大塩平八郎という人物が起こした乱の背景を、多面的な本で明らかにする

更新:2021.12.16

大塩平八郎という名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか?歴史の教科書にも出てくる偉人です。小説の題材にもなっています。彼を知ることによって江戸時代後期を詳しくわかるようになり、さらにその生き方は人生の教訓にもなります。

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大塩平八郎とは

大塩平八郎は1792年に生まれ、生涯で様々な職業に就きました。生まれた家自体は代々旗本や与力を勤める裕福な家でした。その関係もあり彼はまず大阪町奉行組与力として働きます。与力とは、町奉行の支配下で、司法、警察など世の中の治安維持を行う機関で、現代の警察署のような立ち位置です。

次に彼は1830年頃、陽明学者になります。中国から伝わる儒教の一派である陽明学という学問をほぼ独学で学び、隠居した後に私塾・洗心洞という塾を開いて子弟を指導しました。時代は違いますが、陽明学は後に西郷隆盛の思考のベースにもなっていたそうです。

1833年から1837年にかけて、天保の飢饉という大飢饉が起きました。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉ともいわれています。凶作対策をしたために、死者の数は他の飢饉よりも少なかったのですが、その当時は商品作物の商業家で農村に貧富の差が拡大していために貧困の百姓が多く餓死してしまったそうです。米価が急激に上がったために百姓一揆や打ちこわしがおこりました。この天保の飢饉は後の大塩平八郎の乱の原因にもなりました。特に被害は大阪でひどく、毎日150人から200人が亡くなったそうです。

大塩が亡くなったのは1837年。決して長生きだったとは言えませんが、濃い人生だったのでしょう。

大塩平八郎についてあなたが知らないの事実

1:祖先は徳川家の主筋の一族だった

彼の祖先は、室町時代から戦国時代に隆盛を誇った今川氏の一族でした。当時徳川家は今川氏に従っていたので、主筋の一族に当たります。今川氏が滅亡してからは徳川家に仕え、現在の愛知県に本拠を置く御三家の1つ、尾張徳川家に奉公した後、大阪へと移り住みました。

2:身長は160cm前後と想定される

彼の身長が2mを超えていた、という憶測もあるようですが、石崎東国著の『大塩平八郎伝』の中に「身の丈五尺五六寸」と記してあります。1尺は約30cmですので、身長はおよそ160cmだったと推定できます。

3:とてつもなく早起きだった

彼の朝は早く、毎朝午前2時に起きてその日の気象を確認し、弟子たちを呼び出して講義をしていました。

4:うつ病になって自殺も考えた

1828年に行われた王陽明の300年祭の祭文のなかで、「心肺の疚」にあって「死なんと欲すること再三」とあり、さらに育ての親が1828年前後に相次いで亡くなったことが記されています。

「心肺の疚」とは「心の病」のこと。病気の苦しみと育ての親の死によって、再三に渡って死にたいと思っていたのでしょう。

5:禁書になった著書が後の時代のロングセラー本となった

彼が書いた『洗心洞箚記』は明治時代に入りロングセラー本となり、多くの人々に読み継がれてきました。陽明学のあり方や思想、理想像などを読書録という形式で説いています。

大塩が起こした乱の後に禁書となりましたが、それでも所蔵した薩摩藩の西郷隆盛や、江戸幕末の長州藩藩士の吉田松陰なども高く評価し、三島由紀夫も彼の行動哲学に共感していました。

6: 彼が挙兵失敗後40日間生き延びたのは、幕府を変えるためだった

彼は乱の前に、当時の幕府中枢の汚職を訴えた手紙を水戸藩藩主徳川斉昭などに送っていました。その後乱自体はすぐに鎮圧されてしまいましたが、彼は養子の格之助とともに逃亡し、隠れ家に潜伏します。

結局その手紙は黙殺されてしまいますが、彼がすぐに自決しなかったのは、その手紙が明るみとなり幕府の改革がなされることを期待した可能性があると言えるでしょう。

7:町を焼かれた住民たちは、大塩捕縛の賞金を断っていた

大塩平八郎の乱によって、大阪の町も大きな被害を受けました。乱の後、彼を捕まえた者には銀100枚を与えるというお触れが出されましたが、自分たちも被害を受けていたはずの民衆は「銀100枚が1000枚になっても訴えるものか」と言って彼を庇う姿勢を見せています。

8:大塩親子の墓よりも民衆の碑の方が5倍近く大きい

彼の墓は、江戸時代は建てることが禁止され、明治に入ってから建立されました。その後戦争中に空襲などで破壊されたものの1957年に復元されます。しかし「大塩の乱に殉じた人々の碑」の方が彼の墓よりも5倍ほど大きく、死後も「民衆のことを最優先で考える人物」と噂されました。 

大塩平八郎とは反逆者か?それとも英雄か?

『大塩平八郎』は、有名な文豪・森鴎外が書いた小説です。現在では大塩平八郎は、かっこよく肯定的に思われていますが幕藩体制から森鴎外の生きた天皇制の時代を通しては否定的な評価がなされていました。彼は幕藩体制にとっては体制の転覆を図ったけしからぬ人物だと思われていたからです。

天皇制になっても暴動を以て権威に立ち向かった無謀な男であり、天保時代に世の中を苦しめた飢饉などの時代背景を見ても同情できるところは全くないと思われていました。森鴎外は大塩平八郎の乱を描くことによって、それがもった歴史的な意味合いを考えなおそうとしました。それと同時に彼の人物像や暴動に関わった人々の行動を詳細に明らかにしようとしたのです。

