千利休という人物と茶の湯について学べるおすすめの本5選!

更新:2021.12.16

茶の湯といえば利休というほど、千利休の名は知られています。数多くの逸話を持ち、後世に残した影響も大きいものです。そんな利休の心や茶の湯についてもっと詳しく知ることができる本を5冊集めましたので、ぜひ読んでみてください。

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秀吉に重用され、侘び茶を完成させた千利休

境の魚問屋「ととや」に生まれた利休。茶人の武野紹鴎などに師事し、「不足の美」や「侘び」に関して多くの影響を受けました。その後侘びを茶道具や茶会全体の様式まで広げて追及し、侘び茶を完成させることとなったのです。

織田信長が堺を直轄地とし、茶会や茶器に興味を持ち始めると、千利休と今井宗久、津田宗及を茶頭として重用されました。この3人は天下三宗匠と呼ばれています。1582年に本能寺の変が起こった後には、そのまま秀吉に召し抱えられることとなります。千利休が60歳のころの出来事です。

秀吉は茶の湯に熱心だったので、それに感化された多くの武将が利休に弟子入りしました。その中でも特に優秀であった細川三斎や高山右近らは利休七哲とも呼ばれています。これまで宗易と名乗っていた千利休は、1585年秀吉の天皇への禁中献茶を取り仕切ることとなり、利休の号を賜りました。

秀吉のもとで、大茶会である北野大茶湯を開催するなど、他にも数多くの茶会を開き、また黄金の茶室、待庵といった茶室を作り上げます。このように秀吉から重用されていた千利休でしたが、利休の影響力が大きくなるにつれ秀吉との関係が悪化し、1591年に切腹を命じられることとなりました。切腹まで至った原因は様々なことが推測されていますが、千利休の茶の湯の精神は今日まで受け継がれているのです。

知っているようで知らない千利休に関する10の事実

1:「一休さん」の弟子の弟子の弟子

18歳のときに武野紹鴎という茶の湯の第一人者に師事した利休。紹鴎は「侘び茶」の祖といわれる村田珠光の弟子であり、珠光は「一休さん」として親しまれている一休宗純のもとで禅を学んでいました。千利休は一休さんと遠い師弟関係と言えますね。

2:苗字は「田中」だった

利休の幼名は田中与四郎でしたが、祖父である田中千阿弥の「千」を取り「千与四郎」と呼ばれていました。その後茶の湯の世界に入り、武野紹鴎のもとで千宗易と名乗るようになります。私たちが知っている千利休という名前は、秀吉が関白に任命されたお返しとして天皇にお茶をたてた、宮中献茶を取り仕切った際に、正親町天皇から「利休」という号を賜ったことに由来しています。

3:180cm以上の高身長

平均身長が156cmとされている時代に、利休の身長は180cm以上あったと言われています。これは現存している利休の甲冑から推定されたものですが、事実だとすれば2畳ほどしかない茶室が一層狭く感じられそうです。

4:利休の「侘び茶」はとにかく質素を好む

利休は師である武野紹鴎・村田珠光が提唱する「侘び茶」を大成させることになります。紹鴎は華美な茶器などを使わず日常生活で使われる雑器を取り入れることで、茶の湯の簡素化と精神性を重視しましたが、利休はそれをさらに推し進め、茶室の構造やお点前の作法、ひいては茶の湯全体のあらゆるものに「侘び」を展開しました。

それまで茶器は、中国や朝鮮からの舶来物が重宝されていましたが、ろくろを使わずに「手びねり」という手法によって無骨さ・素朴さを表現した樂茶碗をプロデュースしたことからも、利休のこだわりが感じられます。

5:あの本能寺で茶会を開いた

1582年といえば、織田信長が明智光秀に討たれる「本能寺の変」を思い浮かべる人が多いと思いますが、事件の当日、本能寺では盛大な茶会が開かれていました。当然指南役の利休もこの茶会に出席しています。お気に入りの茶器を披露し有頂天だった信長は、その夜光秀に謀反を起こされてしまうのです。

