目の朝鮮出兵中に病死しました。
1528年、美濃国の斎藤道三の家臣、明智光隆の子として生まれます。鉄砲など最新技術の習得が速く、一方で和歌などの教養もあり、知的で品のある人物だったそうです。8歳で家督を相続し、はじめは斎藤道三に仕えていましたが、彼が滅ぼされてからは転々とした生活をするようになりました。40歳のときに尾張国の織田氏に仕えます。
1571年の比叡山焼き討ちを実行したことで、近江国志賀郡5万石を与えられ、織田家家臣のなかでは1番の出世頭となりました。しかし1982年、秀吉とともに毛利氏との戦いに出陣するよう信長に命を受けたにもかかわらず、軍を京に転進させて信長のいる本能寺を急襲します。
急襲自体は成功しましたが、細川忠興・細川幽斎親子からの支持を得られずに孤立。わずか10日後に秀吉と対峙し、敗走の途中の竹やぶで落人狩に遭い亡くなったといわれています。
1539年に土佐で生まれた長宗我部元親。他の豪族を支配して勢力を拡大し、一条氏を滅亡させたことで「四国の覇者」といわれる戦国大名に成長しました。幼いころは軟弱で色白な容姿だったそうで、周囲からは「姫若子」と馬鹿にされていたそうです。
初陣は1560年の「長浜の戦い」。槍の突き方も知らなかった元親ですが、いざ戦いが始まると敵軍の中央を突破し、2人を討ち取る活躍をしました。
家督を継いだ後は、さらに勢力を拡大。1575年の「四万十川の戦い」で一条兼定に勝利し、土佐の統一に成功します。
その後、明智光秀を通じて信長に四国進出を伝えた元親は、阿波・伊予・讃岐へ侵攻。1585年にはほぼ四国を統一しました。しかし急激な勢力拡大に機嫌を損ねた信長が、秀吉に四国征伐を命令。これに降伏し、結果的に領地は土佐一国となります。さらなる四国攻撃が予定されていましたが、「本能寺の変」で信長が死去したことで、中止されました。
元親はもう1度四国全土を征服するも、10万もの大軍を率いた秀吉による再度の四国征伐に敗北。その後は秀吉の九州征伐や小田原攻め、朝鮮出兵にも貢献します。秀吉の死後まもなく、元親も亡くなりました。
江戸幕府の初代征夷大将軍であり、三英傑のひとりです。戦国時代の終止符を打った戦国大名としても有名です。
1542年に、三河国(愛知県)を治めていた松平広忠の長男として生まれました。幼いころから人質に出されていましたが、転機となったのは1560年の「桶狭間の戦い」です。織田信長によって今川義元が討たれたことで、家康は今川家から独立しました。
信長と「清洲同盟」という軍事同盟を結び、領土を拡大していきます。
同盟を結んだことにより「信長包囲網」に巻き込まれた家康は、戦国最強の武田信玄と対峙。この時は敗北を喫しましたがが、信玄が亡くなった後、武田勝頼との戦に勝利します。信長が「本能寺の変」で亡くなると、「小牧・長久手の戦い」で秀吉の家来になりました。
ある時は信長に、ある時は秀吉に服従することで、天下を取る機会をうかがっていた家康。秀吉の死は、まさにその時だったのです。
「関ヶ原の戦い」で勝利し家康が開いた江戸幕府は、260年以上続きました。
一般的には1日2回。庶民は主に、粟や稗(ひえ)、黍(きび)などの穀物、米は「大唐米」という赤米です。収穫量が多くて安価のため、盛んに育てられていました。おかずは、味噌や山菜、野草を用いた料理です。地域によっては牛や馬、鹿、猪などの肉や、魚なども調理していました。
一方で武士は、いつ戦が始まるかわかりません。そのため食事は早朝に米を一気に炊き、午前8時ごろと午後2時ごろに分けて食べていました。夜遅く起きている時は午後9時ごろにも夜食を食べていたそうです。一汁一菜で、玄米や雑穀中心。1回でお茶碗5杯分も食べていたそうです。
