織田信長や豊臣秀吉に仕え、徳川家康と対等に渡りあった前田利家。そしてそんな夫の力を十二分に発揮させることに力を尽くした妻のまつ。NHK大河ドラマの題材にもなったため、名前を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。この記事では、利家夫妻にまつわる意外と知らないであろう逸話と、彼らについて学べるおすすめの関連本を5冊ご紹介していきます。
前田利家は1536年頃、尾張国の荒子城主・前田利春の四男として生まれました。1551年頃には織田信長に出仕し、次々と戦功をあげます。また、従姉妹にあたる幼なじみだった「まつ」とも結婚しました。
しかし人生順風満帆だった22歳の頃、ある事件で織田信長の怒りに触れて出仕停止、つまりは追放されてしまいます。
戦国時代、織田信長から「槍の又左」と賞賛されるほどの槍の腕前を持った利家であれば、他家へ仕官することも簡単だったはず。ところが利家は、信長一筋。信長が合戦すると聞けばそこへ駆けつけ、一番首をあげる活躍をしてみせました。
1度では認めてもらえなくても、2度3度と合戦に駆けつける利家を見て、信長もやっと許します。そして、もっとも信頼する家臣を据える「赤母衣衆(あかほろしゅう)」筆頭の役を与えました。
赤母衣衆とは、目印にマントのような「母衣」をつけることが許された人で、常に主人の側に仕え、合戦では主人の伝令の役を務めます。利家の律義さには、誰もがあきれるほどだったとか。
追放されてからここまでくるのに、約2年。その間、ひとり目の子どもが生まれたのに仕官すらできない夫を支えていたのが、妻の「まつ」です。その後、彼が幾度となく降りかかる苦難を乗り越えていけたのも、この2年間の経験があったからでした。
「本能寺の変」で信長が討たれた後、豊臣秀吉と柴田勝家が対立。彼は2人の間で揺れることになります。もともとは勝家の与力でしたが、秀吉とも交流があったのです。
1583年に起きた「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」では柴田軍として参加するものの、戦いの途中で突然撤退。結果として柴田軍の勝利に繋がりました。
その後秀吉から加賀国を加増され、臣従することになります。
晩年、老いていく豊臣秀吉に対して、徳川家康が台頭します。どちらに与するか動揺する諸大名のなかで、その微妙なバランスの支えになっていたのが利家でした。しかし残念ながら彼も病に倒れ、関ヶ原の戦いを見ることなく死んでしまうのです。
1:戦だけでなく諸大名との交渉役も務めていた
特に秀吉の傘下に入ってからの利家は、年齢もあってか、武勇ばかりでなく秀吉政権のナンバー2として手腕を発揮してきました。その代表例が、東国大名との交渉役です。
秀吉は毛利や宇喜多といった西国大名とは付き合いがありましたが、東国は管轄外であったため、正直手が及んでいません。
利家はかつての敵であった上杉景勝と誼を通じて、秀吉を援護するように陽動を命じるなどし、「奥州仕置」の際には伊達政宗や南部信直とも交渉をおこなって秀吉の前の第一関門として立ちはだかります。
秀吉の死後は、多くの秀吉子飼いや五大老が利家を慕い、家康を非難していたことから、人徳や大名への世話役としては利家の方が何枚も上手だったのでしょう。
2:実は最晩年まで立場が低かった?
利家が独立した大名になったのは、一にも二にも信長と秀吉の存在があってのこと。前田家もいわゆる織豊大名と呼ばれる新興大名でした。そのため、五大老のなかでも元から大名だったその他のメンバーと違い、当初の利家の地位は、決して高いわけではありませんでした。
この立場が逆転したのは、1594年のこと。利家は秀吉の命令で、毛利・上杉よりも早く官位を昇格させられます。これによって利家の上にいるのは秀吉と家康のみ。これもまた、彼がただの脳筋武将ではなく、器量を備えた大名であったからこそ得られたものでしょう。
3:死に装束を着るのを拒んだ
利家は、家康が秀吉の遺言を無視して増長していく様子を見ながら最期の時を迎えます。その時彼は、まつから死装束を着るように促されました。
まつによれば、若い頃から手柄を立てた一方で、多くの人を殺してきた利家は地獄に落ちるだろうから、これを着て服しなさいとのことでした。
しかし利家は「自分の欲望で人殺しをしたことはない。もし地獄に落ちたならば先に死んだ部下たちと共に閻魔大王とも一戦交えるまでだ。」と言い、死装束を着なかったそうです。
彼は彼なりに、武士として、そして権力者として殺人者であったことに責任を持っていました。
1:四男だったけど信長に仕えた
前田利家は元々尾張国荒子村の地主である前田利春の四男として生まれました。本来家督を継ぐのは長兄の利久です。さらに次兄・利玄、三兄・安勝、弟に佐脇良之、秀継がおり、前田家は分家にも恵まれていました。地主や大名クラスでも庶子となると格下にみられるため、出世の機会は必ずしも多くありません。
しかし織田信長は、利家のような不遇の若者を好んで自分の傍に置き信頼したため、利家は持ち前の武勇を発揮して活躍します。そして1569年、長兄・利久が「士道不覚悟」という理由で信長から当主をクビにされると、代わって利家が前田家当主となるのです。
2:娘を豊臣秀吉に養子に出している
利家と秀吉は、長屋暮らし時代から夫婦そろって親友でしたが、2人はいろんな意味で対称的でした。武勇に優れた利家と処世術や統率に長けた秀吉、秀吉はほどなくして利家を追い越し、出世街道を走っていきます。
しかし秀吉は、子だくさんだった利家とは違い、子宝に恵まれませんでした。すると利家は1576年、2歳だった四女の豪姫を秀吉の養女にします。豪姫は秀吉夫婦秘蔵の子として特に愛され、後に宇喜多秀家の正室となりました。
3:隻眼だった?
