中国最大の汚点ともいわれている「天安門事件」。2019年現在、中国はこの事件をなかったことにしていて、インターネットでは検索できなくなっています。その一方で事件発生の6月4日には中国国内でひっそりと追悼式などがおこなわれていて、国民たちはけっして無関心ではないのです。 中国がひた隠しにしたい天安門事件とはどのようなものだったのか、この記事では概要、原因、真相、死者数をわかりやすく解説するとともに、おすすめの関連本を紹介していきます。
1989年4月15日、胡耀邦元総書記が心筋梗塞のため亡くなります。北京にある天安門広場では、学生らによって追悼集会が開かれました。
この集会は、胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平への抗議活動の意味合いも含んでいました。すると追悼集会は徐々に形を変え、中国独裁体制を否定し、民主化への移行を求めるものになっていったのです。ヒートアップし、集会がデモへと発展。この動きを察知した中国共産党は、戒厳令を布き、デモの鎮圧のために警察ではなく軍隊を動員。無差別に発砲し、強引に鎮圧したのです。
この事件は、当然世界から猛烈な批判を浴びることになります。現在でも中国共産党は、天安門事件に関するあらゆる検閲をおこなっており、中国国内ではこの件についてインターネットで調べることすらできない状態です。
発端は、亡くなった胡耀邦元総書記の追悼をするために、学生たちが天安門広場に集まってきたことでした。
学生のなかには中国共産党による独裁体制を快く思っていない者もおり、独裁体制を打破すべしといったような強硬派もいたのです。彼らが声高に独裁体制の打倒を叫び、追悼集会は反体制派の集会と化しました。この動きは北京だけでなく、西安や南京などにも広がっていきます。
ここまでなら、彼らを解散させて穏便に収めることができたかもしれません。
しかし「人民日報」という中国共産党の機関紙が「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」という社説を一面に掲載します。学生たちの活動を「動乱」と位置づけ、共産党の指導に反するため断固として反対しなければならないという内容が記されていました。
これに学生たちが猛反発し、ハンガーストライキといった過激な行動に出るようになりました。以降、中国共産党の高官が話し合いをしようとしても、学生側は拒否します。そして、しびれを切らした中国共産党が実力行使に出たのです。
中国共産党の公式発表によると、死者は学生や軍を合わせて319人とのことですが、一説ではそれよりもはるかに多い3000人というものも。
日本でも一斉に天安門事件を報道しましたが、各新聞社でばらつきがありました。たとえば読売新聞は「死者3000人以上」、毎日新聞は「死者2600人かそれ以上」、朝日新聞は「死者2000人、負傷者5000人以上」といった具合で、正確な数は把握しきれていません。
他にもソ連が「死者3000人」と見積もっており、これが現段階でもっとも信頼されている数字のようです。
中国国内でもこの事件をひた隠しにする風潮が強いため、追加調査はおそらくおこなわれないでしょう。情報が錯綜していますが、いずれにしても319人よりはるかに多い、というのは間違いなさそうです。
事件当時、中国共産党内には鄧小平と趙紫陽という人物がいました。総書記は趙紫陽でしたが、実権を握っていたのは発言力の大きい鄧小平でした。
当時の共産党内には、共産主義を徹底しておこなう鄧が率いる長老派の存在があり、天安門事件を利用して政敵の排除を狙っていたようです。
ここでいう政敵というのは、趙紫陽のことでしょう。共産主義の枠を超えた経済政策を打ち立て、若者から人気のあった趙は、伝統的な共産主義を維持したい長老派からは厄介な存在として認知されていたようです。
天安門事件の発端となるデモが起こった時も、趙は平和的な解決を模索し、積極的な話し合いをしていました。しかし学生のなかには過激な意見を持つものもいて、話し合いはどれも決裂しています。
鄧はこのデモを反社会的行動とみなし、軍隊によるデモの強制解散を実行します。趙は武力弾圧に断固反対しましたが、鄧は趙の役職をすべて解任して軟禁状態にし、大虐殺が実行されました。
天安門事件というと民主化デモの弾圧に目が行きがちですが、中国共産党内の政権闘争という側面もあったのです。
事件の前段階ともいわれる学生によるデモを、話し合いで解決しようとした趙紫陽の回顧録です。先に述べたように、彼はこのデモを平和的に解決しようとしていましたが、鄧小平によりこの試みは潰されます。
本書では、天安門事件だけではなく、趙がこれからの中国の行くすえについても語っているところがあります。中国がどのような道を進んでいくべきなのか、中国の型に合ったイデオロギーは何かを問いかけます。
- 著者
- ["趙紫陽", "バオ・プー", "ルネー・チアン", "アディ・イグナシアス"]
- 出版日
- 2010-01-19
独裁色の強い長老派によって、趙は総書記をはじめ、あらゆる職を解任されました。天安門事件で彼は何を思ったのでしょうか。また、本来であれば必要のなかった弾圧へなぜ向かっていってしまったのか、当時を振り返りながら趙が語ります。
当事者の考えを知ることのできる、必読の一冊です。
劉暁波は天安門事件の学生側の中心人物で、独裁体制を打ち破った際の新たな憲法草案「08憲章」を作成しました。
本書にはその全文と、事件の回顧、正当化しようとする者への批判、中国共産党一党独裁体制打破のための方法などが記載されています。
- 著者
- 劉 暁波
- 出版日
- 2009-12-14
彼は、「言論の自由こそが突破口」ということを信じていたようです。2017年7月に残念ながら亡くなってしまいましたが、劉暁波亡き後もその発言は世界的に影響があります。
彼の言葉は、中国での民主主義の実現、基本的人権が保障される国家の実現を願い、民主化を目指す人々へ勇気を与えるものとなりました。天安門事件のリーダーともいわれた人物の叫びともいえる書籍です。
天安門事件の背景には中国共産党内の派閥争いがあった、ということを前提に、派閥争いを中心にして事件が起こるまでを描いています。
- 著者
- 張 良
- 出版日
- 2001-11-28
当時の新聞記事や共産党内のFAX通信などから、弾圧がどのような段取りで進められたのか、証拠付きで教えてくれる書籍です。
また、書籍の最後には事件渦中の人物の略歴も紹介されています。
著者は、高新と呼ばれる天安門事件の学生側リーダーだった人物です。高は逃亡した後、公安局によって身元を特定されて逮捕されました。
K字牢と呼ばれる重罪犯刑務所のなかで経験したことと、収監されてから釈放されるまでを描きます。
- 著者
- 高 新
- 出版日
重罪犯刑務所での生活が赤裸々に綴られています。事件に関する過酷な尋問や、食事の様子、さまざまな事情で投獄された収監者の様子などがリアルに伝わってきます。
独裁体制からの脱却を目指して戦った学生や、共産主義を絶対と信じ独裁体制を維持したかった共産党など、天安門事件にはさまざまな思惑がありました。この事件は国による弾圧としてはかなり大規模なもので、世界的に見ても類を見ません。リビアのかつての指導者カダフィ大佐が、反政府デモを武力鎮圧した際に引き合いに出すほど、天安門事件は市民への抑圧の象徴となってしまいました。世界にも大きな影響を与えた事件について、興味を持ったときの入り口として、ぜひ紹介した本を読んでみてください。