豊臣秀吉の天下統一から晩年まで詳しく知れる本5冊

更新:2021.12.16

100年に及ぶ戦国時代を終結した豊臣秀吉は、一農民から天下人にまで駆け上がった立身出世の代名詞的存在です。今回は、様々な偉業や伝説を持つ豊臣秀吉の華々しい生涯を詳しく知るための本を5冊、ご紹介します。

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天下を獲った、豊臣秀吉とは?

戦国時代を終わらせ天下統一を成し遂げた戦国武将、豊臣秀吉。その天才的な戦略で低い身分から天下人までになった立身出世の代名詞です。

秀吉は、尾張(現在の愛知県)の農村で生まれます。出生は諸説ありますが、いずれにしても身分の低い家だったようです。始めは木下藤吉郎と名乗り、今川義元配下の武将に仕えますが、後に織田信長の小物として奉公するようになります。

織田信長は身分にこだわらず才能ある人材を登用する武将でしたので、藤吉郎は徐々に織田家家中で頭角を現していくようになります。信長もその才覚を重宝し、美濃攻め、越前朝倉攻めなど、数々の戦で功をあげた藤吉郎を大名にまで出世させます。この頃より羽柴秀吉を名乗るようになり、織田家重臣として信長の全国の仕置きに転戦することになります。

信長の命による中国地区攻略の途中、本能寺の変で主君信長が討たれます。それを聞いた秀吉は戦闘中の毛利勢と和睦して即時に畿内に戻り、信長を討った敵、明智光秀を滅ぼします。この主君の敵を討った功により、信長亡き後の織田家を掌握。以後、柴田勝家などの反対勢力を滅ぼし、その支配力を強めることになります。

その後も、中国、四国、九州を制圧し、関白に就任。豊臣秀吉と号を変え、大阪城で政務を取り仕切るようになり、刀狩りや太閤検地などの改革を行います。豊臣政権として盤石な体制を敷き、関東の北条家征伐、東北の諸将を支配下に置くことにより遂に天下統一を成し遂げたのです。

朝鮮出兵や自身の後継者問題など、諸問題が解決をみないうちに死去。一代で栄華を誇った豊臣秀吉は息子秀頼の将来を案じながらこの世を去ります。

天下統一の天下人豊臣秀吉についてあなたが知らない7つの真実

1:あるときは源氏、あるときは平家に擦り寄った

木下藤吉郎から羽柴秀吉と名前を変更した秀吉は、征夷大将軍(代々は源氏の職位)になろうとし時の足利将軍(源氏)の養子を目論みましたが、将軍に断られました。そこで征夷大将軍の上の位の関白になるべく、平氏の藤原家、次いで同じく平氏の近衛家の養子になり、晴れて天皇から官位である関白を頂戴したのです。平氏を自称していた主君の織田信長の後継者であることをを天下に知らしめることとなりました。  

2:秀吉のあだ名は本当に「猿」だったのだろうか 

秀吉には「猿」というあだ名が定着していて、その由来は主君である織田信長が「サル」と呼んだというのがありますが、実際には信長は秀吉のことを「禿げ鼠」と呼んでいました。「サル」と言うのは秀吉が以前今川家の家臣に仕えていた時にそこで飼われていた猿のマネをして、人々の喝采を浴びたという秀吉独特の人心把握術があったからと言われています。 

3:側妻はお姫さまに限った 

百姓上りの秀吉は、その上昇志向(コンプレックス?)から、上流出身の女性(すなわちお姫さま)を好んだので、「姫好み」と言われました。秀吉が側室にした女性は16人ですが、そのほとんどは大名の娘、つまりは姫たちです。その中に、浅井長政の姫で、秀吉が永年憧れていたお市の方の娘であった茶々(後に唯一の子、秀頼を産んだ淀君)はいました。尚、口説き上手の秀吉が唯一口説けなかったのがお市の方だったと言われています。

4:城造営趣味で築城が大好きだった

戦国時代には城は権力者の力を示す象徴であり武将のロマンでした。秀吉も築城が好きでした。秀吉が造営した城の数は大小100以上あると言われています。中でも大阪城、肥前名護屋城、聚楽第、伏見城、長浜城、山崎城、和歌山城、小田原城、墨俣城が有名です。

5:秀吉の本当の死因とは

1598年61才で亡くなった秀吉の死因については、ペスト、梅毒、腎虚、大腸がん、肺炎、毒殺など、多くの説があります。しかし、中でも最も有力な説は「脚気」とされています。