隻眼といえば伊達政宗や『三国志』の夏侯惇(かこうとん)などが有名ですが、利家も隻眼だったといわれています。
彼は初陣だった「稲生の戦い」の際に、右目の下に矢が刺さってしまいました。部下が撤退を促すなか「まだ一度も大将首を取っていない」と言い、味方を鼓舞して矢が刺さったまま戦を続行、勝利を収めます。この時の負傷で隻眼になったといわれているのです。
4:キリシタン大名だった
豊臣政権に入ってからの利家は、教養を広げることにも熱心でした。なかでもキリシタンだったという説は興味深いものです。これによると、利家は自ら洗礼を受けてオーギュスチンという洗礼名をもらっています。
利家はキリシタン大名の高山右近が改易された際に彼を庇い、召し抱えていたという実績があります。加賀には前田家のものとする隠れキリシタンの観音像も見つかっており、右近から教育を受けた利家が所有していたのではないかとされています。
5:そろばんを使いこなして家計を管理していた
利家は、まつから「ケチ」と称されるほど金にうるさい人物でした。若い頃に浪人暮らしを経験している彼は、金によって左右される人間関係のイロハをしっかりと見てきたため、散財を嫌っていたのです。
当時伝来したばかりのそろばんを自ら用いて、家計を管理していました。
しかしケチと言っても器量が小さかったわけではなく、家臣を養えなくなった大名には躊躇なく金を貸すなど、恨みを残さない方法を常にとり続けています。息子の利長にも「借金の取り立てを催促してはいけない」と言っており、人の心理をよく理解している一面もありました。
6:息子には戦を教えたがらなかった
一騎打ちに名声があり、戦上手として知られた利家ですが、息子の利長には戦を教えたがりませんでした。利家を尊敬していた加藤清正は、利長からその話を聞いて大変不思議に思っていたようです。
利家は信長から習った「やられる前にやれ、絶対に自分の領域に踏み込ませてはならない。」という、先手必勝の実践式兵法を得意としていました。もしかしたら利家からすれば、戦とは誰かが付きっきりで教えるものではなく、自ら学びとるものだという認識だったのかもしれません。
7:加賀百万石はウソだった!?
