現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回の主人公は、休職して「役に立たない自分」を持て余す慎吾の物語です。 会社を休んで3か月。誰の役にも立っていない一日が、ただ過ぎていく。 働いていない人間に、存在する意味はあるのか。 荘子の『荘子』から考えてみたい。

慎吾は12年のあいだ、役に立つ人間だった。
住宅メーカーの営業として、客の家族と会い、間取りの要望を聞き、予算の相談に乗って、契約を取る。
成績は悪くなかった。後輩の商談に同席して、まとまらない話をまとめる役も、よく回ってきた。
「早瀬さんがいると助かる」。
そう言われるたびに、自分の居場所が確保される気がした。
ある朝、家を出られなくなった。
玄関で靴を履いたまま、ドアノブに手が伸びない。
理由は、今でもうまく説明できない。前の晩まで、翌日の商談の段取りを考えていたのだ。
医者は適応障害と診断し、会社は休職の手続きを整えてくれた。
「何も心配しなくていい。ゆっくり休め」と上司は言った。
その「ゆっくり休む」が、いちばん難しい。
休みに入って3か月になる。体は動くようになり、夜も眠れる。
ただ平日の昼間にスーパーへ行くと、レジの列で落ち着かなくなる。
世の中が働いている時間に、自分だけが袋詰めの台の前に立っている。
誰かに責められたわけではない。責める人がいないことのほうが、かえってこたえた。
会社から渡された生活記録表には、「今日やったこと」を書く欄がある。
散歩、洗濯、読書。
3つ書いたところで、手が止まる。
営業だったころ、一日は数字で埋まっていた。
訪問の件数、見積もりの金額、契約の本数。数字にならないことは、やったうちに入らない。
そういう身体の使い方を、12年かけて覚えてきた。
担当を引き継いだ後輩から、先週メッセージが届いた。
「早瀬さんのお客様、無事契約になりました。ご心配なく!」
善意の報告だった。ただ画面を見ながら、慎吾は自分の輪郭が薄くなるのを感じた。
自分がいなくても、家は建つ。数字は回る。
なんとなく分かっていたことが、証明されてしまった。
散歩は医者に勧められて始めた。
決まった道を歩くほうが続くと言われて、隣町の神社まで往復する。境内に大きなクスノキがあって、その下のベンチで一息つくのが折り返し地点だった。
その朝、クスノキのまわりにロープが張られていた。作業服の人が3人、幹に器具を当てている。
この木は切られてしまうのか。そう思ったときには、自分でも驚くくらい大きな声が出ていた。
「この木、伐採するんですか」
振り返ったのは、白髪を短くした年配の女性だった。首から双眼鏡を提げ、腰に木槌を差している。
「伐るかどうかを決めるために、診てるの」と女性は言った。
「わたしは樹木医。木のお医者さん」
滝本と名乗ったその人は、幹の根元を指さした。大人がしゃがんで入れそうな空洞が、口を開けていた。
「去年の台風で太い枝が落ちてね。下が駐車場だから、次に落ちたら大ごとだって、伐採の要望が出てる。幹はこのとおり空洞だし、キノコも出てる。危ない木に見えるでしょう」
「見えます」
「でもね」
滝本さんは木槌で幹を叩いた。場所によって、音が変わった。
「空洞があっても、木は立てるの。筒はけっこう強い。問題は空洞があるかどうかじゃなくて、生きてる部分がどれだけ育ち続けてるか。だから測るのよ」
診断は数日かかるという。翌日も、その翌日も、慎吾は同じベンチにいた。
予定は、なかった。
3日目に滝本さんのほうから「暇なら記録板を持ってて」と言われ、気がつくと手伝っていた。
読み上げられる数値を、書き取る。それだけの作業なのに、帰り道、少しだけ足が軽かった。
また同時に情けさを感じた。
昼休み、滝本さんは石段に座って、水筒の麦茶を慎吾にも分けてくれた。