6:弟が名参謀だった

秀吉は異母弟の秀長は、秀吉の名参謀で軍事・政務を補佐し、ライバル徳川家康はじめ諸大名との調整役として重宝がられていました。その秀長没後そのような黒子の役目をする名女房役を欠いたために、秀吉の運命は傾いたのでした。

7:秀吉は指が6本あった

秀吉は多指症で、手の指が5本ではなく6本ありました。そのため「六ッめ」と蔑称されていたようです。ちなみに、日本人の1000人に1人は多指症だと言われています。 


 

天下を統一した英雄の生涯

時代小説の巨匠司馬遼太郎が書いた、豊臣秀吉の一代記『新史太閤記』。現在、様々な作品で取り上げられる秀吉像は、この作品から影響を受けていると思われます。猿顔の魅力ある秀吉が農民から天下人になるまでの痛快時代小説となっています。

著者
司馬 遼太郎
出版日
1973-05-29

物語は高野聖とよばれる行商人が、不思議な小僧と出会うところから始まります。

「『猿』
 とよんでやるのはいくら子供でも酷すぎると思い、高野聖たちはひよし、とよんだ。猿は、叡山の守護神日吉明神の使いものである。ひよしは猿の宗教的美称といっていい」(『新史太閤記』より引用)

後の木下藤吉郎こと豊臣秀吉です。秀吉は天下人になった後、自身の幼名を日吉丸と書き残しています。著者はその由来を架空の物語の始まりに描き、歴史好きは冒頭から引き寄せられてしまうことでしょう。

司馬遼太郎は、本作で秀吉を商人的感覚の人物として描き続けました。武士と農民の時代が戦国の群雄割拠により商人という機能が生まれ諸国に派生していった時代。秀吉はその商人的発想で計算高く天下を治めるに至ったとしています。武士たちが100年かかっても成し遂げられなかった天下統一は秀吉のような発想や考え方の違う人間だから出来たことなのかもしれません。

「藤吉郎は播州の城攻めにおいてこの国の城攻めの歴史を変えた。藤吉郎の独創的ではあったが、その独走をうむ刺戟になったのは、信長を中心とする時代のあたらしい思潮であろう」(『新史太閤記』より引用)などの、秀吉得意の兵糧攻めや、歴戦の戦いを詳しく描写しているところに、秀吉の計算高い軍略がどのように生まれていったかを知ることができます。

戦国時代ものの醍醐味である迫力ある戦を思い描くことができる作品ですよ。

豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった?

社会文化研究者の著者が、差別社会の歴史書として書いた学術書『河原ノ者・非人・秀吉』。日本中世の被差別社会での歴史をまとめ、その被差別社会出身で大出世した豊臣秀吉に焦点をあてた作品です。学術研究書ではありますが、文体は読みやすく、豊臣秀吉の生い立ちからなぞられているので、わかりやすい本だといえるでしょう。

著者
服部 英雄
出版日

河原ノ者とは、中世日本で皮革制作を生業の主として土木作業や野犬狩りをしていた人々のこと。非人は物乞いや行商人で共に被差別階級とされていました。秀吉は針売りの行商から身を立てた人物で非人の出だと括る著者の考えは、後の秀吉の奇行や思想に繋がる仮説の一つだと思います。

本作で、特に注目する点は、豊臣秀頼は秀吉の実子ではないと結論付けている点でしょう。歴史資料である書状などから、秀吉と秀頼の母である茶々の行動を追跡。秀頼誕生の期日から逆算して受胎が想定される時期に2人は一緒にはいなかったと推理します。とかく昔から秀頼誕生の謎は言われ続けている事柄ですが、学術書として実子を否定した本作は驚きに値します。実子ではないことを、廻りも暗に知っていたからこそ、後の家臣たちの行動も納得できると証明していく経緯は、研究書というよりミステリーのノンフィクション作品を読んでいるような感覚になることでしょう。

改ざんされていた豊臣秀吉の真実

『消された秀吉の真実―徳川史観を越えて』は、豊臣秀吉関係文書研究会に所属する歴史学者たちがまとめた論文集。10人の研究家が秀吉の実像に迫る史料と解説を寄稿しています。

著者
出版日

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下統一の歴史は三英傑によって終結しましたが、最終的に太平の世を作ったのは徳川家康。以来江戸幕府260年続くわけですが、政権を執った徳川幕府は、信長、秀吉時代の歴史を改ざんして、家康に優位な歴史を残していったというのが、この研究会の主張です。確かに世界的に見ても、政権政府が自分に都合の良い歴史的解釈を残しているのは事実です。

