「詩聖」と評される杜甫。李白と並んで、中国文学史上最高の詩人といわれています。彼の人生を追ってみると、壮絶ななかでも常に詩を詠み続けていたことがわかりました。この記事では、そんな杜甫の生い立ちや作品の特徴、有名な「春望」、名言などをわかりやすく解説していきます。また、もっと理解を深められるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
後に「詩聖」と呼ばれることになる杜甫(とほ)。唐の時代の中国で活躍した詩人です。日本では平城京に都が遷り、奈良時代が始まった直後である712年に、河南省鄭州市で生まれました。
先祖には、「破竹の勢い」という言葉の由来になったことで知られる武将の杜預(とよ)がいて、祖父の杜審言(としんげん)は宮廷詩人として有名な人物です。
そんな遺伝子を受け継いでか、杜甫が初めて詩を作ったのは6歳の頃だといわれています。15歳にして洛陽の文人の仲間に加わり、交流を深めました。24歳の時に科挙試験を受けましたが、不合格。その後は30歳頃に結婚をし、洛陽に居を構えます。
転機となったのは、33歳頃に、後に「詩仙」と評される李白と出会ったこと。この時李白は44歳で、皇帝玄宗に仕え、詩人として高い評価を得ていました。2人は意気投合し、約2年という短い期間でしたがともに旅をしたり、酒を飲んだりしながら語りあったそうです。
その後杜甫は、再度科挙試験に挑みます。しかしこれも不合格で、なかなか就職できないまま、39歳の時には長男、42歳の時には次男が誕生しました。この頃は仕官になるツテを作ろうと、玄宗をはじめ高官たちにたびたび詩を献上していたそうです。
ようやく仕事が見つかったのは、44歳の時。皇太子の御殿を守護する兵が使う、兵器庫を管理するというものでした。下っ端ながら中央官僚となり、安定した生活を手に入れられるはずでしたが、直後に「安禄山の乱」が勃発。反乱軍に捕まって幽閉されてしまいます。この幽閉生活中に詠んだ詩が、彼の代表作となる「春望」です。
約1年後に脱出した杜甫は、新たに即位した皇帝、粛宗に仕えますが、1年ほどで左遷され、辞職。当時はどんぐりや山芋を食べて何とか食い繋ぐという、貧しい生活を送っていました。
その後は、成都に「杜甫草堂」と呼ばれる草庵を建てて過ごした数年間を除き、放浪生活を余儀なくされたそう。770年に襄陽から長安へ向かう船旅の途中で亡くなりました。58歳でした。
生涯の多くを困窮のなかで過ごした杜甫の人生は、大きく「仕官前」「安禄山の乱前後」「杜甫草堂時代」「晩年」の4つに分けることができます。
「仕官前」の杜甫は、周りの優秀な若者たちと同様に、将来は仕官して理想の政治をおこないたいという気概に満ちていました。社会や政治の矛盾を、積極的に詩の題材にしています。
「安禄山の乱」の頃になると、揺るぎないものだと考えられていた社会秩序が崩壊していくさまを自ら体験し、杜甫の詩は、悲しみや絶望感に満ちた悲痛なものへと変化していきます。
成都で穏やかな生活を送っていた「杜甫草堂」の時期は、悲しみや絶望感は徐々に癒され、自然に対する穏やかな想いを込めた詩を多く詠みました。
そして安住の地と考えていた成都から去ることを余儀なくされ、放浪生活を送っていた「晩年」は、いわば悟りの境地に達し、自己の悲哀や不遇を嘆くのではなく、悲しみや絶望もまた自分が生きている証であるとみなすような荘厳なものとなっていきます。
杜甫の詩の特徴は、社会の状況を冷静に見る視点です。多彩な要素を詩に取り入れ、8句で構成される「律詩」を得意としていました。
その一方で、杜甫と並んで中国文学史上最高の詩人と呼ばれる李白は、自由奔放な作風が特徴で、4句からなる「絶句」を得意としています。このことから2人は、「絶句の李白、律詩の杜甫」と呼ばれるようになりました。