「加賀百万石」といえば、前田利家を指すことが多いですが、実は利家自身が加賀百万石を有したことは1度もありません。実質的に百万石になったのは、彼の死後に、関ヶ原の戦いで東軍についた利長が西軍方の領地を加増されてからの話です。
利長も、利家の正統な後継者として非常に優秀な人物でした。晩年はほとんど京や大阪にいた利家にかわり、実質的に加賀を治めたのは利長の功績です。しかしただの土豪に過ぎなかった前田家を天下第三の大名にまで押し上げた利家の功績を讃えて、後の人々は百万石=利家という認識で呼んでいました。
利家の身長は、遺された着物の大きさから180センチほどだったのではないかと推測されています。当時の男性の平均が160センチに満たないことを考えると、かなり大柄だったことがわかります。
そんな彼は合戦時、6メートルを超す長さをした派手な槍を持って戦っていました。この槍を用いて数々の戦績をあげたため、「槍の又左」という異名がついています。
得意としていたのは一騎討ちだったそうで、そんな彼の考え方がわかるのが次の言葉です。
「戦場に出でては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し。」
「合戦するとき、一万と三千は、その大将の考えで三千の方がたびたび勝つものである。そのわけは、小勢の方は二つに一つと兵士たちは覚悟しているからである。だから、大軍の大将は油断してはならない。」
ちなみにそんな彼を見て、信長は「肝に毛が生えている」と絶賛したそうです。
ナツメ社から刊行されている「図解雑学」シリーズ。その分野も、橙色の「人文科学」、緑色の「社会科学」、黄色の「自然科学」と広範な分野を取り上げ、それを豊富な図解で、小学生にも分かりやすく記述されています。
だからと言って決して子ども向けではありません。監修は静岡大学名誉教授、小和田哲男氏。戦国時代が専門で、実は2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』の歴史監修もされています。残念ながら、本書は絶版ですが、古書で手に入れられます。
- 著者
- 出版日
「笄」って、何だか知っていますか?そもそも、なんと読むか分からないですよね。今、これを日常で使う人はほとんどいません。「こうがい」と言って髪を結い上げる時に用いられた、棒状の当時の女性の装飾品です。男性が脇差の付属品として持つこともあったようです。
実はこの「笄」、前田利家の人生を語るうえで、欠くことのできないエピソードの元になる道具なのです。このように、現代の私たちには分からなくなってしまっている道具や人々の衣装が、本書では豊富な写真や図版で紹介されています。
それ以上に有効な資料は地図。利家が最初に城主となったのは尾張荒子城でした。長篠の合戦とその後の一向一揆平定の功績で越前府中に3万3千石をもらい、利家は初めて大名格となります。ここから加賀百万石への道が開かれていくのですが、北陸地方に詳しい方以外はともかく、その他の人たちにとっては「府中」ってどこ?という感じかもしれません。
それが大きな図で示され、同時期に越前に配置された柴田勝家に対して、「府中三人衆」と呼ばれた利家と佐々成政、不破光治との関係が一目でわかるように示されています。本書では特に第4章を「利家の参戦記」と題し、利家の戦ったすべての合戦について、軍勢の進路、布陣の様子などもわかりやすく図解してあります。
もうひとつ欠かせない資料が、人物関係図です。戦国時代の物語を読んでいて面白いのは、それが群像劇だから。確かに織田信長や豊臣秀吉といった主人公はいますが、その主人公を取り巻く家臣や家族たち……彼らひとりひとりの思いが撚り合わさり、うねり合い大きな流れとなっていくさまを読むのが戦国物の醍醐味だといえるでしょう。
昨日の敵は今日の友、敵の敵は味方。その時々のそれぞれの武将たちの思惑が、わかりやすいイラストで描かれているので、敵対関係や、婚姻関係がよくわかります。この後、紹介する本を読む際にはぜひとも手元に置きたい一冊です。
北陸の地を舞台に、各勢力が文字通りしのぎを削りあう様子や、そこに群れる侍たちとともに、周囲の山々の空気が描かれています。
合戦に集まった武将を淡々と描写しても、彼らの背負う土地の匂いのようなものがそこにあるのは、作者の出身地だということが大きく影響しています。
- 著者
- 戸部 新十郎
- 出版日
前田利家は、最初から最後まで、自分が天下を取る、などということは考えていません。ただ、自分に課された役目、義務を律儀に勤めて、勤め切った人生でした。
新聞記者だったという作者の経歴も関係あるのか、簡潔でそれでいてどこかにリズムがある読みやすい文章です。
律儀で義理堅い性格が、人からの信頼につながり、その人たちとの信義を貫こうとしたのが前田利家の生き方でした。望んでナンバー2のポジションを掴んだわけではない、ただ、時勢が彼をその地位に押し上げていき、彼は律儀にその任を果たそうとした、そんな利家の姿が浮かび上がってきます。
前田利家を描こうとすれば、当然その妻・まつの存在も重要ですが、本作ではあくまでも利家中心の物語です。作者は、無外流居合兵道の有段者。実際に戦う者の呼吸がひそんでいる文章は、深く静かに戦国武者たちを浮き彫りにします。
数多い戦国武将たちの中で、燻銀の輝きをもつ利家の筋の通った生き方に、背中を押される気分で読むことができます。
