元は農民の出ながら異例の大出世を果たし、やがては天下を統一した豊臣秀吉。その道のりを支えたひとりに、竹中半兵衛がいます。今回は、黒田官兵衛とともに「両兵衛」として秀吉を支えた軍師を描いた作品や、彼にまつわる逸話をご紹介していきます!
竹中半兵衛は、本名を竹中重治といい、1544年から1579年にかけて活躍した武将です。「半兵衛」は通称で、「今孔明」といった異名を持つ軍師(軍の指揮や采配をする者)として知られています。女性的な顔立ちをした美形とも伝わっていますが、知謀だけではなく武術もかなりの腕前だったのだとか。
美濃国(現在の岐阜県付近)斎藤氏の家臣竹中重元の子として生を受けた彼は、斎藤義龍、龍興親子に仕えることになります。この頃になると尾張国を治める織田信長の美濃攻めが激しさを増しており、斎藤家は半兵衛が考案した、伏兵と奇襲をうまくまじえた「十面埋伏陣」という戦法で撃退していきました。
しかし、そんな情勢でも淫蕩にふける龍興を見かねた彼は、安藤守就(あんどうもりなり)ら16人だけで斎藤氏の居城、稲葉山城を1日で占拠。城は約半年間占拠した後に返還し、彼は斎藤家を去ることとなりました。
織田信長が彼の才能を見込み、出仕させようとしますが、病を理由に拒否。かわりに弟の久作を仕官させます。その後朝倉義景を攻めた織田信長は、妹の婿であり同盟相手でもある浅井長政の裏切りを受け、金ヶ崎で撤退。浅井攻めを決意した信長が、再び彼を仕官させようと向かわせたのが木下藤吉郎、後の豊臣秀吉でした。
織田家家臣として姉川の合戦に出陣した後、出世した秀吉に城の守備を命じ、半兵衛を従わせます。調略や内政で辣腕を振るった彼は、1577年に黒田官兵衛(黒田孝高)とともに播磨攻めで活躍するも、病床に伏せるようになりました。京都で療養していたものの、陣中で没することを望み、播磨三木城の包囲戦である三木合戦の最中、1579年6月13日に34歳の生涯を閉じました。
1:犬猿の仲といわれているが、信頼関係が築かれていた
竹中半兵衛と黒田官兵衛がともに秀吉のもとにいた期間は4年ほどと短く、犬猿の仲だったという説がありますが、こんなエピソードもあります。
織田家臣だった荒木村重が謀反を起こした際、説得しに城へ入った官兵衛が幽閉されてしまいました。いつまでも帰らない官兵衛の寝返りを疑った信長が、人質である息子の松寿丸(のちの黒田長政)殺害を秀吉に命令。しかし秀吉の命を受けた半兵衛は密かに松寿丸を匿います。
官兵衛は裏切らないと信頼しての行動であり、半兵衛と官兵衛の間に固い絆があると感じさせるエピソードです。
2:官兵衛の誓紙を燃やして戒めた
黒田官兵衛は秀吉から知行を与えるという誓紙をもらっていましたが、秀吉が出世しても官兵衛は知行を貰えず、不満を募らせていきます。
ある日、官兵衛のもとを訪れた半兵衛は、会話の最中に誓紙の話とあわせて愚痴を聞かされます。
一体どのような誓紙なのかと聞いたところ、官兵衛は誓紙を取り出して見せますが、半兵衛は何も言わず破り、火の中に投げ入れてしまいました。
驚く官兵衛をよそに彼は「このような誓紙がある為に不満を抱いて勤めがおろそかになるのです。官兵衛殿の身の為になりません。」と言ったそうです。
心を入れ替えた官兵衛は秀吉のもとでいっそう精勤し、出世していきました。
1:織田信長の家臣を感嘆させた
半兵衛の評判を聞いていた柴田勝家や滝川一益など信長の家臣らは「いずれ会うことがあったら戦について議論の場をもうけ、言いくるめてやろう。」と口裏を合わせていました。
ある時、信長への使者として半兵衛がやってきます。柴田勝家は待っていたかのように彼を屋敷に誘い、諸将とともに戦についての質問を投げかけましたが、彼はそれらの質問すべてに理路整然と答えたため、信長の家臣たちは一言の批判もできず、感嘆したそうです。
2:浮かれている秀吉を戒めた
秀吉が長浜城主となった時の話です。喜んでいた主君に対して、半兵衛はこれからが大変な時期であると戒めました。
そして、彼は秀吉にある策を授けます。それは信長の息子を養子に迎えるというものでした。
彼の言うとおり、秀吉は信長に願い出てみると、信長は四男の秀勝を秀吉の養子にします。これにより重臣たちも秀吉を表立って非難できなくなり、信長から猜疑心を抱かれることもなくなったのです。
1:軍談の途中で席を離れた息子を叱った
彼が座敷に人を集めて軍談をしていた時のことです。
同席していた、まだ小さかった彼の息子の重門が途中で小便のために席を立ち、しばらくしてから戻ってくると、「なぜ座敷で座ったまま用を足さなかったのだ。竹中の子は軍談を聞き入るあまり、小便で座敷を汚したといわれようものなら竹中家の面目になったであろう。」と重門を叱責したといいます。
2:常にウォーミングアップをしていた
