熊本では清正公(セイショコ)さんと呼ばれ、絶大な人気を誇る加藤清正。実直で強い男というイメージがありますが、実際はどうだったのでしょうか。加藤清正について深く知るためのおすすめ本を4冊ご紹介します。
1562年に現在の名古屋市で、刀鍛冶である加藤清忠の息子として生まれました。清忠は清正が3歳の時に亡くなってしまい、清正と母は津島に移ります。母親は秀吉の生母、大政所と親戚だったので、その縁で1573年秀吉に仕えることになりました。親族を重用する秀吉に可愛がられ、清正もそれ以降忠義を尽くしていきます。
1582年本能寺の変が起こると、秀吉について戦いへ参加し、賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」の一人と呼ばれるほどの働きをしました。次々に武功を上げ、1586年には肥後北半国195000石を与えられることとなります。そして隈本城を改修して、熊本城を作り上げたのです。
文禄・慶長の役で朝鮮へ出兵し、大きな手柄を上げます。石田三成派との確執が深くなり、秀吉から謹慎させられることもありましたが、結局は忠義を認められて許されました。秀吉の死に伴い朝鮮での戦いも終結。その後は徳川家康に近づきます。
関ヶ原の戦いには九州で参加し、常に熊本の平定・整備に取り組んでいます。熊本城の築城工事のやり方も優れており、大規模な治水・土木工事も立派にやり遂げました。率先して働き、リーダーとしての才能もあったことから、死後も大きな信仰を集める人物となっています。
清正といえば朝鮮での虎退治がもっとも有名ですが、彼の虎退治が有名になったのは江戸時代になってからの話。実はこれをしたのは黒田長政とその部下であり、後世になぜか清正の功績だということにされたのです。
ではなぜ清正の話に切り替わったのかというと、詳しい経緯はわかっていません。ただ熊本には今も「清正公信仰」という法華宗から由来する伝統があります。これを推進したのは清正が去った後に藩主となった細川忠利ですが、戦国以来清正の法華宗による統治は非常に受け入れられており、それを利用したのだと考えられます。
明治時代の教科書では、清正は朝鮮出兵の際に民のために虎退治をした英雄として紹介されていました。つまり、現在我々が一般的に知っている清正は、一種のプロバガンダ的な存在として祭りあげられた英雄像を反映させたものなのです。
一方、虎狩りは本当に清正がやったものだとする説もあります。それによると、彼は槍ではなく鉄砲で虎を討ちとり、その肉を秀吉にたびたび献上したそうですが、あまりに頻繁に持ってくるため、さすがの秀吉も「もう飽きたからいらない」と止めたそう。
皆さんはどちらが真実だと思いますか?
1:実は武勇よりも政治の方が得意
賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられるように、最前線での武勇で知られる加藤清正ですが、彼は単なる猪武者ではなく財政処理や内政に長けていました。
少なくとも秀吉の天下統一の段階では、清正が買われていたのは財政処理の能力でした。小牧・長久手の戦いの際に彼が率いた兵はたった150人であり、その他の戦でも後方支援を担当することが多かったのです。
賤ヶ岳七本槍のなかには武勇しか誇るものが無く、さほど出世に恵まれないまま江戸時代を迎えた人もいますが、清正は文武両道で、豊臣家子飼いの要だったのです。
2:石田三成とは当初は仲が悪くなかった
清正を語るうえで必ず語られるのは、石田三成との不仲です。しかし実は、若い頃から彼らが不仲だったとするエピソードはありません。決定打となったのは、朝鮮出兵の際の伝達の行き違いでした。
清正は文禄の役で朝鮮の王子2人を捕らえる活躍をしましたが、三成らは独断で和議を推し進めてしまい清正の功を白紙にしてしまいます。
また慶長の役では、危機に陥った清正を一生懸命助けようとしたのは実は国内にいた三成だったのですが、三成の妹婿・福原長堯(ながたか)が清正らの軍令違反を報告し、清正は領地を没収されてしまうのです。
三成自身はむしろ清正らを擁護したくらいですが、長堯が三成配下であったために三成が一枚噛んでいたと勘繰られ、結果として清正らは三成を憎むこととなりました。
3:熱心な日蓮宗の信徒で、宿敵は小西行長
清正は熱心な日蓮宗の信徒で、領内には多くの日蓮宗寺社を建てさせました。これとは対照的に小西行長は有名なキリスト教信者で穏健派として知られる人物でした。清正と行長は天草にいた一揆衆の処理を巡って対立、穏健派の行長を無視して清正は強引に武力で解決してしまいました。
2人は豊臣政権下で領国が隣同士でしたが、清正は商人出身の行長を「薬問屋の子倅」と言って嫌っていました。しかし行長も負けてはおらず、朝鮮出兵では清正を出し抜いて1番手柄を立てます。明との講和を三成と一緒に進めたのも行長で、このあたりは戦国時代の気が抜けない者同士の意地の張り合いでしょう。