「この木はさ、材木としてはとうに終わってるの」と滝本さんは言った。
「空洞だらけで、板も柱も取れない。役に立たない木。伐採を求める陳情書にもそう書いてあった。枝は落ちるし、落ち葉で雨樋も詰まるから、何の役にも立たないって」
「役に立たないなら、伐採していいんでしょうか」
「わたしの実家、材木屋でね」と滝本さんは話を切り替えた。
「木を見れば材木の値段が浮かでくる家で育った。まっすぐな木はいい木。節だらけの曲がった木は、だめな木。そういう目でしか、木を見たことがなかった」
若いころ仕事に行き詰まって、本ばかり読んでいた時期があるという。
そのときに出会ったのが『荘子』だった。
「匠石という腕のいい大工が、弟子を連れて旅をしてると、神社にばかでかい木が立ってる。弟子は見とれるんだけど、匠石は一瞥もしない。あれは散木だ、船にすれば沈む、棺桶にすれば腐る、柱にすれば虫が食う。何の役にも立たない木だから、あそこまで大きくなれたんだって」
「散木?」
「役に立たない木って意味。ところがその晩、その木が夢に出てくるの。匠石に向かって言うのよ。おまえは私を何と比べているのか。梨や柚子は実がなるせいで枝を折られ、もぎ取られ、天寿をまっとうできない。役に立つものほど、そのせいで早死にする。私は役に立たないことを、ずっと求めてきた。無用であることこそ、私にとっての大用だったんだって」
滝本さんは水筒のカップを持ったまま、クスノキを見上げた。
「『荘子』を初めて読んだとき値段のつかない木の側から、こっちが値踏みされた気がした。木は材料になるために生えてるわけじゃない。当たり前のことなのに、そのとき初めて気づいたの」
慎吾は、少しためらってから言った。
「でも、人間は木とは違いますよね。役に立たないと、居場所がなくなります。会社って、そういう場所です」
「そうね。荘子の友だちにも、あなたみたいなことを言う人がいた」と滝本さんは笑った。
「恵子という理屈屋でね。おまえの話は屁理屈ばかりで役に立たない、あの木と同じだって噛みついたの。すると荘子が言うのよ。だったら何もない野原に植えて、その下でごろ寝でもすればいいじゃないか。誰にも伐採されずにすむ。何を苦しむことがあるかって」
「ごろ寝、ですか?」
「もうひとつ、好きな話があってね。人が使ってる地面は足の裏の分だけでしょう。じゃあ足の裏以外の地面を、奈落の底まで全部削り取ったら、その足の裏の分は、まだ役に立つと思う?」
慎吾は自分の足元を見た。玉砂利が広がっていた。
「立っていられません」
「そういうこと。役に立つものは、役に立たないものに支えられて、やっと役に立ってる。荘子は言うのよ。人はみんな、有用の用は知ってるけど、無用の用を知らないって。使えるところばかり見て、それを支えているものを見ない。わたしたちの目は無意識にそうなるの」
診断の結果、クスノキは伐採を見送られた。
空洞は大きいが、外側の生きている部分は厚く、新しい根も張っている。枝を軽くして、支柱を立てて、経過を観察することになった。
「生きようとしてるかどうか。わたしが診てるのは、結局それだけ」と滝本さんは言った。
「役に立つかどうかは、伐採して使う側の都合。木の側の事情じゃない」
作業の最終日、慎吾は記録板を返した。役に立ったかと言えば、たいして立っていない。読み上げられる声を、書き取っただけだ。
それでも滝本さんは「助かった」とも「頑張って」とも言わず、「またここにおいで」とだけ言った。
復職の見通しはまだない。
生活記録表には、あいかわらず空欄のままの日が多い。
役に立たない自分への居心地の悪さも、消えたわけではない。
ただ「役に立つかどうか」という物差しは、生まれつき持っていたものではない。働き始めてから少しずつ、いつの間にか、それだけで自分を測るようになっていた。
あとから身に付けたものなら、いつか手放すこともできるはずだ。
