映画『ヴァージン・スーサイズ』で自殺未遂を起こした少女は精神科医に「先生にはわからないわ。先生は13歳の女の子じゃないもの」と言う。このセリフは、作品の核であると思う。
「少女」という曖昧であり且つ核心的な存在が常に大人を翻弄するのだ。そして少女たちが巻き起こす数々の理不尽は、世界の何物にも邪魔できないこの世の不条理なのだ。
しかし、なにより少女を愛したドジソン(ルイス=キャロル)は自分を少女になぞらえ、ある意味では少女の父親になぞらえ、ある意味では少女の愛人になぞらえている。結局みんな誰も彼もが少女である、ということなのだろう。
それを前提に、今回わたしはわたしなりの少女文学を紹介しようと思う。
「”エロスのシンボル”たる小さな貴婦人たちへの大胆知的な愛の冒険」
17歳から18歳という、少女が少女というカテゴリから切り離され一人置いてけぼりにされる時期、わたしは永遠に少女でありたい、そうあるにはどうすればいいのか…と少女についての書物を片っ端から読み漁っていた。それが救いであり、ある意味ではわたしを大人にさせた。この本は、そんな時期に少女趣味の大人である知人の溢れかえる本棚の中でみつけた。他の本よりもいっそう日に焼け付箋がたくさんついたこの本には、凄みがあったことを覚えている。四谷シモン作の人形写真の表紙、巻頭、そしてこの悪趣味なまでにまっすぐなタイトルに惹かれたのだ。
導入の文章でドジソン(ルイス=キャロル)の話を用いたが、本著の「アリスあるいナルシシストの心のレンズ」の章でもドジソンについて触れられている。ウィリアム・エンプソン「牧童としての子供」からの一説から、少女(アリス)と性を紐説いている。
少女を一番よく知るのは少女自身であり、少女を一番知りたいと願うのは大人たちなのだ。著書はそんな大人が少女を追及するエッセイである。
「あなたの一本の黒髪が地平線になりました」
大切にしていたものがあったような、なかったような。ただ一つ言えることがあるとすれば、いまここにはないということだ。成長していくにつれて忘れてゆく様々な感情と、小さくも果てしない愛が巧みなレトリックで綴られた寺山修司の詩集である。
「どうしても大人になるのが怖いのです」と口癖のように唱えていた頃、とある人物に薦められた本なのだが、この詩集を読んでいる内は少女に還った気持ちになる。
詩の一編を借りるなら”「少女」の謎をとこうとしたら 100人のシャー・ロックホームズ探偵を集めるよりも 一編の詩をよむことを おすすめします”といったところだ。
現代の少女と少女退行願望を抱くすべての方に。