毛利元就についての本おすすめ3冊!「三本の矢」の逸話でも知られる武将

更新:2021.12.16

毛利元就といえば、自身の息子たちに矢を示し、兄弟で協力することの重要性を説いたエピソードが有名です。知略を尽くし、小国の領主から中国地方全域に勢力を拡大した、稀代の策略家のことを、深く知ることができる3冊をピックアップしました。

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知略も実践も優れた男、毛利元就とは

毛利元就(もうりもとなり)は、安芸国(現在の広島県あたり)の国人領主として有名な人物です。国人領主とは、幕府などの干渉を受けず、その地を実質支配している領主のこと。安芸毛利家の当主、毛利弘元の次男として1947年4月16日に生を受けます。幼名は松寿丸です。

毛利家は元々天皇家や源頼朝に仕えた文学者の家系でしたが、室町時代に衰退。その後も当主の急逝等が相次ぎ、重臣たちが自分勝手に振る舞うなど、家中は腐敗、混迷を極めていました。家臣の井上元盛に貢献されて育つはずが、逆に多治比猿掛城を横領されてしまい、元就は城下のあばら家で育ちます。

「乞食若殿」と呼ばれるほど困窮していた元就でしたが、元弘の継室で養母となった杉大方の支えもあり、無事に元服します。そして井上元盛が病死したこともあって城が返還され、15歳で城主に。兄の興元(おきもと)が急逝すると、その子である幸松丸が毛利家の当主となり、元就は叔父として後見人になります。そして毛利家の政治体制の立て直しを図っていくのです。

病弱だった幸松丸の死後は、異母弟合剛元網との間で後継者争いが発生します。その内乱は毛利家の家臣たちと出雲を治める尼子経久(あまこつねひさ)の陰謀であることを悟った元就は、1525年に尼子家との交流を断絶。元網と有力家臣団を断罪し、周防国(山口県)を治めていた大内氏と同盟を結びます。尼子家との抗争ではその知謀から順調に勝利を重ねますが、大内家主導の戦いで敗北。自身の身が危険にさらされるほどの負け戦を契機に、元就は勢力拡大へと乗り出していきます。

有力な豪族だった吉川家と小早川家の当主に自身の息子である元春と隆景を据えて支配下に置くと、自身は長男隆元に家督を譲り、名目上隠居をしてしまいます。影では国内外を平定するための調略活動に専念。大内家の重臣、陶晴賢(すえはるたか)によって大内義隆が殺害され、養子の大内義長が擁立された「大寧寺の変」では、以前から当主交代に同意しており、陶晴賢と接触するなど暗躍していた、との話もあります。

その後陶晴賢との交流を断絶し、1555年10月16日に厳島の戦いが勃発。調略を駆使して陶晴賢を厳島におびき出した元就は、暴風にまぎれて本体を奇襲。追い詰められた晴賢は自害します。周防平定後、尼子家を追い詰めた元就は、1566年に尼子家の居城である月山富田城を攻略し、中国地方に一大勢力を気付いた大名として戦乱の世に名乗りを挙げました。

1567年、上洛に成功した織田信長と争うことを徹底的に避けた元就でしたが、信長に支援された尼子残党軍や、豊後の大友宗麟が兵を与えた大内氏の一族の周防侵入に頭を悩ませます。大内家とは和睦、息子たちの活躍もあり、尼子家の残党を一掃することに成功した元就は、1571年7月6日に75歳で逝去しました。

武勇に優れた上杉謙信が「軍神」と称されるのに対し、「謀神」と称される元就は知略や政治的手腕を評価されますが、彼は生涯220戦以上もの合戦を駆け抜けた歴戦の武将でもあります。戦国の世にあって70歳で戦場に立つなど、かなりの健康体の持ち主。その代わりか長男隆元が早逝するなど、親族の早すぎる死が元就を作ったという形になってしまうのは皮肉なものですね。

かの有名な「三本の矢」は「三子教訓状」(2.85mにも及ぶ書状)を元にした創作だといわれています。書状の中に14条に渡る言葉を残し、死後の毛利家の行く末を案じた、苦労性の武将です。

稀代の策略家、毛利元就の知られざる10の逸話

1.幼少期から寛容な性格だった

幼少期、毛利元就が世話役に抱かれ川を渡っていると、川の中で世話役がつまづいてしまい、抱かれていた元就は川に投げ出されてしまいました。世話役は事を重く受け止め慌てて元就を助け出し、必死に謝罪しました。

しかし元就は怒ることもなく、「歩いてる時につまずくことなど、誰にでもあることだ。気にするな」と、世話役を一切責めることをしなかったといいます。どうやら子供の頃から家臣思いの寛容な性格であったようです。