彼は常に足の指を動かし、寒い日には手を擦りあわせて温めて、いつでも動けるように準備をしていたと伝えられています。
羽柴秀吉の前に座る時も左右の足を代わる代わる動かして片方の足を休ませていて、これを怪しんだある人がその理由を尋ねると、「武士は片時も『武』を忘れてはならない。咄嗟の時に備えて手足が痺れないようにしておくことこそ大事である。」と言ったそうです。
3:名誉やお金は大事なことではないと説いていた
「自分の能力に過ぎたような高価な馬を買うべきではない。その馬を付き従わせることができていないと、結局は馬のために名誉を失ってしまう。十両で馬を買おうと思うなら五両で買うべきだ。そして戦場では乗り捨てるべき時に乗り捨てて、残りの五両で新しい馬を買えば良い。このようなことは馬に限らず言えることで、金銀財宝などは塵と思うような心掛けがなくてはならない。」というような言葉が伝わっています。
名誉やお金にとらわれてはいけないと説いていたのです。
4:竹中半兵衛の逸話を元にしてできたことわざがある
「知らぬ顔の半兵衛」ということわざがあります。彼が斎藤氏の家臣だった頃、半兵衛を寝返らせるために織田信長は前田利家を送り込みました。彼はこれを見抜きながら知らない顔をして利家と仲良くなり、逆に織田軍の情報を聞き出したそうです。
このように知らない顔をしてとぼけるのが上手かったことから、このことわざができたといわれています。
5:調略の天才だった
彼は敵方の武将を説得して味方側に寝返らせる調略を得意としていました。秀吉のもとに参入した1570年、敵方の浅井軍に所属していた堀秀村の調略を成功させ、その2年後の1572年には浅井軍の武将である宮部継潤の調略に成功します。
さらに1578年にも備前岡山城主の宇喜多直家の調略を果たしました。
このように彼は「血を流さずに城を落とす」戦いに長けており、敵将も彼の言うことに納得して耳を傾け、城を明けわたしています。
著者の笹沢左保は1930年生まれの小説家。関東学院高等部を卒業後、郵政省東京地方簡易保険局に勤務しながら小説の新人賞への公募を続けました。
1958年から全逓信労働組合の機関誌「全逓新聞」や探偵小説誌「宝石」の賞にいくつかの作品が入選。そして江戸川乱歩賞候補となった『招かれざる客』で小説家として本格的なデビューを果たします。
ミステリーと時代小説を数多く執筆しており、ドラマや映画もヒットした「木枯し紋次郎」シリーズや、「峠」シリーズの作者としてもお馴染の彼女。会話文のみで書かれた『どんでん返し』や、2人の探偵役がくり広げる推理合戦が目玉の『セブン殺人事件』など、さまざまなミステリーの表現を追求しており、時代小説にもミステリー的手法が取り入れられているのが特徴です。
380以上もの作品を残し、2002年10月に逝去しました。
- 著者
- 笹沢 左保
- 出版日
- 2013-08-24
本作は、上下巻の作品です。上巻では稲葉山城占拠から金ヶ崎の戦いまで、下巻では秀吉との出会いや織田家での活躍、そして病に伏して死に至るまでが書かれており、彼の生涯を追うことができます。
笹沢左保の書く物語の最大の特徴は、作中に恋物語が登場するという点です。史実では斎藤道三に仕え、西美濃三人衆と称された安藤守就の娘を正室に迎えていますが、本作での恋のお相手は違います。斎藤家からの使者として織田家へ赴いた若き半兵衛が出会ったのは、絶世の美女として知られる信長の妹、お市の方でした。
お市の方は後に浅井長政に嫁ぎますが、秀吉や柴田勝家も懸想していたといわれる、いわば織田家臣団のアイドル的存在。そんな女性への思いを胸に秘めながらも、半兵衛流の軍略で乱世を切り開いていく彼の人物像が新鮮に映ります。
下巻では恋愛面に比重を置きつつも、黒田官兵衛との友情が育まれるさまも書かれます。特に信長の命を受け、命を狙われた松寿丸を秀吉から匿い続け、半兵衛の死後に官兵衛の置かれていた状況が判明するのです。彼の行動の真意を知った後の信長と秀吉の反応には、涙腺を刺激されます。
軍師という立場からかクールなイメージを抱いていましたが、本作では積極的かつ情熱的な面が見られます。内に秘めた熱量が若さを感じさせ、青年軍師の成長譚といった内容です。若くてカッコいい半兵衛を堪能してください。
『軍師の門』の著者、火坂雅志は1956年生まれで新潟県の出身です。早稲田大学出身で、卒業後は編集者として出版社に勤務していました。1988年に『花月秘拳行』でデビュー。伝奇的な作品を得意とする作家ですが、『全宗』など歴史小説を多数執筆しています。
上杉家の武将、直江兼次を主人公とした『天地人』が大河ドラマの原作として選ばれたことから大ブレイク。以降は歴史小説家として解説本を執筆するほか、コメンテーターとしてテレビ番組に出演もしています。病気により、2015年2月に亡くなりました。
- 著者