6:「一期一会」は利休ゆかりの名言

四字熟語としても有名な「一期一会」は、利休の一番弟子である山上宗二が、著書​『山上宗二記』に書き記した​言葉です。利休から受け継がれた茶の湯の精神を表しているとされ、茶会に臨む際に、またとない一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主、客ともに誠意を尽くすべきだとする考えを伝える、まさに名言といえます。

7:いかなるときも他人への気遣いを忘れない人物だった

秀吉は利休との仲違いの末、彼に切腹を命じます。しかし利休は、切腹の命を伝えに来た秀吉の使者に対しても動じず、客人として扱い「お茶の支度ができております」と述べたそうです。秀吉の使者のなかには、利休に学んだ者もいたと考えられるので、彼らに対して気遣いをしたと考えられます。

8:切腹の理由はいまだ謎のまま

利休が秀吉と仲違いし、切腹を命じられた理由には諸説あります。安価な茶器を高い値段で売り私腹を肥やした疑いをかけられた、秀吉の朝鮮出兵を批判した、茶道に対する考え方で衝突した、などです。

なかでも一番有名な理由として「大徳寺の木像」があります。これは、大徳寺と関係の深い利休が、大徳寺の山門改修のために出資をした際、感謝の意を表した住職が利休の木像を作って安置したことに対して「(秀吉を)上から見下すとは何事だ」と激怒したというものです。しかし、実際の理由はわかっておりません。

9:千利休への仕打ちを後悔していた秀吉

利休に切腹を命じた秀吉も、その7年後に病気によって他界します。晩年の秀吉は、短気な性格と利休への仕打ちを反省していたと伝えられており、自分が好む豪華絢爛な茶室ではなく、利休好みの質素な茶室を建てさせたそうです。秀吉にとって、利休がいかに畏敬の対象であったかを伺い知ることができますね。

10:子孫へ受け継がれる利休の茶の湯

今に伝えられる茶道は、表千家・裏千家・武者小路千家の大きく3つの流派に分けられます。この3つを総称して「三千家」と呼びますが、いずれも利休の子孫が興したものです。なかでも「侘び」を重んじ利休の茶の湯を踏襲しているのが表千家といわれています。

千利休が思い起こす一人の女性への愛

利休の人生を山本兼一がドラマティックに描く『利休にたずねよ』。千利休が切腹をする日から遡る形で話は進んでいきます。利休が常に身に付けていた緑釉の香合はどういう意味があり、利休はどのような思いで生きてきたのでしょうか。直木賞受賞作品です。

切腹間際、千利休の妻・宗恩は、彼に女の影があったと感じており、そこから話は始まります。利休の独白からその女性と出会った時代まで、時が戻っていくのです。千利休に関わった人たちの一人称で書かれた物語で、茶の湯にすべてを捧げた利休の「美」への追求を深く知ることができます。

著者
山本 兼一
出版日
2010-10-13

歴史小説というよりは、千利休の恋愛を巡るファンタジーと捉えた方が読みやすいはずです。史実に基づいていない部分も多数ありますが、創作小説ですので気にせずに物語を楽しみましょう。侘び茶を生み出し、茶の湯では侘びを大切にしますが、千利休自身の本質にはそれだけでは表せない情熱があったということが分かります。美しい文章で利休の美の世界へと引き込まれていく作品です。

神格化された千利休の実像を探る本

『利休入門』は現役の若手茶人である木村宗慎が書いた、千利休の実像に迫る本です。利休の功績は後世に作られた話も多く、茶の世界で利休のことを神格化しすぎていることは問題だと捉えています。名品の美しい写真がオールカラーで数多く差し込まれており、それを見るだけでも一見の価値がある本です。

例えば千利休作で有名な「待庵」も実は秀吉の案の通りに作ったのではないかという考え方を提示しています。利休への秀吉の影響力がかなり大きかったこと、本当の関係性を追求し、利休の本当の心を描き出そうとしているのです。

