限られた時間と場で生じた出会いが、その後の人生を変えることもある
アニメ化もされたため、知っている方も多いと思いますが、『げんしけん』は東京郊外にある架空の大学・椎応大学のサークル「現代視覚文化研究会」で活動するオタク大学生たちのゆるーい人間ドラマです。漫画『五年生』などで大学生同士の比較的狭い人間関係描写に定評のあった木尾士目ですが、『げんしけん』では広い範囲の人間関係も描かれています。徹頭徹尾オタク活動しかしていない彼らの人間関係は、どこが「広い」のでしょうか?
サークルの部室で完結しがちなげんしけんメンバーにも外部との社交の機会があります。それが「コミケ」です。主人公・笹原にとっては同人誌の編集と販売を通じて、売り手としての交流を経験したり、自分の進路を考える機会になりました。ヒロイン・荻上にとっては昔の友人との再会の場となり、辛い黒歴史と向き合う契機でもありました。ここで重要なのは、コミケ自体は彼らの日常生活と比べて非常に短い期間であるにもかかわらず、そこでの出会いが彼らの普段体験し得ない経験を提供している、という点でしょう。
これは、先ほど説明した「弱い紐帯」の応用編です。弱い紐帯の議論は、異質性の高い人々との出会いによって新たな情報を入手し、キャリアの変化に活かすことができるというものでした。コミケやフェス、学会のように、人びとが一堂に会する機会は、新たな情報を持つ人々との出会いからなる「弱い紐帯の集積地点」といえます。こうしたイベントは「一時的集合」と呼ばれており、一時的集合が人々のキャリアや産業全体に及ぼす影響は、産業地理学などで注目されています。
ちなみに、げんしけん随一の愛されハーレムキャラ・班目と、彼をとりまくキャラクターたちの恋愛模様も、コミケを通じて目まぐるしく変わっていました。一時的集合は、ビジネスとプライベートを問わず、その人の生き方を変える可能性がある、重要な出会いの場となっているのでしょう。
緊密すぎる関係性の「呪い」を超えて
では、誰とでも仲がよく、関係がうまくいっていれば幸せになれるのでしょうか? そうはいかないということを教えてくれるのが日本橋ヨヲコの作品群です。力強いネームが印象的な日本橋ヨヲコ作品は、主要な登場人物に血縁関係や幼馴染の人々が多く含まれているのも特徴でしょう。特に主人公格のキャラクターは、ほぼ全員が偉大な人物の血縁にあったり、強い影響を受けられる環境にいます。偉大なのでお金や名声もあり、何か(本作であればバレー)をするにあたっての環境も整備されています。人間関係によってなにかと特をしている点では、前に挙げた二作の主人公と変わらないわけです。
しかし、『少女ファイト』のキャラクターは、誰しも順風満帆で幸福なようにはとても見えません。むしろ、他者とあまりに距離が近すぎるために苦しんでいるように見えます。彼女たちは、誰かへの強い愛情にもとづく執着や依存に狂い、それゆえにバレーを続けます。主人公たちは、あまりに強すぎる関係ゆえに「呪い」に縛られている状態からスタートし、バレーを続ける中で「嫌われる強さ」や他者と距離を置く重要さを学び、それを超えたところにある信頼や親愛、「人と溶け合える」素晴らしさを知っていくのです。
ポルテスという研究者は、他者との緊密すぎる関係が、時として社会的なドロップアウトを引き起こすという、人間関係の負の側面に注目した論者の一人です。他者と容易に仲良くなりすぎてしまう現在において、関係は「呪い」にもなりえます。その呪いをいかに振り切ることができるか、耐えず成長を続ける黒曜谷ストレイドッグスのメンバーを見守りながら考えるのもいいかもしれません。
網の目のように張り巡らされた関係、その交差点に存在する誰かの人生
これまでは上述した四作品を通じて、ネットワークが個人にもたらす利益と不利益の話をしましたが、最後はネットワークの見方・描き方について紹介していきます。多くの漫画は主人公を配置し、彼らの人間関係をめぐるドラマを描いていきますが、『潔く柔く』は主人公の「友達」、あるいは「友達の友達」、ときには一見無関係な人々の人間ドラマを描きます。網の目のように広がる関係が収束する「中心」として、主人公のドラマへと帰着するようにストーリーを紡いでいくのです。
ある集団や社会に属する個体のネットワークを描く見方を「ソシオセントリック・ネットワーク」と呼ぶのに対して、ある一つの個体をとりまくネットワークのみを描くやり方を「エゴセントリック・ネットワーク」と呼ぶことがあります。この漫画のひとつひとつのエピソードは時系列もばらばら、登場人物の世代や職業もばらばらなのですが、単なる恋愛オムニバス・ストーリーではなく、ある主人公の人生に対して、より厚みをもった見せ方を行うことに成功しています。
ドラマ紹介の「相関図」を各登場人物の視点から描くようなこの手法は、社会ネットワーク分析とも重なるところであり、筆者が各キャラクターの関係性を緻密に計算していなければ展開できないものだと言えるでしょう。筆者の「得意技」でもあるのでしょうが、誰かと誰かのコミュニケーション――それも、目が合う、微笑む、沈黙するといった微細なやりとり――が、その遥か遠くにいるはずの主人公の存在までも浮かび上がらせている点は、感嘆するほかありません。そして、私たちのどんなわずかなコミュニケーションも、今そこにいない人々に何らかの影響を与えていると感じずにはいられません。