現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回は「なぜアイツばかり出世して、自分は評価されないのか…」という思いを抱える若手社会人の物語です。 同期は出世し、自分は取り残される。能力の差ではない気がする。ただ、相手は要領がいい。 そんな理不尽さに向き合うとき、17世紀の哲学者ライプニッツの言葉が意外なヒントをくれるかもしれません。

金曜日の夜9時を過ぎても、健一はオフィスに残っていた。
急ぎの仕事があるわけではない。ただ、帰る気になれなかった。
今日の昼、同期の村上が課長に昇進したと発表された。入社4年目、20代での課長昇進は社内でも異例のことだった。
村上とは新人研修のときから顔見知りだ。仕事ができないわけではない。
でも、飛び抜けて優秀かと言われれば、正直よくわからない。営業成績なら健一のほうが上の月もあった。企画書の評価だって悪くなかったはずだ。
ただ、村上には何かがあった。
飲み会には必ず顔を出す。上司の話には絶妙なタイミングで相槌を打つ。雑談のときの距離の詰め方がうまい。
そういう「何か」だ。
健一はそれを調子がいい、と心の中で呼んでいた。
悪口を言いたいわけではない。村上個人を恨んでいるわけでもない。ただ、自分との差がどこでついたのか、納得できないだけだ。
パソコンの画面を見つめたまま、健一はぼんやりと考えていた。
なぜ、自分ばかりこういう目に遭うのだろう。
「なぜ自分ばかり」という問い
「遅くまでお疲れさまです」
声をかけられて顔を上げると、警備員の田所が立っていた。60代半ばに見える。白髪まじりの髪を短く刈り込み、姿勢がいい。毎晩の見回りで顔を合わせるうちに、軽く言葉を交わす関係になっていた。
「ああ、田所さん。お疲れさまです」
「今日は顔色が優れませんね」
健一は苦笑した。そんなにわかりやすいだろうか。
「ちょっと、いろいろあって」
「そうですか」
田所はそれ以上聞かなかった。ただ、立ち去る気配もない。見回りの途中で少し立ち止まっている、という感じだった。
健一は自分でも意外なほど、口が滑った。
「同期が出世したんです。今日、課長になって」
「それはおめでたいことですね」
「ええ、まあ。本人にはおめでとうって言いました」
「でも、面白くない」
田所の言い方には、責めるような響きがなかった。ただ事実を確認しているだけのように聞こえた。
「面白くない、というか……」健一は言葉を探した。
「なんで自分じゃないんだろう、って思うんです。別にあいつが悪いわけじゃない。でも、ちゃんとやってきたつもりなのに、なんで自分ばかりこういう目に遭うのかなって」
田所は静かにうなずいた。
「昔読んだ本に、こんな話がありましてね」
田所は窓の外に目をやりながら言った。
「ライプニッツという哲学者がいたんです。17世紀のドイツの人で、数学者でもありました。微積分を発明した人としても知られています」
健一は少し意外に思った。警備員の口からドイツの哲学者の名前が出てくるとは思わなかった。
「この人が生きた時代はね、ヨーロッパで宗教戦争が続いていた時代なんです」
「宗教戦争、ですか」
「ええ。カトリックとプロテスタントの対立で、とくに三十年戦争というのは凄惨でした。ドイツでは人口が大きく減ったとも言われています。街が焼かれ、人が殺され、飢えで死んでいく。そういう時代です」
健一は黙って聞いていた。自分の悩みとはスケールが違いすぎて、どう受け止めればいいのかわからなかった。
「そういう時代に、多くの人が問いを抱えたんです。全知全能の神がいるなら、なぜこんなひどいことが起きるのか、と」
健一は少しだけ、その問いに親しみを感じた。
スケールは違う。でも「なぜこんなことが」という問いの形は、自分が抱えているものと似ている気がした。
「ライプニッツは、その問いに正面から向き合おうとしました。そして一つの答えを出したんです」
「その答えというのが、『この世界は、あり得た世界の中で最善だ』という考え方です」
「最善?」
