杉原千畝、命のビザをつないだ外交官を知る5冊の本。

更新:2021.12.16

第二次大戦下のリトアニアで、ナチスから迫害を受けたユダヤ人らの避難民に、外務省の訓令を破ってまでもビザを発給し、約6,000人もの人命を救った杉原千畝。今回は「東洋のシンドラー」ともいわれる彼の偉業をもっと知るための本を5冊、ご紹介します。

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人道、博愛精神を貫いて命を繋いだ、杉原千畝とは?

杉原千畝(すぎはら ちうね)は日本の外交官で、第二次世界大戦中に、リトアニアの日本領事館に赴任していました。ナチスドイツから迫害を受けて逃れてきたユダヤ人らの避難民が、国外脱出のためビザの発給をしてもらおうと日本領事館に押し寄せます。当時日本はドイツと三国同盟を結んでおり、日本政府は、政治的配慮によりビザの発給に厳しい条件を付け、実質的には認めていませんでした。

しかし杉原は、難民たちの困窮する姿に同情し、外務省訓告を破り、時間の許す限りビザを発給し続け、およそ6,000人ともいわれる人々の命を救ったのです。命を救われた避難民は日本を経由して世界中に散らばり、彼の英断は「東洋のシンドラー」として語り継がれています。

彼は、学生時代から優秀で早稲田大学を経てから当時の満州国ハルビン学院で語学を学びます。外務省入省後は対ロシアのエキスパートとして諜報活動などに従事します。その存在は戦時中のヨーロッパで危険人物として警戒され、モスクワ領事館への赴任希望はロシア政府から入国拒否で叶いませんでした。そのため、ロシアとドイツの狭間にあったリトアニアで両国の情報を収集する任務に就きます。

当時ナチスドイツに占領され、国を追われていたポーランド地下組織と組み、ドイツとロシアの動向を見張る役目を担いました。ソ連侵攻後はリトアニアの日本領事館も退去することになり、協力関係のポーランド人などに国外退去の為にビザを発給します。しかし同時に押し寄せた避難民を見殺しには出来ず、リトアニアを出なくてはいけない列車に乗るまで、ビザを発給し続け、できる限りの人命を救いました。

戦後、外務省訓告に違反した杉原は、不遇の後半生をおくることになります。杉原の人道的行為は長い間、語られることはありませんでした。しかし世界中に散らばったユダヤ人たちは杉原を命の恩人として語り継ぎ、その功績を称えない日本政府に異議を唱え続けます。1985年にはイスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では唯一の「諸国民の中の正義の人」として賞を受けますが、その翌年、この世を去ります。

そして2000年になり、はじめて日本政府の外務大臣が、杉原の功績を認めこれまでの待遇を謝罪。これにより日本国内でも杉原の存在と功績が世に大きく知られるようになりました。2011年東日本大震災の後、多くのユダヤ人から寄付や支援が贈られたことも、杉原に命を救われた恩返しだったそうです。

杉原千畝にまつわる逸話10選

1:岩井千畝だったかもしれなかった

彼の父親の三五郎はもともとの岩井姓から杉原姓に変えています。 日清戦争のとき結核を患いますが、杉原姓の将校に親切な手当てを受けました。 感激した三五郎は帰国後、当時珍しいことではありませんが、杉原姓に改名しています。 郷里の八百津は岩井姓が多かったので、杉原のほうが確実に郵便物が届いたとのことです。

2:満州での洪水、杉原は被災者を見捨てなかった

杉原がハルピンにいた頃、満州で洪水が起こりました。 中国人住民に多大な被害を及ぼす洪水でしたが、杉原は臆せず被害調査に向かいます。 洪水の犠牲者のもとへ出向いた杉原は激励を与え、元気付けたといいます。

3:スポーツマンだった

杉原はハルピンにいた頃、勉強ばかりではなくスポーツも楽しんでいたといいます。 特に野球に熱中しており、ハルピン学院の「オーロラ」というチームに入っていました。 しかし、ハルピンは寒冷地であり、彼がハルピンに来たときはオフシーズンでした。 代わりにアイスホッケーも嗜みましたが、野球をするには一冬待つことになりました。

4:一歩先へ行く男 であった

1920年代、杉原は志村という友人と上司のハルピン領事の3人で吉原に繰り出しました。 気に入った娘を決め、さあ快楽のひと時となるはずが、3人とも同じ娘に惹かれていたのです。 結果、身分の高い領事がその娘と夜を過ごし、志村は家に帰り、悶々としていました。 明日こそはと同じ店に行くと、同じ考えだった杉原が彼よりも先に店にいたそうです。 志村は「杉原と言う男は、いつも一歩前を行っていた」と述懐しています。

5:ロシア人女性との結婚

杉原はクラウディアというロシア人女性と結婚していました。彼女は 杉原の洗礼名である「セルゲイ」と呼び、2人は愛し合っていました。 しかし、彼女は子供を求めておらず、求めていた杉原を離縁する形で後に離婚します。 ですが彼女は後に「今は後悔しています」と彼との日々を惜しんでいます。