そこで森鴎外は歴史家の幸田成友が書いた『大塩平八郎』という本を参考にしました。この本は彼の名誉を回復させようと意図が含まれた本です。しかし森鴎外は大塩に同情するような言葉は一切用いていません。内容は大塩平八郎の乱の暴動当日のわずか1日の動きに焦点をあてています。説明は除かれ、彼を中心にした人物たちの行動を淡々と書いてあるのみです。

著者
森 鴎外
出版日
1940-01-10

森鴎外は結局、終始批判的な立場をとっていたそうです。森鴎外自身も官僚として人生を送り、権力の中心付近にいました。彼も官僚に近い立場にいた人物。なぜそのような人物が叛旗を翻したのか分からなかったのでしょう。この本は森鴎外の思想も読み取ることができますし、大塩平八郎の乱は本当に正しかったのかどうか説いている小説なのです。

大塩平八郎の周りの人から見た姿とは

この『天討 小説 大塩平八郎の乱』の特徴は、妻のゆうや塾頭の宇津木の視点から大塩を書いているところです。

その時代に起きた天明の飢饉で、大阪の町にも十分に米が行き渡らず餓死する人が出る中で世直しを求め、立ち上がることを決起する大塩とその門弟たち。

しかし彼が求めたのは、汚職を追放し幕政改革を行うこと。それによって世の中がよくなると思っていました。そういう意味では思想的な限界があったのかもしれません。成算が少ないからやめるべきだと主張する塾頭の宇津木の存在もありました。弟子を殺害してまでも大塩たちは乱に向かいます。

著者
松原 誠
出版日

そんな矢先に洗心洞の弟子が裏切り、決起予定の前日に奉行のお知らせが入ってしまいます。その結果半日で敗北し、逃亡します。自らが出した幕府への意見書を待ちますが、その前に潜伏先に見つかり、潜伏場所を爆破して、死亡しました。

そのほかにも、飢饉の農民が乱を起こしたのに頼りの農民が反乱に参加しなかった理由などが、小説を通じて描かれています。少し難しい内容となっているため、大塩の知識を少しいれてから読んでみるといいかもしれません。

大塩平八郎の行動の意味

「作品にハズレなし」と書評家や書店員の間でいわれているほど評価の高い歴史小説家、飯島和一が書いたのが『狗賓童子の島』です。この作品以外にも『黄金旅風』『出前前夜』などの優れた作品もあります。

この小説は、大塩自身ではなく、大塩の挙兵に連座した父の罪により、6つの年から9年に及ぶ「処罰」のため日本海に浮かぶ壱岐「島後」に大阪から流された15歳の少年、西村常太郎の話です。

しかし、島の人々は、常太郎を温かく迎えます。大塩平八郎の乱に参加した父の名前を島の人々が尊敬と敬意をこめて呼ぶのを常太郎は聞きます。翌年に16歳になった常太郎は、「御山」の千年杉へ初穂をささげる役を、島の人々から命じられます。

著者
飯嶋 和一
出版日
2015-01-28

下界から見える大満寺山の先に「御山」はありましたが、許されたものしか入ることのできない神聖な山でした。やがて常太郎は医術を学び、島に医者として深く根を下ろしますが、徐々に島の外から重く暗い雲が忍びよっていました。

大塩平八郎の乱や彼自身を明らかにする小説ではなく、名もなき少年を主人公とすることで父の行動の意味や大塩と周囲の人々の心情を明らかにしていく小説です。

大塩平八郎の根本的思想を探る

大塩平八郎の乱が正しいのか否かではなく、なぜ大塩平八郎は乱を起こしたのか?この本は彼の生きざまや大塩平八郎の乱を扱う内容ではなく、大塩平八郎の思想を執拗に探るという本です。
 
先ほど紹介した森鴎外の本では、大塩平八郎の乱と思想は関係ないといった記述があります。しかしこの本では彼自身の内面、思想をかなり詳細に追って乱の謎に挑んでいます。とにかく大塩平八郎に向き合って語り、中身が濃い本です。
 
大塩平八郎は、幕府の腐敗役人の腐敗ぶりを見て、そして飢えに苦しむ民衆を救うために乱をおこしました。陽明学とは、善は実践を伴わないといけないという思想であるために、その思想に基づき乱を起こしたのでしょう。

著者
宮城 公子
出版日

宮城公子は、京都大学時代に日本近代史などを専攻していためかなりの情報量ですし、分析もかなり優れたものとなっています。大塩平八郎の研究でも優れた評価を受けています。そのために大塩平八郎の思想を知るには必読書といえるでしょう。

大塩平八郎が人生のなかで読んだ本を記録した読書ノート

大塩は「大塩平八郎の乱」を起こしたことで有名ですが、陽明学者でもありました。彼はかなりの勤勉家であったためにかなりの量の読書をしていました。読書するだけではなく読書ノートもとっていたそうです。

著者
吉田 公平
出版日

そんな彼が残した読書ノートを、著者が現代語訳を試みた作品です。陽明学の理解と大塩の思想も分かります。明治の三傑である西郷隆盛も肌身隠さず読み込んだ本だそうです。西郷隆盛も陽明学を思想のベースとしていました。

明治時代の隠れたベストセラーでもあります。この思想を本格的に理解するには、『日本思想体系 46 佐藤一斉 大塩中斎』も押さえていた方が理解は深まるでしょう。

この5冊の本を読めば、大塩平八郎のことを深く知ることができると思います。この他にも江戸時代後期の他の人物の本や江戸時代後期の勉強などをしてみるのも面白い試みかもしれません。現在の日本では彼のような情熱をともした人物は少ないとでしょう。現在の日本では目標や夢などを忘れているような気もします。こういう時代こそ大塩平八郎を知るという意義はかなりあると思います。

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