著者
木村 宗慎
出版日

「しばらくのあいだ、私たちは利休をわすれるべきなのかもしれません」(『利休入門』より引用)という言葉に、茶の湯と千利休に真摯に向き合う筆者の心がすべて集約されているように感じます。自らの利休像が打ち砕かれるであろう1冊です。

漫画で読み解く千利休と茶の湯

漫画で描く歴史小説という雰囲気を持つ、清原なつの作『千利休』をご紹介します。漫画ですが、説明も詳しいので、小説を読んでいるような気分にさせてくれますよ。4年半かけて書かれた作者渾身の大作です。

千利休の生涯を、信長や秀吉、松永久秀ら周りの人々と絡めて壮大に描いています。激しく動いた時代の中で、千利休はどのように関わっていたのか、そして茶の湯が果たす役割とは何だったのでしょうか。分かりやすく読み取れ、登場人物が生き生きと動いています。

著者
清原 なつの
出版日

茶器や茶の湯に関しての説明も多いので、茶の世界の入門書としての役割も果たすことでしょう。茶器の価値を現在の値段に置き換えているところも面白い試みです。分厚くどっしりとした本ですが、千利休と茶の湯についてとても興味がわく作品です。

茶の湯は前衛的な芸術だった!?

一つ前にご紹介した『秀吉と利休』は、1989年に勅使河原宏監督によって映画化されています。映画タイトルは『利休』で、主役の千利休は三國連太郎が演じました。『千利休―無言の前衛』は、その映画の脚本を作った赤瀬川原平による本です。

赤瀬川原平は、日本史にも千利休についても詳しくありませんでした。初め依頼があったときには、千利休役はビートたけしをイメージしていると言われ、赤瀬川も興味を持ち脚本を引き受けたそうです。それから映画の脚本を書くにあたって、猛勉強が始まりました。そこで得た知識を基に本書は書かれています。

著者
赤瀬川 原平
出版日
1990-01-22

赤瀬川原平は前衛美術家であり、様々な面白い活動を行っているのですが、茶の湯とは全く縁がありそうもありません。それを茶の湯は前衛芸術だとして、自分のテリトリーへ入れて論じてしまうのです。確かにあの戦国の時代、侘びやもてなしという精神を作った茶の湯は前衛的だったかもしれません。茶の湯について考えながら、秀吉との関係、切腹までの道のりを描きます。今までにない切り口から、茶の湯、茶道について学べる本です。

秀吉と利休の関係から利休の死を考える

秀吉と利休の関係性にスポットを当てた『秀吉と利休』は、明治生まれの作家野上弥生子が70代のときに書いた作品で、女流文学賞を受賞しました。書かれたのは1964年ということで、文体が少し古めかしく読みにくいかもしれませんが、慣れるとその文章の美しさに引き込まれることでしょう。

本能寺の変の後、千利休は秀吉の茶頭となりました。それまでは信長に茶頭として仕えていた利休は秀吉のことをどう考えていたのでしょうか。秀吉の依頼通りに、待庵や黄金の茶室などの茶室を建て、聚楽第でも多くの茶会を開きました。そこから利休が切腹に至るまでの二人の関係に迫りながら、史実に沿って物語は進んでいきます。

著者
野上 彌生子
出版日
1973-11-10

歴史小説では史実のみを追うことが多くなることもありますが、本書では秀吉や千利休、利休の息子である紀三郎などの心の内側の様子まで胸が熱くなるほど、よく描かれています。そしてその心は、秀吉はなぜ利休を切腹させたのか、という点に集約されていくのです。謝罪をすれば許されたかもしれないのに、それをしなかった利休と、大切で必要と思いつつ千利休が憎くてたまらなかった秀吉。二人の関係の真実を探すことができることでしょう。

千利休の心には、侘びというイメージからはほど遠い情熱があったのかもしれません。漫画、エッセイ、小説などいろいろな本をご紹介しましたので、手に取りやすいものから挑戦してみてくださいね。

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