豊臣秀吉関係文書研究会は、秀吉が実際に残した書状などの史料から、実際の歴史を取り返そうとする勉強会。本作も通説となっている徳川側からみた史観を否定する仮説を立て、証明していく手法になっています。

徳川家康は豊臣政権時代に豊臣姓を使っていたこと、長久手の戦いの真実、朝鮮出兵や五大老五奉行政治の実際など、各研究者がそれぞれの歴史的事実に独自の解釈を行い、史料を用いて実像を解き明かしていく本作の試みは、歴史好きには必読の1冊といえるでしょう。

近年の研究で分かった秀吉の実像

日本史史料研究会所属の歴史学者たちが、探求してきた豊臣秀吉の実像を発表した『秀吉研究の最前線』。研究書ですが読みやすく、秀吉を知るための読み物としても楽しめる作品です。

豊臣秀吉は農民から天下人にまで出世した戦国の英雄で、これまで様々な作品が世に出てきました。しかし、フィクションを含んだ小説や歴史的背景により、物語の主人公的要素が多く、その実像を研究するにも長い年月がかかっています。本作を近代の最先端秀吉像と位置づけ、そこに描かれる姿は現在もっとも秀吉の実像に近いといえるでしょう。

著者
日本史史料研究会
出版日
2015-08-06

秀吉が行ったとされる刀狩りや太閤検地などの政策についても、これまでの通説と現在の新説が記述されています。特に惣無事令は存在しなかったとする新説には、驚くことでしょう。何年かのちには、教科書も記載が変わるのではないかと推測されています。

小説や映画などでは、秀吉が天下人として名乗りをあげるのは、本能寺の変で信長が討たれたことを知ったとき。軍師黒田官兵衛の進言で、後に中国大返しといわれる神がかり的な速さで京都へ戻り、主君信長を討った明智光秀を滅ぼします。秀吉の伝記や伝承で一大イベントとして長い間語られていたことですが、本作ではこの時点で、天下人を意識はしていないだろうと解説しているのです。

確かに信長亡き後も織田家は存続していますし、実際、秀吉も信長の跡目を継いだ三法師(後の織田秀信)を保護するなど、織田家の存続に尽力しています。織田家の筆頭家老として振る舞っている記録もあり、実際に天下人を意識したのは、敵対勢力が無くなり、織田家の威光が弱まってからではないかと推測できます。秀吉の華麗な伝説と本作で史実との比較をするのも本作を読む醍醐味といえるでしょう。

本能寺に変の真実と秀吉の罪とは

歴史小説家加藤廣が書いた本能寺3部作での2作目にあたる時代小説『秀吉の枷』。信長暗殺の本能寺の変を題材にした秀吉目線の物語です。

物語は三木城攻めの最中、死期の近いことを知った軍師竹中半兵衛が秀吉を訪ねるところから始まります。半兵衛から信長の風下に立ち働き続けるのかと、信長暗殺をほのめかされ、本能寺の変の黒幕的存在になっていきます。もちろん小説としての架空の話ですが、本能寺の変には未だ謎が多く、これまでも諸説語られてきました。秀吉黒幕説も根強い仮定の一つではあります。

著者
加藤 廣
出版日
2009-06-10


また、この信長暗殺の負い目から、後の茶々(淀君)の暴挙を許さざるを得なかった秀吉の心情を、本作では枷(かせ)として描くのです。信長の血を引く淀君は、強烈な出世欲で魔性の女として、まるで信長が乗り移ったかのように君臨していきました。秀頼の生誕の謎や、養子秀次一族抹殺の謎など、歴史上これまでも様々な解釈がなされている晩年の秀吉の暗部に、枷という概念から解いていく本作は物語として魅力的です。

フィクションと史実を織り交ぜながら、天下統一の偉業を成し遂げる秀吉は、主君殺しとしての罪の意識と、実子に恵まれない孤独さ持ち続けて、最期を迎えます。後の歴史を知っているだけに、物悲しい一代の男の物語であるといえるでしょう。

天下統一を成し遂げた戦国の偉人豊臣秀吉。その栄華を誇った人物像は魅力的で、今なお人気の高い戦国武将です。永遠の謎とされる出生の秘密など、華麗な人生の陰に知られざる顔も多い人物。様々な作品から豊臣秀吉の実像を思い描くのは、歴史好きの永遠のテーマかもしれません。

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