2.彼は下戸だった

1501年、毛利元就が5歳の時に母が亡くなり、その5年後10歳の時に父も亡くなりました。父・弘元の死因は酒毒だったと言います。酒毒とは、アルコール中毒や飲酒の害毒のことを指します。

15歳の時に兄興元も亡くなりますが、その死因も酒毒だったそうです。酒によって父と兄を亡くしている元就は、酒が飲めない下戸だったと言います。それもあってか、長男隆元に対しても酒を控えるように注意をするなど、酒に対しては人一倍気を遣っていたようです。

3.愛妻家だった

毛利元就は大の愛妻家ということが知られています。妻・妙玖が存命中には側室を置きませんでした。1545年に妙玖が亡くなった時には、そのショックで3日間部屋にこもりっきりだったと言われています。

のちに発見された文書には亡き妻を偲ぶ気持ちが記されており、元就の詩集「春霞集」にも妻のことを詠んだ詩が収められています。

4.元就の趣味は連歌

元就は連歌を好み、『春霞集』『元就卿詠草』『贈従三位元就卿御詠草』などの詩集を出していました。毛利元就の指示で建立された天神社(厳島神社の西回廊の奥に位置する)は、別名を”連歌堂”と呼ぶそうです。

5.天下を望まなかった

生涯に220以上の合戦に参加した元就。天下を狙えるほどの勢力を持っていた彼ですが、『吉川文書』の中には「われ、天下を競望せず」という記載があります。「私は天下を競い合うつもりはない」という意思表示をしていたようです。

6.元就の好物は餅

酒を飲まずいたって健康体だった元就は餅を好んで食していたといいます。餅は当時のスタミナ食で、腹持ちがよく日持ちもすることから兵糧として使われていました。厳島の戦いでは、地理的戦略と兵糧(餅)を駆使して陶晴賢を打ち破りました。

7.毛利家の家紋は「一文字三星」

毛利元就の家紋は、一という字の下に3つの黒丸が三角形の頂点のような形で配置してある紋章です。“一"の下に描かれた3つの星はオリオン座の真ん中に並んだ3つの星を表しています。

実はオリオン座の3つの星は右将軍星・大将軍星・右将軍星から成る「将軍星(三武)」と呼ばれており、武家の家紋にはよく使われているマークと言えます。

更に”一"には「相手に打ち勝つ」という意味が込められており、これらを組み合わせた「一文字三星」は毛利家だけでなく、北条家・長井家・安田家などでも家紋として使われています。

8.元就は筆まめ

とても筆まめな性格で、毛利元就が執筆したとされる数多くの手紙が残されています。有名な「三本の矢」創作の元となった『三子教訓状』ですが、この書状自体が​2.85メートルにわたっており、内容も同じことの繰り返しだったそうで、元就を評して「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と言った専門家もいるほどでした。

9.正室との間の3人の息子をひいきしていた

毛利元就は子だくさんな武将としても知られていますが、子どもの数はなんと11人。正室である妙玖との間に5人の子どもがおり、側室である乃美大方・中の丸・三吉隆亮の妹との間に6人の子どもがいたといいます。ただし中の丸との間には子どもができませんでした。

先に触れた『三子教訓状』は元就が正室との間に生まれた3人の息子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に宛てた書状で、毛利家を他の兄弟と協力して盛り立てていくように教え説く内容になっています。

この書状の第九条に「今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。」といった、やや辛辣な表現がなされており、3人の息子たちに他の兄弟の処遇を委ねていたことがわかっています。

10.辞世の句は「友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」

毛利元就が死ぬ3ヶ月ほど前に花見の席で詠んだと言われる句です。意味は「一緒に桜を見るような友人をを得て、私も嬉しいが多くの人に見られる桜も嬉しいことだろう。昨日に比べ、今日は桜の香りも良いように思える」というものです。
 

みなし児城主の一代記!

作者の山岡荘八(山岡荘八)は、1907年1月11日生まれ。歴史小説を多数執筆している作家です。本名は藤野庄蔵。新潟県の出身で、1920年に高等小学校を中退し上京。文選工として働いた後に、逓信官吏養成所で学びます。17歳で印刷、製本業をはじめ、雑誌編集者として働きながら、小説家の長谷川伸に師事することに。

1938年『約束』が「サンデー毎日大衆文芸」に入選し、デビュー。戦中は従軍作家として活動し、各地を転戦しながら『海底戦記』を発表します。戦後は1950年に新聞連載された『徳川家康』が大ヒット、ベストセラーに。他にも『坂本龍馬』や『織田信長』といった歴史上の人物を主人公とした作品を多く残している彼。1973年に紫綬褒章を受章しています。そしてその5年後の1978年9月30日、71歳で逝去。没後に従四位勲二等瑞宝章が授与されています。

