志賀直哉は文化勲章も受賞した、日本文学界の大御所です。彼の小説は無駄を省き洗練された文章で構成され、実に読みやすいんです。作品の完成度の高さから「小説の神様」といわれた志賀直哉の代表作をご紹介します。
志賀直哉は白樺派を代表する作家です。彼の作品は私小説、心境小説のジャンルに属すといわれています。志賀直哉の文体は簡潔にして明快であり、文章の理想形として模写されることすらあったといいます。この美しい完成された作品群を生み出した志賀は、彼の代表作のひとつ『小僧の神様』をもじって、「小説の神様」と呼ばれ、文学を志す者から崇拝されてきました。かの芥川龍之介や森鴎外も、「自分にはあのような小説は書けない」と志賀直哉を高く評価しているほどです。昭和24年には谷崎潤一郎とともに文化勲章を受章しました。
志賀直哉は各界の文化人との交流も盛んで、小説家の仲間はもちろんのこと、哲学者や画家、政治家とも親交を深めました。彼の死後、家が「志賀直哉旧居」として公開されると、志賀を惜しむ各文化人がここを訪れ文化議論を行うようになりました。この場所はいつしか「高畑サロン」の名で呼ばれるようになったそうです。
このように日本文化に多大な影響をあたえた志賀直哉の小説ですが、『暗夜行路』を除けばほとんどが短編小説で、だれにでも手軽に読める作品が多いです。しかしその手軽さとは裏腹に、読後与えられる満足感は非常に大きいのです。
志賀直哉唯一の長編小説。本編は4部構成からなり、完成には17年の月日を費やした大作です。
主人公は時任謙作という小説家です。彼は幼いころ、兄弟と引き離されて祖父にひきとられ、父に愛されているという実感を持ったことがありません。自分を本当に愛してくれていると感じていた母親も亡くなってしまいます。謙作は幼馴染の娘、愛子という女性と結婚を考えていましたが、いざ結婚を申し込んでみると、自分に好意的におもえた愛子の母親の反応は悪く、申し込みは断られてしまいました。
愛に飢えた状態で成長した謙作は、芸者遊びを繰り返すなど不安定な生き方をしていました。様々な女性にひかれながら、今一歩のところで醒めてしまうのです。そうこうするうち、謙作は祖父の妾で、いまでも一緒に暮らし自分の面倒を見てくれているお栄と一緒になりたいと思うようになります。彼は信頼している兄、信行に仲介を頼むのですが、お栄にもこの話を断られてしまいます。次々とダメになってしまう結婚話。このとき謙作は兄からその理由を知らされます。
- 著者
- 志賀 直哉
- 出版日
- 1990-03-19
実は謙作は祖父と母の間にできた不義の子だったのです。父から愛情を得られない理由、女性に拒否される理由、すべてが判明した謙作はショックを受けながらも、この事実を受け入れます。やがて、直子という伴侶を得、子供も授かる謙作。しかし、落ち着いたと思われた生活にもまた悲劇が訪れるのでした……。
数々の不遇が謙作を取り巻いていますが、印象的なのは彼がよく自分を俯瞰して、こんな目にあっているのは自分だけではない。不遇ではあるが、恵まれていると自分を常々励ます描写です。
「要するに自分は不幸な人間ではないと謙作は考えた。自分はまったくの我儘者である。自分は自分の想うとおりをしようとしている。それを人は許してくれる。」(『暗夜行路』より引用)
たしかに謙作の出生の境遇は不幸ではありますが、満たされない愛や死別といった悲しみは人生につきものなのかもしれません。甲斐性なしで、自分勝手見える謙作ですが、こういう人生に向かう姿勢には読者も励まされるはず。必読の志賀直哉作品です。
紹介するなかで、もっとも私小説らしい小説です。この小説の中に登場する「自分」は明らかに志賀直哉自身です。
山手線の電車にはねられて背中に怪我を負った「自分」。脊椎カリエスになれば命にかかわるということで、療養のために但馬の城崎温泉に出かけます。一人きりでぼんやりと過ごしている中で、様々な生と死を見ます。
- 著者
- 志賀 直哉
- 出版日