「ええ。もし全知全能の神がいるなら、その神はあらゆる可能性を知っているはずだ。過去も未来も、起こり得たすべてのことを把握している。そしてあらゆる選択肢の中から、ひとつの世界を選んだ。だとすれば、この世界は想像しうるあらゆる世界の中で、最もマシな選択だったはずだ、という理屈です」
健一は眉をひそめた。
「でも、それって楽観的すぎませんか。戦争で人が死んでいく世界が最善だなんて」
「そう思いますよね」
田所は否定しなかった。
「実際、この考え方は当時から批判されました。ヴォルテールという作家は『カンディード』という小説で、皮肉たっぷりにこき下ろしています。地震が起き、戦争が続き、人が次々と不幸に見舞われる中で、『これが最善だ』と言い続ける哲学者を滑稽に描きました」
「じゃあ、間違った考え方なんですか」
「間違っているかどうかは、私にはわかりません。ただ、ライプニッツの意図は少し違うところにあったようでして」
田所は少し間を置いてから続けた。
「ライプニッツが言いたかったのは、この世界がすべて良いことで満たされている、ということではありませんでした。悪いことも苦しいことも当然ある。むしろ、それは認めた上での話なんです」
「どういうことですか」
「たとえば、パズルを想像してみてください。一つのピースだけを手に取って眺めても、それが全体の中でどんな意味を持っているかはわかりませんよね」
健一はうなずいた。
「ライプニッツの考え方は、それに近いんです。今、目の前にある苦しみや理不尽は、確かにつらい。でもそれは全体の中にある一部分であって、全体を見渡せば、そのピースにも何らかの役割があるかもしれない。少なくとも、全体としては最善に向かっている可能性がある、と」
「でも、全体なんて見えないじゃないですか」
「そうなんです。見えない。だからこそ、これは信仰に近い話でもあるんですね。神を信じるかどうか、という」
健一は複雑な気持ちになった。
「正直、神様とか信じてないんですよ」
「私もです」
田所はあっさりと言った。
「でもね」と田所は続けた。
「考え方としては面白いと思いませんか」
「考え方として、ですか」
「ええ。神がいるかどうかは別として、『この出来事にも、全体の中では何か意味があるかもしれない』と考えてみる。納得できるかどうかは別として、そう思ってみるだけで、少し受け止めやすくなることがあるんです」
健一は反論しようとして、言葉が出なかった。
「私も若い頃、似たようなことがありましてね」
田所は窓の外を見たまま言った。
「あのときは理不尽だと思いました。なぜ自分ばかり、とも思った。でも今になってみると、あの経験があったから気づけたことがいくつかある。あのとき別の道を選んでいたら、それはそれで別の苦労があったでしょう。どちらが良かったかは、比べようがないんです」
健一は田所の横顔を見た。
「ライプニッツの言葉を借りれば、私が歩んできた道も、あり得た選択肢の中では最善だったのかもしれない。そう思えるようになるまでに、ずいぶん時間がかかりましたけどね」
「それは……納得したということですか」
「納得とは少し違います。『意味があったかもしれない』と思えるようになった、という感じでしょうか。確信ではなく、可能性として」
田所は健一のほうを向いた。
「最善かどうかはわからない。でも、最悪だと決めつけるのも、たぶん早いんですよ」
健一は黙って考えていた。
村上が出世して、自分はしなかった。それは事実だ。理不尽だと感じるのも本当だ。
でも、もし別の世界があったとして、そこでは自分が出世して村上がしなかったとして、その世界が今より良いかどうかは、実際にはわからない。
自分が出世していたら、別のプレッシャーがあったかもしれない。村上との関係が壊れていたかもしれない。
あるいは、出世したことで見えなくなるものがあったかもしれない。
全体は見えない。パズルのピースを一つ手に取っても、それが絵のどこに収まるのかはわからない。
「まあ、若い人に説教するつもりはないんですが」
田所は軽く笑った。
