思考のウィルス、ジル・ドゥルーズ。実践的にも理論的にも危険に満ちたこの哲学者の著書から、入門的な6冊を選びました。比較的晩年に近い時期、死の影が接近するなかで書かれたそれらのテクストのうちに、彼の強度的思考の本領を探ります。
- 著者
- ジル ドゥルーズ
- 出版日
本書は1972年から90年までのあいだにドゥルーズ(と盟友ガタリ)が受けたインタビューや談話を中心に編まれたもので、「口さがない批評家への手紙」と「追伸――管理社会について」といういずれも重要なテクストを収めてもいます。
原題の『折衝(pourparlers)』という言葉からも推し測れるように、ここに収められたドゥルーズの発言にはみなどこかしら、社会となんとか折り合いを付けていくために嫌々ながら(?)発せられたという響きが付きまとっています。同じように対談を中心に据えた1冊である『ディアローグ――ドゥルーズの思想』と比較してみれば、雰囲気の違いは一目瞭然です。
とはいえ『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』、『シネマ』や『襞』といった主要著作の著者自身による解説が読める点で、本書はドゥルーズ(とガタリ)への入門書として十分に有用です(実際、筆者が高校生のとき初めて通読したドゥルーズの本はこれでした)。
また、観想的でどちらかといえばデタッチメント重視のドゥルーズの哲学に対し、他者からの(ときに悪意さえ含んだ)突然の問いかけがいかなる「批評的な」効果をもたらすのかを見るうえでも、本書は格好のテクストであると言えるでしょう。たとえば、68年以降、ガタリと比べて政治活動から距離を取った観のあるドゥルーズがその理由を尋ねられて、「コンセンサスとは世論操作を目的とした観念的な規則であって、哲学とはいっさい関係がないのです」と述べる箇所などには、まさにそうした緊張を孕んだ応答の場面でしか見られない類いの、彼の鋭い批評的観察眼が示されているように思えます。
- 著者
- G.ドゥルーズ
- 出版日
原著出版は1981年で、ちょうどドゥルーズの哲学がその後期様式へと向かい始めた頃に書かれた本。ただし、スピノザ自体は国家博士号取得のための副論文として提出した『スピノザと表現の問題』ですでに論じられているので、ドゥルーズお得意のテーマを新たに論じ直した本として受け取ることも可能でしょう。
スピノザの主著『エチカ』の主要概念を解説した第4章が哲学書としての本書のコアをなしていることは明らかであるものの、筆者にとって興味深いのはむしろ第1章「スピノザの生涯」や第3章「悪についての手紙」のほうです。そこでドゥルーズは、スピノザが彼の哲学に敵意をもつ者や異論を差し向ける者に対してどのように振る舞ったかについて、ある種の共感を滲ませながら記述しています。そこに通底するのは、言うなれば、「人間が必然的に抱え込んでしまう弱さをどうするか」という少なからずニーチェ風の問いかけです。
実際、伝記的な記述からなる第1章の末尾では、『エチカ』を特徴づける幾何学的方法が単なる知的解説ではなく、そうした弱さを乗り越えるための「創意工夫の方法」であることが強調されています。批判者との往復書簡を扱った第3章でも、批判者の心の歪み、ある種の弱さに対してドゥルーズは直接的な非難を一切浴びせず、むしろ批判者がいかに的確にスピノザ哲学の本質を理解し、その核心を突くような質問を投げかけているかを指摘し、そのことに小さな驚きを表明してみせさえするのです。
真の哲学的思考は、悪でさえその最も生きいきとした様態のうちで捉えようとするものである――そのことを学ぶためだけであっても、この軽やかな小著を読む価値はあると言えそうです。
- 著者
- ジル ドゥルーズ
- 出版日
- 2015-05-11
ドゥルーズの死後に出版された『無人島』と『狂人の二つの体制』の二冊から、特に重要なテクストを中心に編み直された日本独自のアンソロジー。評論、序文、鼎談や書簡など、ここに含まれている文章の種類は雑多ですが、選ばれたテクストはいずれも必読のものなので、コスパの良い本だと言えるでしょう。
さて上巻に当たる本書では、分離と再開の問題を論じた「無人島の原因と理由」、構造主義を特徴づけるものとして7つの規準を挙げた「何を構造主義として認めるか」や、哲学的遺書となった「内在――一つの生……」などの哲学系の論文が収録されており、主著における雄弁さとはまた別の、短い文章向けに凝縮され簡潔にされたドゥルーズの文体を味わうことができます。
内容の点では、「カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー」や「ジルベール・シモンドン 個体とその物理‐生物的な発生」も見逃せないでしょう。
前者においては、自然状態の人間に関するルソーの主張が論理的に解釈し直され、悪が、社会において人間が必然的に巻き込まれる「邪悪であるほうが好都合な状況」から生じるもののことであることが鋭く指摘されます。この見方は、初期ドゥルーズに特徴的な「本能と制度」に関する思弁や、のちの『アンチ・オイディプス』における社会的技術的生産への欲望機械の取り込みに対する批判にも通じるものです。
また後者は、『差異と反復』の鍵概念でもある「個体化」について技術哲学者シモンドンの思想を解説しつつ、「個体はその個体化と同時にしか存在しえない」ことを論じるものです。ドゥルーズにおける個体化や強度的差異といった概念が何を意味するか知るために、また主著が未邦訳であるシモンドンの哲学について学ぶためにも役立つ、優れた論文だと言えるでしょう。
- 著者
- ジル ドゥルーズ
- 出版日