6:流暢なロシア語、友人の耳をも惑わす

杉原はマルチリンガルであり、特にロシア語に精通していました。 杉原の友人、笠井唯計(ただかず)は彼のロシア語の流暢さが印象に残っているといいます。 ロシア人が激論を交わしているからそちらに近づくと、一方は杉原だったそう。 「彼はロシア人とうまくやってゆくセンスを持っていた」と笠井は語っています。

7:妻、幸子に向けた紳士的なプロポーズ

1936年に杉原は菊池幸子という人と彼女の兄づてに出会い、再婚しています。 杉原を「思いつきの質問にまじめに答えてくれる人」と幸子は語っています。 杉原が結婚したい旨を伝えると「なぜ、私と結婚したいのですか」と幸子が聞くと、彼は「貴方なら外国に連れて行っても恥ずかしくないから」と即答したそうです。

8:運転を覚えた杉原、運転手を困惑させる

杉原は38歳の時、自動車学校の校長だった運転手に車の運転を教わります。 免許を取った数日後、運転手が幸子に「車が盗まれた」と焦って報告に来ました。 少し経つと公使館に車が入り、幸子が外に出てみると車から出てきたのは杉原でした。 運転手がいるときは静かにしていた杉原は、自分で運転できて満足そうだったといいます。

9:思い出の地、カウナス

1939年にカウナス(リトアニア)に移り、後に「思い出がいっぱいだった」と回想します。 それは後に語られる輝かしい功績ではなく、早世してしまった息子の出生地としてでした。 杉原は、息子の誕生の際の混沌が、結果的に死に追いやったと考えていたそうです。 「戦後、私は過去を忘れようと務めた」と、杉原は言っています。

10:今までの才能を「NHK」で発揮

1950年代、杉原は家族を養うため、臨時の仕事に多数就いたといいます。 50年代後半、彼はNHKラジオ放送にて、ソ連のニュースを傍受・翻訳する仕事に就きます。 当時の同僚は彼を父親あるいは教師のような人であったと懐古しています。

史料が語る杉原千畝の実像

杉原千畝の研究では第一人者と目される著者が、外交史料などから、杉原の外交官としての手腕を描いたノンフィクション作品です。多くの人命を救った彼の思想の背景になにがあったのかを解き明かします。

第二次世界大戦中、リトアニア領事官で多くのユダヤ人を救った命のビザで有名な杉原ですが、本書では、この決断をした背景にあった杉原の諜報活動の才能に焦点を当てています。

筆者の言葉を借りれば「従来のフィーマニストとしての杉原千畝像を壊すことではなく、他の面から杉原を描く、具体的にはインテリジェンス・オフィサーとしての杉原千畝を描くことであった」(本書より引用)が本書の目的です。

著者
白石 仁章
出版日
2015-09-27

杉原は若い時から語学に優れ、外交官として稀に見る優秀な人物だったようです。特にロシアについては相当の博識を持ち、最初の結婚はロシア人とだったとは、当時の歴史を考えると驚きの事実でした。その後、スパイ容疑がかけられ離婚することになりますが、この時代に国際結婚をする杉原の人間としての大きさが感じられます。

命のビザを発給した舞台になったリトアニアですが、当時のバルト三国の重要性が政治的、軍略的に理解できましたし、その場所に赴任した杉原は、外務省の中でも諜報部員として重要な人物だったのだろうと推測されます。

第一次世界大戦から第二次世界大戦に向けての、世界的に諜報活動が重要だった時代に杉原が果たした役割がわかりますし、彼が命を救うことを第一に考えた思考を時代背景から読み取れる作品です。

傍で支え続けた妻の自叙伝

『新版 六千人の命のビザ』は、第二次世界大戦中、リトアニア領事官で避難民6,000人を救ったといわれる外交官杉原千畝の妻である幸子が綴った自叙伝です。ヨーロッパ諸国の赴任に常に同行し、一番近くで支えた家族から見える杉原を知ることができます。

杉原は、満州国で軍部と摩擦を起こし、日本へ一時帰国します。その時に幸子と出会い二度目の結婚をします。以後はリトアニアやプラハなどの赴任先に常に家族で行動を共にしました。リトアニアでの夫の英断を一番近くで見ていた妻、幸子。戦後不遇な時代もそばで支え続けたその姿に、杉原の博愛精神は家族内でもあったのだと実感できる1冊です。

著者
杉原 幸子
出版日

ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人たちは、ソ連のリトアニアへの侵攻により更に逃亡を余儀なくされます。しかし、日本を含め各国はドイツとの政治的配慮により、避難民を受け入れることはしません。命の危機に直面し日本領事館前にビザの発給を希望して人々が押し寄せます。その中には寒さに震えながら不安そうに見つめる子どもたちなどもいます。本書では克明にこれらのことが記録されていて、自伝を通して現実を知ることができます。