「安禄山の乱」で捕虜となり幽閉された杜甫。その時に詠んだのが、代表作の「春望」です。前半では人の世が変化して移ろいゆくさまと、変わらない自然を対比させ、後半では遠く離れた妻子に思いを馳せ、心労によって急激に衰えた自身の身を嘆いています。
【原文】
国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪
【書き下し文】
国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書萬金に抵る
白頭掻けば更に短く
渾べて簪に勝えざらんと欲す
【現代語訳】
国の都である長安は、戦乱によって破壊されてしまったが、山や河などの自然は昔と変わりない。
町にも春が来て、草木は深く生い茂っている。
平和な春ならば花を見て楽しいはずだが、このような戦乱の時を思うと花を見ても涙が出てしまう。
家族との別れを悲しみ、鳥の鳴き声を聞いても心が痛む。
戦火は3ヶ月も続いていて、家族からの手紙は万金に相当するほど貴重なものに感じられる。
白髪になった頭をかけば、心労で髪が抜けるので、簪(かんざし)もさせなくなりそうだ。
戦乱によって荒れ果ててしまった長安にも、花が咲いて鳥が鳴く春の情景が浮かぶ一方で、家族を想う杜甫の心情が切々と伝わってくる詩です。
「春望」は日本文学にも大きな影響を与えていて、特に松尾芭蕉は杜甫を深く尊敬していたそう。彼の代表作である「夏草や 兵どもが 夢の跡」では、「春望」の冒頭部分を引用しています。
「詩聖」と呼ばれて後に語り継がれる人物となった杜甫は、名言も残しました。いくつか紹介します。
「人を射んとすれば先ず馬を射よ」
杜甫が詠んだ「前出賽」という詩に出てくる言葉です。
馬に乗っている人を射ようと思うならば、まずその馬を射ることだ。そうすれば人は素早く動けないので、簡単に射ることができるだろう、という意味です。日本のことわざ「将を射んと欲すればまず馬を射よ」の元になっているといわれています。
「清輝に玉臂寒からん」
「春望」と同じく幽閉生活の間に詠んだ「月夜」に出てくる言葉です。月の光で佇み、帰らぬ夫を案じる妻を想像したもの。清らかな月の光を浴びて、その玉のように白く艶やかな腕は、冷たく光っているだろうという意味です。
「明眸皓歯」
「哀江頭」という詩のなかで、楊貴妃の美しさを形容した言葉です。涼しげな瞳と真っ白な歯をした女性、という意味で、現在でも美人のたとえとしてよく用いられます。
- 著者
- 杜 甫
- 出版日
- 1991-02-18
杜甫はその生涯で1400首以上もの詩を詠んだそう。本書には、そのなかから厳選した140首が収録されています。
「春望」はもちろん、「兵車行」や「蜀相」などの名作たちを、詠まれた背景とともにわかりやすく解説。また年代順に並んでいるので、杜甫の作風がどのように変わっていったのかを感じとることができるでしょう。
貧しい生活のなかで友を想い、家族を想った杜甫の心を知れば、より身近に思えるはず。お気に入りの詩を探してみてください。
- 著者
- 高島 俊男
- 出版日
- 1997-08-08
中国文学史上に燦然と輝く2大巨頭が、李白と杜甫です。
西域に移住した漢民族の子として生まれた李白は、明るい天才肌で、自由奔放な詩風。一方で、名門の家に生まれた杜甫は生真面目な努力家タイプで、その詩風も李白に比べると地味で堅いものです。
本書は、そんな生まれも育ちも性格も違う彼らが出会い、意気投合し、交友を深める様子を追っています。両者の詩の比較と考察にも注目。「詩仙」「詩聖」という2人の天才の人生に触れてみてください。