4:関ヶ原の戦いに参戦してない理由は、薩摩での内乱に加担したため
豊臣家子飼いの家臣のなかで重要な立ち位置にいた清正ですが、関ヶ原の戦いには参加していません。というよりも、実はできなかったのです。
秀吉の死後、清正は家康に近づきますが、この頃九州薩摩では島津氏の家臣・伊集院忠真が島津に謀反を起こそうとしていました。この事件は家康が忠真に罪有りとして裁こうとしていましたが、清正は忠真の謀反を協力する約束を取り付けていたのです。
忠真は結局殺され事件は解決しますが、家康は清正が加担していたことに激怒し熊本での謹慎を命じます。これによって上杉征伐への参加を禁止され、ひいては関ヶ原の戦いに行くこともできなかったのです。
1:徳川吉宗の祖先である
清正は政略結婚で、家康の養女・清浄院(水野忠重の娘)を継室としました。この時の約束で、清正は自分の娘を家康の息子に嫁がせることになります。そして清浄院との間に八十姫をもうけ、彼女は後に伯父の水野勝成の養女となり、家康の十男・頼宣と結婚しました。
頼宣は後の紀州徳川家の初代であり、頼宣と八十姫の間には光貞が生まれます。そして光貞の四男が、八代将軍の徳川吉宗なのです。
加藤家嫡流は残念ながら改易されてしまいましたが、女系を通じて加藤家は現在も生きています。おそらく清正信仰の背景にはこの血縁も無縁ではないでしょう。
2:前田利家を慕い当初は家康と敵対しようとしていた
清正は武勇に優れた前田利家を特に慕っており、その息子の利長とも同世代であったことから、よしみを通じていました。利家は清正ら武断派と、三成ら文治派の仲裁役だったことでも知られていますが、利家の存在は豊臣政権のなかでとても大きなものでした。
秀吉の死後、遺言違反を重ねる家康に対し利家ら大老達は問責しようとします。これによって諸将が伏見の家康邸と大坂の利家邸に集まるという一触即発の事態になるのです。
清正は家康と政略結婚をしていた立場でありながら、利家についています。この陣営には宿敵・小西行長や石田三成もおり、逆に福島正則らは迷わず家康側にいました。もし利家がこのまま健在であれば、清正を筆頭に子飼いたちがさらに分裂し、戦国時代が再び訪れていたかもしれません。
3:熊本の特産品・朝鮮飴の発案者
清正は朝鮮出兵の際に、携帯食として不便なおにぎりではなく、もち米、水あめ、砂糖を用いた求肥飴(餅のようなもの)を兵士に持参させました。これは後に「朝鮮飴」と呼ばれ、江戸時代を通じて清正亡き後も熊本の名産品として幕府に献上される特別なものとなりました。
現在も熊本県では朝鮮飴が売られており、特に有名なブランドはとんがり兜がトレードマークの「清正製菓」です。
4:熊本城の秘密!畳や着物に非常食を仕込んでいた
熊本県の名農産物に、「ずいき」という植物があります。里芋や蓮芋の葉柄部分のことをいいますが、清正は熊本城の畳や女性の着物の繊維としてずいきを使い、非常食として準備していたとされています。
ずいきは朝鮮飴と並んで代々熊本の将軍への献上品として数えられていました。繊維質で、おひたしやきんぴらに合い、ある地域では産後の女性に儀式で食べさせるものとして伝わっています。
5:お座敷遊び「とらとら」の題材は清正の虎退治
お座敷で芸姑さんとお酒を飲んでいると、余興として「とらとら」というじゃんけんのような三すくみの遊びをすることがあります。これは清正の虎退治をテーマにしたもので、音楽に合わせて演者がそれぞれ三つのうちの一つの動作をします。
清正の槍がグーならば、虎はチョキ、パーが老婆というような感じですが、これと同じ趣旨のゲームとして、近松門左衛門の人形浄瑠璃『国姓翁合戦』から鄭成功の逸話をとった「和藤内の虎退治」というものもあります。この場合、清正の槍が鄭成功の鉄砲になりますが、こちらも三すくみの同じようなゲームです。
後者のゲームは近松門左衛門が由来なので、発祥は江戸時代中期頃だと思われますが、この頃からすでに清正信仰が強かったという証拠ですね。
加藤清正の生涯について全体像を知ることができる本書。史実に基づき丁寧に時代背景が書いてあるので分かりやすく、清正の人柄についても詳しく感じ取れる本です。特に朝鮮出兵についての記述が多く、事実を知ることができるでしょう。
清正が秀吉に仕官するところから話は始まります。秀吉の母のいとこの息子ということで、肉親を大切にする秀吉は清正を重用しました。少し後に、生涯反りが合わなかった石田三成も召し抱えられます。信長が本能寺で打たれた後は、秀吉について賤ヶ岳の戦いなどで名を上げ、肥後の太守までのぼりつめました。そして秀吉の天下となり、秀吉は朝鮮出兵を決断します。先陣として清正と、石田三成寄りの小西行長が選ばれ、苦難の戦いの始まりとなるのでした。