日本外務省の意向に逆らい、博愛精神から人命を尊重してビザを発給し続ける夫と、自分たちがその後、罪に問われるかも知れないことを理解しながらも協調する妻。二人の姿に魂が揺すぶられます。感動の涙があふれだす作品です。

杉原千畝から渡された命のバトン

リトアニアで外交官杉原千畝が発給した命のビザにより、日本にやって来たユダヤ人たちを、自らの危険を顧みず支援した小辻節三という人物に追ったドキュメンタリー作品『命のビザを繋いだ男―小辻節三とユダヤ難民』。

著者は、俳優の山田純大です。シンドラーのリストや杉原に感銘を受け、日本に渡ったユダヤ人のその後を追うことで、歴史に埋もれた小辻節三という人物の存在を知ります。杉原から受け取った命のバトンを継承した人物としてその実績を追い、アメリカ、エルサレムなどでの精力的に取材を敢行しています。

著者
山田 純大
出版日
2013-04-23

ドイツ、ソ連かから迫害を受けていたユダヤ人たちは、リトアニアで杉原千畝の人道的英断により日本経由のビザを発給され、約6,000人ともいわれる人々が日本に逃げてきます。しかし経由国ビザであることから、滞在期間も定められており、他の安全な国へ渡航するにも金銭的に難しく、更に日本へもナチスドイツの手が伸びてきて国外退去を迫られます。

そこで救いの手を差し伸べたのが小辻節三という人物です。ヘブライ語とユダヤ人に造詣の深い小辻は、逃れてきた避難民たちに渡航先の手配や、日本での生活などの支援を行います。ナチスから暗殺される危険を冒しても、小辻はユダヤ人たちを保護し続けました。杉原同様、この英断が出来る精神力と行動力には脱帽させられます。

互いに面識のない杉原と小杉ですが、この2人の日本人により、多くの人命がナチスのホロコースト(大虐殺)から救われた博愛精神の連携作業はもっと多くの人が知るべき歴史であると思います。

命のビザがもたらした物語

杉原千畝が命のビザで救った少年が、後にユダヤ系シンジケートとなり、イギリス諜報部員と情報戦を戦うインテリジェンス小説『スギハラ・サバイバル』。スパイ活劇に歴史的事実を織り交ぜたスリル溢れる作品です。

杉原千畝は諜報活動に長け、第二次世界大戦下のヨーロッパで一大ネットワークを築きます。その諜報活動の協力者である、ポーランド地下組織のメンバーを逃がすために発給し始めたのが命のビザで、途中から人道的見地で避難民を逃がすため大量のビザを発給したと本作では意味づけています。

著者
手嶋 龍一
出版日
2012-07-28

杉原により助けられ日本へ逃げてきた少年が主人公で、この時知り合った仲間たちと、後年経済的シンジケートを作り出していきます。それに気づき正体を追うイギリス諜報部員との情報合戦が本作の見どころです。

全てフィクションのスパイ小説とは違い、実際の世界情勢や杉原千畝の功績を背景に作られた物語ですので、現実味が高く社会派小説としても読める作品です。また杉原の別の顔が垣間見られる本作は、白石仁章作の『杉原千畝: 情報に賭けた外交官』に史料的に裏付けられる作品ですので、あわせて読めば、面白さが倍増することでしょう。

命のビザ発給の伏線とは

第二次世界大戦下、博愛精神からビザを大量に発給し、多くのユダヤ人を救ったとされる杉原千畝を、学術的なアプローチで客観的に分析した研究書です。

杉原を題材にした本は近年たくさん出てきましたが、ほとんどはナチスドイツやソ連の迫害から、約6,000人のユダヤ人を救ったとされている美談を主題にした情緒的な作品が多いと思います。もちろん、その行動は賛美に値する素晴らしい事実ですが、本作ではその背景にあった諜報部員としての杉原千畝を主題にしています。

著者
白石 仁章
出版日

当時、世界連盟から脱退した日本は、ヨーロッパの諸事情を知るために諜報活動を活発化させます。その前線で活躍した優秀な諜報員が杉原千畝であり、ドイツに占領され国を追われたポーランド地下組織との交流が大きな役割だったとしています。戦時中の混沌とした時代に情報を得るために外交官として赴任する杉原の活躍は、決して表舞台には出せないものなのだろうと推測されます。

学生時代から優秀だった杉原千畝。満州国にいる時はロシア人と結婚してスパイ容疑もかけられています。すぐに協議離婚をして日本へ戻り、再婚後、次のモスクワへの希望はソ連政府から入国を禁じられます。このあたりからも、只者ではない雰囲気を醸し出しており、著者が主張するインテリジェンス・オフィサーとしての片鱗が見えてきます。歴史に埋もれた実像を探るスリルを感じられる作品です。

杉原千畝が命を救うために発給したビザは、約2,000枚以上とされています。その子孫は3万6千人ともいわれ、命のリレーがもたらした功績は世界規模で賛美されています。我々は、この功績をもっと知らなくてはいけないものではないでしょうか。

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