文学はレトリックだよとその人は言った。そうですかねえと僕。学生の頃のことだ。「俺の友達に物凄い読書家がいるんだよ。その彼が言うに、結局文学はレトリックだってさ」「そうかなあ。芸術は表現の上手い下手じゃなくて、何を言いたいかが一番大事なんじゃないかなあ」「それでもレトリックなんだよ」。議論にもならない話だったが、なぜだか今でも印象に残っている。
レトリック──修辞法である。あの頃はピンと来ないままに中身が大事、みたいに返してしまったわけだが、今では表現に技巧は必要不可欠であることがよく分かる。例えば音楽。ある程度の演奏力がなければ人に聴いてもらえないだろう。芝居にしたって、いくら脚本がよくても演技が下手では人を感動させられない。文学に至っては確かにレトリックの比重は大きく、とりとめのない話でも文章が面白ければそれなりに読めてしまう。というより、自分自身、内容より言葉の綾を楽しんでいるフシがある。反対に、ベストセラーといわれたところで、文体が自分の好みでなければさっぱり読む気が起こらない。
レトリックが積み重なって出来たものが文章ならば、文体はレトリックの親戚みたいなものだ。「しゃべるように書く」と言ったのは佐藤春夫だったが、これは相当に難しい。ただしゃべり言葉を書き綴ったところで、堂々巡りもすれば乱暴にもなる、果ては脈絡さえなくなっておまけに大概の会話は定型化されているから、およそつまらないものになる。「しゃべるように書く」とは、音読に耐えるという意味合いだろう。美しくリズムを持って流れるように──頭だけでこねくり回した文章より、よほど推敲が必要となるのは想像に難くない。
かつて美文調というものがあった。七五調で体言止め、現代人にはまずもって読み辛い。しかし、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花はいい。いたずらに美辞麗句を弄するでもなく、冴え渡った夜の湖面のような、それでいて鮮やかな色彩が眼前に浮かぶような(比喩が多いですね)美しい日本語である。金色夜叉には手が伸びずとも鏡花なら読むという若い人も多いのではなかろうか。節度のあるレトリックがいい文章なのかもしれない。
小栗虫太郎は装飾過剰で読み辛い、とか話はどんどん枝葉に行きそうであるが、ここいらで僕の偏向した読書趣味に沿って、レトリックや文体について無謀にも述べてみようと思う。僕は国語教師ではないので、これが直喩、暗喩、これが倒置法でこちらが擬人法、なんて話は出てこないので念のため。
谷崎潤一郎 フェティシズム小説集
谷崎の作品を簡単に変態小説といってしまってはいけない気がする。一線をなかなか越えられない悶々とした気持ち、あるいはそこに至る過程を濃密に描くから、文学になるのである。新潮文庫『刺青・秘密』収録の「少年」は、子供たちの背徳的遊びがやがて白熱して、終いには女の子に蝋燭を垂らされたりオシッコを飲まされたりする話。それを、けっして下品には落ちず、感情に流されない文章で描く。
谷崎の文体は、時としてハッとする言葉を選んだり硬質な翻訳調になったりする。本短編集にある「悪魔」、頭が馬鹿になったと嘆く青年が従妹の家に居候をする。やはりというか従妹の魅力に屈服し、果ては彼女のかんだ鼻水をぺろぺろと舐める。前半の一文、「……病的な佐伯の官能を興奮させた」。あえて持って回った言い方をする。従妹の家には要領の悪い書生がいる。この書生の描写がまた手加減がなくて面白い。「それに相手が愚鈍な脳髄を遺憾なく発揮するのを多少痛快にも感じている」。遺憾なく、は普通優れたものに使う言葉だが、逆手に使用するこの表現力。
変態性欲を描くためには、だらしなく書いていてはいけないのである。
ヴィヨンの妻
太宰は本当に文章が上手い。晦渋(かいじゅう)にならず、読者の心にスッと入って来る。時々、どうです、僕って文章が上手いでしょう、と作者の顔が見え隠れしないでもないが、それにしても上手い。太宰はどうもという人は、おそらくこの見え隠れが不快なんじゃないかと思う。安岡章太郎が小説を書き始めた頃、嫌々ながら太宰の文体を真似たという逸話があるが、そのぐらい当代きっての上手い作家であった。
「トカトントン」はしゃべり口調が秀逸である。やや長くなるが抜粋してみる。
──そうしてそれから、(私の文章には、ずいぶん、そうしてそれからが多いでしょう?これもやはり頭の悪い男の文章の特色でしょうかしら。自分でも大いに気になるのですが、でも、つい自然に出てしまうので、泣き寝入りです)そうしてそれから、私は、コイをはじめたのです。──
そうして、は最後まで連発する。泣き寝入り、も効いている。「トカトントン」は人生の虚無に憑りつかれた男の話だが、ユーモア小説の観すら呈している。
サービスせずにはおれない太宰の悲しさを見るようだ。