「長い目で見ると、何がどう繋がるかわからないものですよ。私もこの歳になって、ようやくそう思えるようになりました」
田所は頭を下げた。
「長話をしてしまい、すいませんでした。見回りに戻ります」
「あ、いえ。ありがとうございます」
田所の背中を見送りながら、健一は自分の中で何かが動いたのを感じていた。
苛立ちが消えたわけではない。でも、少しだけ違う場所から、自分の状況を見ている気がした。
週明けの月曜日、村上は新しい席に移っていた。
課長席に座る同期の姿を見ても、健一の中に金曜日ほどの苛立ちはなかった。
消えたわけではない。ただ、少しだけ距離ができた感じがする。
昼休み、後輩の山本が声をかけてきた。去年入社した真面目な男だ。
「先輩、村上さんの昇進、すごいですね」
「ああ、まあね」
「先輩も近いうちに昇進するんじゃないですか。いつも遅くまで頑張ってるし」
健一は苦笑した。山本から見れば、自分は「順調な先輩」に見えているのかもしれない。入社年次が上で、ある程度の仕事を任されて、そこそこの評価をもらっている。
自分では「なぜオレばかり」と思っていても、別の誰かから見れば恵まれた立場に見えることもある。
全体は見えない。自分のピースがどこに収まるのかも、まだわからない。
その夜、健一は少しだけ早く仕事を終えた。
帰り際、廊下で田所とすれ違った。
「お疲れさまです。先日はありがとうございました。」
「お疲れさまです。今日は早いですね」
それだけの会話だった。
エレベーターに乗りながら、健一は思った。
今の自分がどんな物語の途中にいるのか、まだわからない。
村上の昇進が何を意味するのか、自分の立ち位置がどこに繋がっていくのか、それはずっと先にならないと見えないだろう。
最善かどうかはわからない。でも、最悪だと決めつけるのも早い。
その言葉を胸の中で繰り返しながら、健一はビルを出た。
夜の空気は少し冷たかったが、不思議と悪い気分ではなかった。
ライプニッツ(2019)『モナドロジー 他二篇』(谷川多佳子・岡部英男訳)岩波書店
- 著者
- ["ライプニッツ", "谷川 多佳子", "岡部 英男"]
- 出版日
「モナドには窓がない」という有名な言葉で知られるライプニッツの代表作です。
本書には今回の記事内容に直結する議論が含まれており、なぜこの世界が選ばれたのかという問いについて、ライプニッツ自身の言葉で触れることができます。
各節の直後に訳注が置かれているため、難解な哲学書でありながら読み進めやすい構成になっています。わずか90節という短さでありながら、ライプニッツが世界の成り立ちから神と人間の関係までを論じた、凝縮された一冊です。
ヴォルテール(2015)『カンディード』(斉藤悦則訳)光文社
- 著者
- ヴォルテール
- 出版日
- 2015-10-08
今回の記事で「皮肉たっぷりにこき下ろした」と紹介されていた風刺小説です。主人公カンディードは「すべては最善である」という恩師の教えを信じて旅立ちますが、地震、戦争、海賊と次々に災難が降りかかります。
小説を読み進めるうちに、ライプニッツの「世界は最善である」という考え方がどのように受け止められ、批判されたのかが体感できるはずです。
併録の「リスボン大震災に寄せる詩」は、ヴォルテールが最善説に疑念を抱くきっかけとなった作品でもあり、哲学と文学の両方を味わうことができるお得な一冊です。
酒井潔(2014)『ライプニッツ』清水書院
- 著者
- 酒井 潔
- 出版日
日本ライプニッツ協会会長を務めた著者による、生涯と思想の入門書です。ライプニッツは哲学者であると同時に、微積分を発明した数学者でもあり、法学・神学・歴史学にまで業績を残した「万能の天才」でした。本書では70年にわたるライプニッツの生涯を丹念にたどりながら、なぜ彼が最善世界論に至ったのか、その思想的背景を明らかにしていきます。
三十年戦争後のドイツという時代状況が、彼の哲学にどう影響したかを知ることで、ライプニッツへの理解も一段と深まるはずです。