2002年のNHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語』の原作本といってもいいのでしょう。作者の竹山洋は『利家とまつ』の脚本を書くに際して、自作の小説に手を加えて書いたとしています。
「戦国最強のホームドラマ」と銘打って放映された『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』は、高視聴率を得て、「まつにお任せください」は流行語にもなりました。もちろん、本文中でもそのセリフは、要所要所で出てきます。
ドラマでは「戦国の女性の強さ」を描き出すことを主眼としていましたが、本書では前田利家の魅力も十分に描き出されています。
- 著者
- 竹山 洋
- 出版日
この作品の魅力は、なんといってもそのテンポのよさでしょう。会話から会話へ場面がどんどん動いていき、読者はそれを追いかけるように、安土桃山時代に引き込まれていきます。
冒頭、登場人物たちはまだ若く、例えば前田利家と豊臣秀吉もお互いに「犬(利家の幼名が犬千代)!」「猿!(豊臣秀吉がその容貌から「猿」とあだ名されていたこのは有名)」と呼び合い、家臣と主君といえども、遠慮なく物を言い合う戦国時代の雰囲気がよく伝わってきます。
利家とともに主人公である「まつ」が生き生きと描かれるのには、豊臣秀吉の正室「おね」(後の北政所)の存在が大きく影響しています。子だくさんな「まつ」を羨み、つい自分の夫の功績をひけらかしてしまう「おね」と、容姿はすぐれないのに要領よく出世する秀吉に対して、出世欲のない夫の尻をたたく「まつ」。
利家と秀吉が、腹を割って話せる親友であると同時に、絶対負けたくないライバルであるという裏表の存在として、「まつ」と「おね」があります。どちらの夫が天下を取るかという友との戦いが、最後までこの物語の大きな流れとなっています。
「加賀百万石と呼ばれた加賀藩前田家の藩祖利家は、慶長4(1599)年閏3月3日の朝早く死んだ」(『加賀前田家の処世術』その1より引用)
本作は、この一文から始まります。
自分の死期を悟った利家は「死後分配する遺品の目録」をつくらせ、また、金沢城内の土蔵や物置で保管している道具類の帳簿にも目を通し、一件一件判を押し、自分の死後、担当の役人に不正の疑いがかからないように処置をほどしました。
戦国武将たちは、合戦場ばかりが戦場ではありません。いや、戦場以外での身の処し方の方が、ずっと重要だったのだ、と作者は書いています。加賀百万石を守るために、代々の加賀藩の人々がどれほど心を砕いていたのかがよく分かる一冊です。
- 著者
- 童門 冬二
- 出版日
- 2011-12-20
作者である童門冬二は、戦後東京都庁に入都。以後、目黒区役所係官を振り出しに、各要職を歴任しました。都庁首脳としての激務の一方で執筆活動をし、1960年には『暗い川が手を叩く』で芥川賞候補となっています。
1979年に退職、それ以後、歴史小説を中心に勢力的に執筆活動をします。そして1983年の『上杉鷹山』は氏の代表作となりました。
徳川幕府は、旧織田家臣、旧豊臣家臣であった大名たちや石高の大きな外様大名たちを、巧妙に取り潰して、幕府の安泰を図りました。百万石という大きな国を維持するために、幕府に逆らうことのないように努力しなければなりませんで。本書は、前田利家だけではなく、その後の歴代の藩主たちが苦労して藩を維持している姿を通して、現代人にも通じる身の処し方を考えさせます。
都庁という、それこそ人が人を動かし、管理し、その組織がいかに力を発揮するかのという点に尽力してきた童門冬二にとっても、武将たちが悩み迷い、そして選択してきた姿に、自らの職務を重ねることがあったのかもしれません。
「夫婦学」と銘打ってはありますが、「夫婦」の人間関係などを述べるのではなく、戦国武将ナンバー2の座を占めていた前田利家の事績をたどる形になっています。
そしてその人生を左右するような時、妻まつの言動がどう影響していたか、また利家亡き後も、加賀百万石を守るために、彼女がどのように努めたのかが書かれています。
- 著者
- 上之郷 利昭
- 出版日
「利家とまつは戦国武将の夫婦としては相当特色があったといっていいだろう」と筆者は言っています。さらに、「秀吉の妻おねは、一昔前の男は外で仕事、女は家を守るというのが常識の時代には、糟糠(そうこう)の妻として、出世を願うサラリーマンの妻の鑑(かがみ)だった。」とも述べているのです。
その「おね」や戦国武将の妻たちと比べても、「まつ」は異彩を放つ存在でした。迷っている利家の背中を押す、あるときは叱咤激励もする、必要であれば自分が手紙を書き、自ら相手の場所へ出向いて話をします。だからこそ「二人で築いた加賀百万石」なのです。
また筆者は、「まつ」の生き方は、現代の特に女性たちが、共感や親近感を覚えるのではないかと述べています。
本書には利家とまつ以外にも、加賀百万石を守るために、一生懸命努力してきた代々の藩主たちについても述べられています。その人身掌握術も、財政管理も、現代に通じる学ぶべきところがある、というので「夫婦学」という題名になっているのでしょう。
戦国時代の女性としては、細川ガラシャ、お市の方や淀君など、名前の知られた方々がいましたが、前田利家の妻まつの存在は、一般にはあまり知られていませんでした。その点では、彼女を中心に取り上げた大河ドラマの影響は大きかったでしょう。
ドラマを見て少しでも興味を持った方、この記事を読んで気になることがあった方は、戦国を力いっぱい生き抜いていた利家の本をぜひ読んでみてください。