翌週も慎吾は神社まで歩いた。枝を落としたクスノキの向こうに、前より広い空が見えていた。
ベンチに座り、背もたれに体重を預けて、目を閉じる。
風が抜けるたび、頭の上で葉が鳴った。
その音を何も考えずに聞いた。
荘子(1971年)『荘子 第1冊(内篇)』金谷治訳注、岩波文庫
- 著者
- 荘子
- 出版日
今回の物語で出発点になった1冊です。
『荘子』は理屈を積み重ねていく本ではなく、不思議な寓話で考えさせる古典です。
夢の中で木が大工に反論したり、巨大な鳥が空を飛んだり、一見すると荒唐無稽な話が続きます。
しかし、そのユーモラスな語り口をたどっていくと、「役に立つ」とは何か、「役に立たない」とは何かという問いが、読むたびに違う表情で浮かび上がってきます。
さらに面白いのは、荘子が答えを押しつけないことです。
たとえば散木の話は、負け惜しみとも、処世術とも、常識をひっくり返す逆転の発想とも読めます。解釈は一つに定まらず、読む人や読む時期によって、受け取り方も変わります。
だからこそ荘子の寓話は、正しさや役に立つことばかりが求められる時代に、あらためて読む意味を持っているのかもしれません。
一つの答えに急がず、別の見方に目を向ける。
その余白があるからこそ、『荘子』は時代を超えて読み継がれてきたのでしょう。
原文、読み下し、現代語訳、注が並ぶ構成になっているため、まずは現代語訳だけを追って、気になった話を読み下しで確かめる読み方がおすすめです。漢文に慣れていなくても問題なく読み進めることができます。
慎吾と滝本さんの会話のように、答えを急がず、一度立ち止まって考えたいときに読みたくなる一冊です。
玄侑宗久(2019年)『荘子と遊ぶ――禅的思考の源流へ』ちくま文庫
- 著者
- 玄侑 宗久
- 出版日
禅僧であり芥川賞作家でもある玄侑宗久さんが、『荘子』を現代人の悩みや生きづらさに重ねて読み解いた一冊です。
書名にある「遊ぶ」とは、荘子を貫く言葉です。
「役に立つか、立たないか」という物差しをいったん手から置いたとき、世界とのあいだに生まれる関わり方を、荘子は「遊」と呼びました。
この「遊」について、本書は難しい理屈としてではなく、呼吸や体の感覚という身近な場面から解きほぐしていきます。
禅僧である玄侑さんにとって、荘子は研究の対象というより、日々の暮らしのなかで確かめてきた相手なのです。
副題の「禅的思考の源流へ」が示すとおり、荘子の考え方はやがて禅に流れ込み、日本人のものの見方にも溶け込んでいます。読み進めるうちに、初めて読むはずの古典がどこか懐かしく感じられるのは、そのためかもしれません。
章ごとに独立して読める構成で、専門的な知識もいらないため 荘子の入門書としてもおすすめです。
東畑開人(2019年)『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』医学書院
- 著者
- 東畑 開人
- 出版日
臨床心理士の東畑開人さんが、沖縄の精神科デイケアでの経験をもとに、「ただ、いること」の意味を考えた一冊です。
私たちはつい、何かを達成したり、誰かの役に立ったりすることで、自分の価値を確かめようとします。
仕事ができること、成果を出すこと、感謝されること。
そのどれも大切ではありますが、それだけで人の存在を測ろうとすると、うまく物事が進まないとき自分の居場所まで失ったように感じてしまいます。
本書が描くケアの現場には、そうした物差しとは少し違う時間が流れています。
何かを立派に成し遂げるわけではない。ただ同じ場所にいて、ごはんを食べ、ぼんやり話し、何もしない時間をともに過ごす。
そのなかで少しずつ、人は「ここにいてもいい」と感じられるようになっていきます。
役に立つことばかりを求められて疲れたとき、自分がただそこにいることの意味を、静かに考え直させてくれる一冊です。