著者
山岡 荘八
出版日
1986-08-28


そんな歴史小説を数多く執筆してきた山岡荘八の『毛利元就』は、1巻で元就が誕生してから長男の隆元を大内家への人質に差し出すあたりまで。2巻では、1540年、尼子詮久(あまこあきひさ)率いる3万の軍勢に本拠地吉田郡山城を攻められ、僅か3000の手勢で籠城を行った吉田郡山城の戦いから、厳島の戦いが終息するまでが書かれています。

聡明ながらかなり困窮した生活を送っていた幼少期からの元就が描かれていますが、当時の中国地方の情勢はかなり複雑。大内家と尼子家という大家に挟まれ、家中に不和を抱えた状態の下なりが、知謀を尽くして難局を乗り切っていく姿は見事の一言。意外と激情家な面もあり、人間らしい一面も見せています。

歴史を淡々となぞるのではなく、物語を重視している本作。元就の激動の人生を、2巻という限られたページ数で表現されているため、元就や歴史を彩った武将たちの熱い思いが凝縮され、読者に投げかけられます。熱い頭脳戦と心理的駆け引きも楽しめる、元就の知謀の数々を堪能できる1冊です。

3つの視点から毛利元就を分析!

作者の岸田裕之(きしだひろし)は、1942年8月生まれ、岡山県の出身です。主に中国地方の中世史を専門としている歴史学者で、当時の政治や経済を主に研究しています。1997年放送のNHK大河ドラマ「毛利元就」では、時代考証を担当しました。

1970年に広島大学大学院博士課程の単位を取得、鳥取大学教育学部助教授を経て広島大学文学部の助教授となります。1981年に広島大学文学博士となり、2005年に定年退職。その後、龍谷大学の教授を務めています。

著者
岸田裕之
出版日
2014-11-26


岸田裕之は日本の中世に活躍した大名の経済や政治の構造、仕組みなどを研究している歴史学者です。『毛利元就 武威天下無双 下民憐愍の文徳は未だ』でも、法制、経済、意識の3点を中心に、元就がいかにして中国地方を掌握していったかを分析、解説します。

内容はかなり専門的で、ある程度元就の知識を持っている人向けで、難易度は少々高め。その分提示される資料や引用文も豊富です。元就が筆まめだったせいか、資料にも手紙が度々登場。私信には家臣の悪口が書かれているなど、リアルな元就の考えや日常に触れることができます。

歴史的資料からの分析なので、創作ではないかと言われている逸話についての記述はありませんが、如何にして元就が国を作っていったのかを知ることができる本作。元就を取り巻く人々との関係もすべて網羅しており、元就の意外な魅力に気が付くことができる1冊です。

妻から見た毛利元就の姿が新鮮!

作者の永井路子(ながいみちこ)は、1925年3月31日生まれ。東京都出身の歴史小説家です。本名は黒板擴子(くろいたひろこ)。茨城県古河市で育ち、高等女学校を卒業後は、東京女子大学国語専攻部を卒業。戦後は東京大学で経済史を学びます。

雑誌編集者として小学館に勤務し、松本清張らの担当を務めます。文芸同人誌「近代説話」に参加しており、作品をいくつか発表。1964年鎌倉幕府を題材にした『炎環』で直木賞を受賞。執筆した作品の舞台は平安から江戸末期までと幅広いですが、女性を主題としているのが作品の特徴です。

著者
永井 路子
出版日
2013-06-07


そんな永井路子の作品『山霧』は、元就の妻、安芸国の国人吉川国経の娘、おかたが主人公。史実では妙玖(みょうきゅう 法名)として伝わり、隆元、元春、隆景の三兄弟を含む、5人の子どもを産みました。政略結婚ではあったものの夫婦仲は良く、おかたが47歳で亡くなるまで、元就は側室を置かなかったそうです。

上巻では予断を許さない情勢下の中、慎重な性格の元就と、明るく前向きな性格のおかたの日々が綴られています。歴史の流れを踏襲しながらも、夫婦となっていくふたりの関係性は優しいもの。子どもが生まれ、家族という形になっていく姿に、殺伐とした背景をすっかり忘れて和んでしまいます。

会話を中心に進んでいくため、時勢を踏襲しながらも物語を純粋に楽しむことができる本作。知謀の将としてではなく、おかたにとっては旦那様で、愛すべきひとりの男だったのだと伝わってきます。

下巻は勢力拡大に乗り出していくため、戦の描写も増えて少々血なまぐさい雰囲気。夫婦での時間は少なくなっても、重要な場面で夫婦の絆を見せてくれます。戦国時代の、夫婦の姿を描く物語。知謀の将としての印象を変えてくれる作品です。

毛利元就は知謀をたたえられ、人気のある武将ですが、「三本の矢」の人という印象が強く、その活躍は広く知られてはいません。身の安全さえ危うい極貧生活からのし上がり、自身の運命を切り開いた武将の人生を、味わい尽くせる作品ばかりです。

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