例えば玄関先で死んでいた蜂の死骸です。ほかの蜂がみんな巣穴に帰ってしまった日暮れに、ポツンと取り残された死骸に「自分」は淋しさとともに静かな感じを覚えます。
また、公園に出かけた主人公は道中で、首に魚の串が刺さった鼠を見ます。川の中に投げ込まれた鼠は石垣の間に逃げようとしますが、首の串がひっかかってすぐに水におちてしまいます。必至で死という運命にあがなおうとしている鼠。これを見ている見物人はそのさまを面白がって、鼠に石を投げます。
「自分は鼠の最期を見る気がしなかった。鼠が殺されまいと、死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ回っている様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持ちになった。あれが本統なのだと思った。」(『城の崎にて』より引用)
この鼠の様子はあっさりかかれているようで、あまりに生々しく、何度読んでもおぞましさに身が縮まります。脊椎カリエスになって死ぬかもしれない自分を意識しているがために、他の生き物たちの生死に敏感に反応しているのでしょうか。志賀直哉の短編の中に凝縮された死生感が、容赦なく読者に迫ってきます。
本作は志賀直哉の代表作です。教科書に載っていて、一度は読んだことがあるという人も多いのではないでしょうか。
仙吉という少年が主人公です。この仙吉は神田の秤屋の店に奉公に出ています。彼は秤屋の番頭が客と鮨屋の話をしているのを耳にし、自分も行ってみたいと思うのでした。
ある日京橋に使いに出された仙吉は、帰りを徒歩にすることで渡された電車代の4銭をうかし、そのお金で鮨屋に入ることにします。1つは買えるだろうと思い、思い切って鮨に手を伸ばしたのですが、主に「1つ六銭だよ」と言われてしまいます。
その様子を見ていたのは若い貴族院議員のAという男でした。Aはこの仙吉がかわいそうになるのですが、その場で鮨をおごってやると名乗り出る勇気がありません。そんなとき秤を買いに出たAは偶然仙吉に出会い、お使いをしてくれたお礼という形で彼を鮨屋に入らせます。お金だけ払って、慌てて立ち去ってしまうA。
- 著者
- 志賀 直哉
- 出版日
- 2002-10-16
仙吉は自分が鮨を食べそびれた日のことを思い出し、Aがそれを知りながら鮨をおごってくれたことを感じます。しかしなぜAは自分を見つけることができたのだろう?仙吉はあの人は只者ではない、ひょっとしたらお稲荷様かもしれないと思うようになるのです。そしてつらいときにはAのことを思い出し、慰めにするのでした。ところが鮨をおごったAは淋しい、嫌な気持ちに襲われます。
「ところが、どうだろう。この辺に淋しい。いやな気持は。なぜだろう。何から来るのだろう。ちょうどそれは人知れず悪いことをした後の気持ちに似通っている。」(『小僧の神様』より引用)
この小説はAが鮨をおごっていい気になって終わっていたらけして名短編にはならなかったでしょう。いいことをしたはずなのに、なぜか罪悪感のような気持ちを感じるAを登場させることで、志賀直哉は人の心の繊細さを見事に書き表しているのです。読者に切なさを感じさせるラストの一文も必見ですよ。
伊達騒動を題材にした志賀直哉の歴史小説です。
伊達兵部の新米の家来に赤西蠣太(あかにしかきた)という侍がいました。34歳という実際の年齢よりも老けて見える不細工な顔。野暮ったく言葉もなまっています。真面目な性格ですが、とくに目覚ましい活躍をするわけではないので、若い侍からは馬鹿にされていました。
酒も飲まない、女遊びもしない。好きなものはお菓子という変わり者。当然のように独身。そんな蠣太の趣味は将棋です。この蠣太の将棋仲間に原田甲斐の家来で鱒次郎という侍がいました。美男で利口な鱒次郎は蠣太とは正反対。
実は蠣太と鱒次郎はともに密命を帯びた仲間だったのです。伊達兵部と原田甲斐がお家乗っ取りを企てていたため、これを調べ密書を作成するのが二人の仕事でした。