加藤清正は誠実で、真面目、政治能力もあったと、とても優れた人物として描かれています。秀吉と豊臣家への忠誠心には感動するばかりで、この本を読むと清正ファンになってしまうことでしょう。清正と石田三成や小西行長の競り合いも面白く、三成がとても嫌な人に見えてきます。作者の意図でしょうが、清正には悪い点が見当たりません。
法華経を唱えて気の弱さを克服しようとしていたことや、武力だけではなく儒学なども学んでいたことなど、清正の本質について改めて知ることも多いはずです。なぜ豊臣への忠誠心がありながら東軍に与して戦ったのか、なぜ熊本で絶大な人気を誇るのかについても分かりやすく述べられています。清正の魅力に触れることができる素晴らしい1冊です。
文禄・慶長の役をまるで合戦を見ているように描く本書は、朝鮮出兵について知りたい人はぜひ読んで欲しい本です。なかなか詳しく書かれることのない文禄・慶長の役。史実を基にし、公平な視点から、しかしドラマティックに戦いが展開されていきます。
主役は加藤清正配下の沙也可と朝鮮の役人である良甫艦。沙也可は佐屋嘉兵衛忠善という男ですが、祖国を裏切り朝鮮へ仕えることになります。逆に良甫艦は日本側へ寝返ります。運命に翻弄される二人。二人の間に何があったのか、日本と朝鮮との間には何が起こっていたのか……。釜山城攻防戦から始まり、クライマックスの蔚山城籠城戦までの壮絶な戦いに心打たれます。
二人の人物が主役となっていますが、加藤清正配下ということで、清正主体の戦でもあります。ページをめくるのを止められない展開で、どんどん読み進めてしまうはずです。戦の話ではありますが、根底にあるのは、生まれた国や土地は関係ないという考え方なのでしょう。戦うのではなく手を取り合うことが必要だという作者の意図がこめられています。二人の友情に感動しながら、文禄・慶長の役について深く考えさせられること間違いありません。多くの日本人に読んでもらいたい、読みごたえのある作品です。
朝鮮出兵について詳細にまとめられた『加藤清正―朝鮮侵略の実像』をご紹介します。清正は日本では大変な人気で、朝鮮出兵でも華々しく戦い、朝鮮の民もいたわった英雄として扱われています。しかし、朝鮮側からみた清正はどうでしょうか。同じ印象であったとはかぎりません。朝鮮の書物には、清正は他の日本武将よりも無慈悲で狂暴であり、朝鮮人の恨みの的になっているという記述も残っています。
この本では、清正を中心にして、朝鮮出兵の様子を細かく史料を追いながら説明しています。特に文禄の役で咸鏡道(かんきょうどう)を支配することになる話、小西行長とともに行う交渉、そして慶長の役のクライマックスである蔚山城の戦いについて詳細に読み取れることでしょう。
なかなか知られていない朝鮮での戦いについて知ることができるだけでもこの本を読む価値があります。それに加え、加藤清正がどのように考え行動したかについて分かりやすく書かれていますので、ぜひ手に取ってみてください。
『火の国の城』は、加藤清正に仕えた忍者、丹羽大介の話です。戦国忍者シリーズの最終巻としても位置付けられており、『蝶の戦記』『忍びの風』『忍者丹羽大介』を読んだ後にこの本を手に取れば、面白さが倍増することでしょう。もちろん単品で読んでも問題はありません。
時は関ヶ原の合戦から5年。丹羽大介のもとに加藤清正の臣下が接触してきます。清正に謁見した大介は、その人柄に惚れ、清正のために働くことを決心しました。そして江戸と大阪の間を取り持つために動こうとしますが、以前甲賀を裏切ったことで追われる身となっている大介は、なかなか思うように身動きが取れません。そこで、昔馴染みの於蝶に協力を頼みます。大介・於蝶ら数少ない忍者と、徳川方の甲賀忍者たちとの戦いが幕を開けるのでした。
大介を始めとする忍者たちの影なる戦いに興奮することは間違いなしです。徳川と豊臣の戦を回避しようとする清正の命で働く大介と、全国に張り巡らされた甲賀忍者との命がけの戦いは、普通の人には知り得ない戦いばかり。変装や尾行、潜伏で騙し騙され、さらには驚くべき身体能力を見せる忍者たちが繰り広げる、ハラハラドキドキの展開が待ち受けます。
冷淡で非情な忍者ばかりの中、熱い思いを持ち情もある大介は人間味に溢れた忍者です。加藤清正に傾倒し命をかけて働くのですが、何とも清正が素晴らしい人物に書かれています。政治能力抜群な上に器も大きい男で、とにかく格好いい。現代であっても、こんな人の下で働きたいと思わせてくれるような加藤清正像を、垣間見ることができるでしょう。
加藤清正は欠点が見当たらないほど、忠誠心に厚く立派な人物だったようです。朝鮮出兵は日本人として学んでおきたい歴史ですので、ぜひさまざまな文献を参考にしてください。