- 2015-06-08
日本独自編集のアンソロジーの下巻。「権力/芸術」とサブタイトルが付されていることからもわかるように各種の作品論と政治的状況論が集められています。そのうちの一篇「ペリクレスとヴェルディ――フランソワ・シャトレの哲学」は、哲学史家シャトレの追悼のためにドゥルーズが書いた小著であり、『ドゥルーズ横断』という論集に既に邦訳が収録されていたものですが、同論集がすでに入手困難となっているためこのコレクションに再録されたということのようです。
人間の可能態(Puissance)に潜むどうにもならない受動性――つまりは隷属性――に絶望した男シャトレが、崩壊に抗する複数の理性化のプロセスの可能性を信じようとする姿を描き出すこの論文は、ドゥルーズのシャトレに対する個人的友愛によってのみならず、それが含む思想的意義の現代性においても美しく際立っているように思われます。つまりドゥルーズはシャトレのうちに人間的自由の困難という古くて新しいテーマを読み込むわけですが、最終的には哲学と音楽における課題の並行性ということをシャトレ自身の音楽論に託しつつ暗示することになり、しかもそれが、後期ドゥルーズにおける哲学的思考と知覚および身体性の関係についての関心とも深く響き合う箇所になっているのです。
一度このことに気付いてしまえば、フーコーの有名な装置(dispositif)の概念を論じた「装置とは何か」や、映画学校での講演である「創造行為とは何か」などでも、ドゥルーズが絶えず知覚と思考の関係に立ち戻っているのが見て取れることでしょう。ドゥルーズにおいて芸術と政治の問題は、超越的に切り離せるものではないのです。
- 著者
- ジル・ドゥルーズ
- 出版日
- 2010-05-01
ドゥルーズの死の二年前に当たる1993年に出版された本書は、タイトル通りの文学系評論集でありながらも、カント、ニーチェ、スピノザなどドゥルーズが過去の哲学史的仕事において扱ってきた哲学者たちをも論評の対象としており、主著と比べても遜色ない理論的密度を有した一書となっています。総論となる第1章「文学と生」では、作家たちがそれぞれに固有の症状と戦うなかで獲得される、ひとつの小さな健康の企てとして文学を理解しようとする、ドゥルーズの基本的な姿勢が表明されます(だから「臨床」なのです)。
かつてガタリとの共著『カフカ――マイナー文学のために』で示された吃り、マイナー性といったテーマも、本書では病と健康、そして錯乱と民衆(ピープル)の問いを抜きにしては提示されえません。
ドゥルーズを生涯にわたって苦しめた喘息の病がこの時期に激しさを増し、「書くこと」を彼に許さないほどにまでなってきていたことを思い起こすならば、また後期ドゥルーズにおける身体性の問題の重要性ということを踏まえるのであれば、この「文学としての健康、エクリチュールとしての健康」というテーゼのうちに賭けられたものがどうやらかなり大きいらしいことは、ただちに察せられるでしょう。それゆえ、ホイットマンやメルヴィルなどの英米文学のうちに「生のプロセスの解放」を読み込もうとしたドゥルーズの背後には、分裂症的言語学者ルイス・ウルフソンや狂気の劇作家アントナン・アルトーの発語不能なまでに変形されたエクリチュールをそれぞれの戦いの痕跡として臨床/批評しようとする、彼自身もまた病と戦う書き手であるところの、もう一人のドゥルーズが佇んでいるのです。
- 著者
- ジル ドゥルーズ
- 出版日
- 2016-02-24
『スピノザ――実践の哲学』と同じ1981年に出版された本書でドゥルーズは、イメージ・知覚(感覚)・身体の問題、そして生成変化における生と死の問題を、フランシス・ベーコンの歪んだ人物画というきわめて強力かつ魅力的な「具体例」のうちで思考し抜き、論じきります。
本書は二重の意味で具体的な書物です。第一にドゥルーズ自身が、ベーコンという具体的対象に即すかたちで彼自身のイメージの哲学を語っているという意味で。また第二にベーコンが、非常に特殊なそれとしてではあれ、やはり具象的な(figuratif)絵画の実践者であるという意味で。
しかしながら、ドゥルーズもベーコンも、最終的には具体的なものと抽象的なものという凡庸な二項対立を超えたところにある「輪郭(contour)」や「図像(figure)」にこそ、自身が思考し、描き出すべきものを見出すことになります。ドゥルーズはベーコンの立場を代弁して「図像は神経系統にじかに作用する」と言い、「具象画も抽象画も脳を経由するので、神経系統に直接作用することがなく、感覚に到達することがなく、図像を出現させることもないのだ」と述べる。こういう記述を読んでいると、ドゥルーズの言う「図像」とはほとんど、身体に取り憑く物質的幽霊、ウィルスのようなものなんじゃないかとさえ思えてきます。
いずれにせよドゥルーズ=ガタリの著書ではお馴染みの「器官なき身体」の概念や、美術史家アロイス・リーグルによる「触感的(haptisch)」の概念とも直接的に関連付けられる、この「図像」の概念には、いわゆるフォーマリズム的還元主義とは違うレヴェルで絵画の本質について再考してみるためのヒントがあると言えるでしょうし(第12章「図表」ではまさしくフォーマリズム的抽象絵画の問題がドゥルーズ自身の観点から再構成されることになります)、また生成変化において生じる逃走線が死に向かうのをいかにして食い止めるかという問いのためのヒントも含まれていると言えるでしょう(この問題については千葉雅也のドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』を読むとより理解が深まります)。