- 火坂 雅志
- 出版日
- 2011-12-22
火坂雅志の書く半兵衛、官兵衛のふたり、いわゆる「両兵衛」の活躍と絆を描いた本作は、上下巻での刊行。上巻は主に早逝であった半兵衛にスポットを当てながら、官兵衛が荒木村重によって有岡城の地下に幽閉されるまでが書かれています。
下巻では半兵衛は亡くなっているものの、その遺志を貫き、秀吉の軍師として仁義を貫いた官兵衛の晩年までを追った内容です。
小説内での半兵衛はどこか浮世離れした、何もかも見透かした人物として書かれることが多いですが、本作では現実主義で、世に名を残そうとする野心家な一面が描かれています。斜に構えた見方をしているのは、彼が病弱であるため。少々ひねた部分があるところが劣等感の表れのように感じられ、軍師ではなく、ひとりの人間としての姿を感じ取ることができます。
そんな彼に対し、官兵衛は仁義を重んじるがゆえになかなか世に出ることができません。半兵衛と出会ったことで、己の理想に向かって邁進していく官兵衛の姿は印象的です。真っすぐで思慮深い官兵衛は、秀吉に信頼され重用されるように。しかし強大な権力を手に入れた秀吉は、官兵衛を恐れて距離を置くようになるのですが、それでもでしゃばらずに秀吉の助けであろうとする姿が胸に迫ります。
軍師としては先輩格である半兵衛と、そんな彼に影響されて成長していく官兵衛。歴史の流れに沿いながら、ふたりの絆が育まれていく過程も丁寧に追った、稀代の軍師たちの歩みをより一層知ることができる物語です。
八尋舜右は、1935年に朝鮮民主主義人民共和国の平壌で生まれた作家です。早稲田大学文学部卒業後、人物往来社に入社。テーマに沿い、専門家が歴史をわかりやすく解説する特集が人気を呼んだ歴史専門雑誌「歴史読本」の編集長を務めました。
その後、朝日新聞社東京本社出版局部長を経て作家活動に入ります。
1978年、『高杉晋作 物語と史蹟をたずねて』でデビュー。歴史上の人物の足跡を追ったシリーズは人気を博し、上杉謙信や坂本龍馬など、9冊が出版されています。小説では戦国武将や平安末期を題材にした作品が多く、史実に忠実な作家です。
- 著者
- 八尋 舜右
- 出版日
クールで洞察力に優れ、名声を求めない……そんな半兵衛のイメージが凝縮されているのが本書です。歴史の流れに沿って彼の人生を追ってはいますが、歴史に重きを置かず、あくまでも彼の人生を主題に置いているため、より半兵衛という人間を知ることができます。
八尋舜右は、己の理想と現実との埋められない差に苦悩する人物像を描いていきます。半兵衛の理想とは、戦が無く民が平和に生きていける世界です。国同士が領地を巡って争う戦国の世にあっては、まさに夢物語のような考えですが、その理想を追うがゆえに苦悩し続ける彼の姿に共感する読者も多いのではないでしょうか。
秀吉に惹かれたのは先見の明があったからなのかと邪推をしたり、ちょっとした恋物語があったりと、人間・竹中半兵衛を楽しめる本作。官兵衛との交流は重視されていませんが、自身の人生の矛盾を冷静に内省し続ける彼の意志の強さと、人間らしい脆さを感じられる作品です。
本作の著者、嶋津義忠は、1936年生まれの大阪府出身の作家です。京都大学文学部卒業後、産経新聞社に入社。後に化学会社へ転職します。1993年に伊賀忍者集団と徳川家康が登場する『半蔵の槍』で作家デビュー。忍者を題材にした作品を数多く執筆するほか、戦国武将を主人公とした作品も発表しています。
- 著者
- 嶋津 義忠
- 出版日
本作は、「両兵衛」として秀吉を支えた半兵衛と官兵衛、ふたりの人生がまとめられた一冊です。2011年には「戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち -」としてドラマ化されました。
どの作品でも、性格が正反対だからこそ仲が良くなる彼らの様子が描かれますが、本作では無欲の天才としての半兵衛、知謀を尽くし播磨の一家老からから天下を狙う官兵衛が登場します。
ふたりの年齢差は2歳ですが、実は人生の時間には20年ほどの開きがあるのです。彼らが交わったわずかな時間を濃厚に、残された時間を感傷たっぷりに描写していきます。
基本的な流れは史実のとおりに進みますが、合戦のシーンなどもはさむため、物語に緩急がつき飽きずに読み進めることができます。
彼らのことを知りたいという方への入門書として最適な本作。半兵衛と官兵衛、対照的なふたりの友情と人生をお楽しみください。
早逝の天才軍師・竹中半兵衛と、仁義を尽くし現代でも根強い人気のある黒田官兵衛。官兵衛が大河ドラマの主人公になった影響もあり、近年注目度が増しているふたりですが、あまり彼らの関係のみがピックアップされることがありません。今回おすすめした作品は天才軍師が育んだ絆を堪能できる作品ばかりです。