運動量が多いため、濃い味付けが好まれていました。裕福な者は、おかずとして野菜や海藻、かまぼこや納豆、梅干しや漬物などを食べていました。中級以下の武士はおかずがない場合も多々あったそうです。
ちなみに織田信長は、味噌で味付けした焼き鳥、大根やしいたけの煮付けと、ご飯にお湯をかけたものを好んだそう。豊臣秀吉は豆味噌を混ぜたおにぎりや麦飯を主食とし、タコやイカなどを好んで食べていました。天下人になってからは鯛やマツタケなど、全国区から豪華なものを取り寄せていたそうです。
徳川家康は「長寿こそ勝ち残りの源」と考え、普段から健康に気を配っていました。薬も自ら調合し、質素な麦飯を好みます。当時の平均寿命が30歳から40歳だったにもかかわらず、彼は70歳を超える長寿をまっとうしたことからも、いかに健康的な食生活を送っていたのかがわかるでしょう。
携帯食としては、おにぎりや餅、煎餅、干し柿、納豆、干物、梅干し、焼き味噌を丸めたものなどが代表的。グルメと名高い伊達政宗は、戦中でもおいしく食べられるように凍り豆腐を開発したといわれています。
服装は階級によって異なります。武士の正装は裃(かみしも)。小袖の上から肩衣(かたぎぬ)と袴を着用していました。肩衣は麻などで作ったものが多く、袴と同じ生地で作られ、両胸と背中には紋が入っていました。
一方で庶民の男性は動きやすい小袖だけを着用。麻の着物を自作していたそうです。暑い夏は袖がない服にふんどし姿でした。
武家の妻や姫などは、きれいな着物に色羽掛、髪も手入れしていました。当時は桃山小袖といった豪華な打掛型の小袖が流行し、高貴な女性ほどオーダーメイドの着物を着用。高級なものは市場ではなく、固定して商品を並べる「見世」で販売されていました。
庶民女性は主に小袖を着用し、畑仕事で汚れてもいいものを着物。男性と同じく、自ら育てた麻で自作していました。
ちなみに当時は、下着をはくという概念がありません。武家の女性たちの間では、徐々に「腰巻」という衣服の下に着けるものが流行しますが、庶民女性は何もはいていませんでした。かがめば丸見えになることが日常茶飯事だったそうです。
- 著者
- 房野 史典
- 出版日
- 2016-09-08
作者はお笑い芸人。まるでトークライブを聞いているような歴史物語が描かれています。よくある教育本とは違い、武将の心の声が会話に反映されて、面白おかしくストーリーが進んでいくのです。
なかでもメインになっているのが、「関ヶ原の戦い」と真田一族について。流れを追うだけでなく、各武将のしたことや人物像などにも触れています。
歴史はただの暗記物ではなく、物語なのだとあらためて感じさせてくれるでしょう。苦手意識のある人にぜひ読んでもらいたい一冊です。
- 著者
- 後藤 武士
- 出版日
- 2014-07-31
時系列でわかりやすく歴史の流れを解説している一冊。
単純な敵・味方の構造ではなく、「なぜ戦が勃発したのか」「どんな経緯をたどったのか」「その後どうなったのか」が整理して描かれています。
入門書を探している方はもちろん、歴史が好きな方も満足できるはずです。
- 著者
- 大村 大次郎
- 出版日
- 2016-09-08
作者は元国税調査官だった大村大次郎。経済的観点から戦国時代を考えます。
たとえば信長の楽市楽座令や関所の廃止などの政策と、他の武将の商業発展を比較したり、武田家の経済力や上杉家の税収方法を分析したり……いつの時代もお金がなければ人間は動かないということがわかります。
武力だけが力ではない、軍資金集めに奮闘する彼らの姿を見ると、少しイメージが変わるのではないでしょうか。
群雄割拠の戦国時代を駆け抜けた戦国武将たち。彼らは生き抜くために、さまざまな能力を備え、覚え、発揮していきました。知れば知るほど魅力あふれるその生きざまに、私たちが学ぶことは数多くあります。ぜひこの機会に学んでみましょう。