やがて密書が完成し、蠣太が本当の主のところに帰る日が来ます。しかしいきなり消息不明になったのでは怪しまれるのは間違いありません。そこで鱒次郎は蠣太にこう提案します。相手にされそうもない美人に恋文を書いて、わざと振られる。面目をつぶされたことにして、暇をもらうというのはどうだろう。
そこで蠣太は美しい腰元の小江に偽の恋文を書きます。醜男でうだつの上がらない蠣太を絶対に振ってくれるはずの相手。しかし、彼女が蠣太に渡した返信の文には意外な言葉が書き連ねてあったのです。
- 著者
- 志賀 直哉
- 出版日
- 2008-08-06
志賀直哉の本作の見どころは、蠣太の本当の気持ちが垣間見えるところ。偽の手紙を書きつつも、実は心の奥底にははかない期待があったのではないかと思わせる部分があります。振られるための計画なのに、小江からもらった予想外の返事に「妙なもの」を心の中に感じるのです。これは恋心に他なりません。と同時に、蠣太の計画は丸つぶれになります。そして真剣な小江の気持ちをもてあそんだ自分に嫌悪も感じるのです。
「俺はどうすればいいのだ。彼は堪らない気がした。彼はつくづく自分を馬鹿者だと思った。それは動機に弁明はできるにしろ、自分は人間の最も清い気持ちを悪戯に使おうとしたのだ。それを尊重することをどうして忘れていたろう。」(『赤西蠣太』より引用)
仕事のためにしたこととはいえ、その恋文、その相手に真実の気持ちが芽生えてしまった彼の苦悩が読み取れます。
ちなみに志賀直哉のこの作品は1936年に伊丹万作監督により映画化されています(さらにはテレビドラマ化もされているんです)。映画は長編ですが、原作の方は短編小説。短い中に人間心理の機微が絶妙に描かれています。
志賀直哉のこの短編を読んで、床屋に行けなくなった、ひげを他人に沿ってもらうのが怖くなったというエピソードをよく聞きます。
麻布の床屋、芳三郎の剃刀さばきは有名で、彼にそってもらった髭は延び方が違うと評判です。芳三郎の自慢は10年間、客の顔に傷をつけたことがないというもの。そんな芳三郎ですが、その日は風邪で寝込んでいました。ちょうど忙しい時期です。しかも、ベテランの原公と次太公には暇を出したばかりでした。今いるのは、頼りにならない若手ばかり。客が立て込んでくる音を寝床で聞きながらイライラしている芳三郎。
店じまい近くになって、一人の若者がやってきます。「今日は手が震えているから」と、妻が止めるのも聞かずに、剃刀を手に取る芳三郎。しかしいつもとちがって思うように刃が滑りません。熱に浮かされながら、懸命に仕事を続けようとする芳三郎ですが、ついに顔に小さな傷をつけてしまいます。
「かつて客の顔を傷つけたことのなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫ってきた。呼吸はだんだん忙しなくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。」(『剃刀』より引用)
完璧な仕事をしてきた男が少しのミスで一気に狂気に転落する様が書かれています。
- 著者
- 志賀 直哉
- 出版日
- 2008-08-06
志賀直哉のこの小説のすごいところは朦朧としながら作業する芳三郎のいらいらがつもりつもってだんだん限界に近づいていくのが読者にも伝わってくるところ。
例えば途中で芳三郎が客の依頼で切れない剃刀を研ぐシーン。震えた手で剃刀を研ぎますが、いつものようにはいきません。疲れ果ててぐったりしてしまうのですが、当然うまく研げておらず、「やっぱりうまく切れない」と再び剃刀が返ってきます。
またもや熱に浮かされた芳三郎が、剃刀と格闘を始めるのですが、今度は皮砥を固定していた釘が抜けて危険な目にあいます。こんなさなかに客がやってくるのですから、芳三郎がどんな精神状態かよくわかりますよね。畳みかけるようなストレス発生の描写。こちらが「もう止めて!」と叫びたくなります……。
志賀直哉の鋭い観察眼によって切り取られた、日常。その中には人生の問題を考えさせてくれる様々な要素が詰まっています。流れるように読める文章に浸りながら、志賀直哉の世界を堪能してみてください。