教養

小早川秀秋の関連本4選!関ヶ原の戦いで家康の東軍に寝返った秀吉の子

更新:2020.11.27 作成:2017.3.6

小早川秀秋といえば、誰もが関が原で裏切った人物という認識だと思います。しかし秀秋は本当に単なる気弱な裏切者だったのでしょうか。今回は秀秋に関するおすすめ本を4冊集めてみました。ぜひこの機会に秀秋の実像に迫ってみてくださいね。

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関ヶ原の戦いの勝敗を決定した小早川秀秋とは?

小早川秀秋は1582年、豊臣秀吉の正室寧々の兄である木下家定の5男として生まれました。1585年には秀吉の養子となり、寧々に育てられ羽柴秀俊と名乗っています。1589年には丹波亀山城10万石をもらい、丹波中納言と呼ばれるようになりました。秀吉と寧々に可愛がられ、豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承者とも見られていたようです。

1593年、秀吉に実子秀頼が生まれたため、小早川隆景の養子となります。この養子縁組により、小早川家は五大老の一角となりました。1595年に秀次に謀反の疑いがかかり、そのことに関連して秀秋も丹波亀山城を没収。しかし同じ年、小早川隆景が隠居したために筑前国30万7000石を引き継ぎました。

1597年には朝鮮出兵に参加。その際の任務は、城の普請でした。また蔚山城の戦いに参戦したとも言われていますが定かではありません。帰国後には、越前12万石へと転封されてしまいます。しかし秀吉の死後は家康の取り成しもあり、再び筑前30万7000石へと復帰しています。

1600年の関ヶ原の戦いの本戦では、松尾山に布陣しました。ずっと傍観し続ける秀秋に家康が問鉄砲を放ったとも言われていますが、確かな証拠はありません。その後、秀秋は家康に味方し、大谷吉嗣の陣へと攻め入ります。これにより西軍は総崩れとなり当日中には決着が付くこととなりました。秀秋がいつから離反することを決めていたかについては様々な説があります。

関が原東軍勝利の立役者となった秀秋は、その功労として岡山50万石に移封されました。しかし1602年には21歳という若さで亡くなってしまいます。その原因はアルコール依存症による内臓疾患という説が有力ですが、大谷吉嗣の祟りだという逸話も残っています。小早川秀秋は、関が原で寝返ったということ以外はあまり史料が残っておらず、不明なことも多い人物なのです。

関ヶ原の戦いのキーパーソン、小早川秀秋に関する7つの逸話

1:幼名は辰之助と名乗っていた

21年の生涯の間に辰之助→秀俊→秀秋→秀詮と4回名前が変わっています。元服時に秀俊を名乗り、小早川家に養子に入ってから秀秋に改名したようです。そして関ヶ原の戦いの後に秀詮と名を改めるのです。

2:身長は180cmと高かった?

靖国神社に収められた秀秋所用の甲冑が巨大な事から推定されます。ですが実は等身大と言われる秀秋の木像も残っており、こちらは150cmほどしかなく、どちらが正しいかは分かっていません。

3:秀秋の通称・金吾は秀秋の官職の中国名である

秀秋は秀吉の養子であった事から破格の出世を遂げました。その際の官職である「従三位 権中納言権左衛門督」の左衛門督(さえもんのかみ)は中国では執金吾(しっきんご)と呼ばれていたために「金吾中納言」と呼ばれるようになります。

4:本来は「毛利秀秋」になるはずだった

中国地方の大名・毛利輝元には跡継ぎの男子がいませんでした。そこで実子が誕生したばかりの秀吉は養子の秀秋を毛利宗家の養子にと動き出します。

そこで待ったを掛けたのが輝元の叔父の小早川隆景でした。毛利宗家に関白秀吉の養子を迎えれば毛利が乗っ取られると考えた隆景は逆に「殿下の子を小早川の跡継ぎに」と願い出て聞き入れられました。

そうして「小早川秀秋」が誕生したのです。

5:関ヶ原の戦いの際の小早川家の旗印は後世の創作だった

白地に黒の違い鎌の旗印は関ヶ原合戦屏風では知られていますが、実は現物は無く、文書による裏づけもない事から後世の創作と考えられているようです。

ならばこの旗印のモチーフはと言うと秀秋所有の陣羽織に違い鎌の家紋が背中にあしらわれている事から、これを旗印として創作されたようです。

ちなみに小早川家の旗印は本来「左三つ巴」です。

6:秀秋は大谷吉継に呪い殺された説がある

秀秋は関ヶ原合戦から2年後の1602年に21歳の短い生涯を終えます。死因はアルコール依存症による酒の飲み過ぎとの事ですが、吉継に呪い殺されたとの話があるのです。

それは、関ヶ原にて予測していたとはいえ秀秋に裏切られ大谷隊が壊滅し、自害する際に吉継が従者に「人面獣心なり。(人間の顔をしているが心は獣)三年のうちにたたりをなさん!」と秀秋の陣の方に向かって自刃し怨嗟に満ちた最後を遂げます。

これは秀秋が3年以内に亡くなったこと、また関ヶ原から亡くなるまでの2年間が苦渋にまみれたものであったことから祟り話もあながち嘘ではないのかも知れません。

7:秀秋の肖像画は死後に描かれた

肖像画の秀秋は武将と言うよりは公家のような柔和な雰囲気を醸し出しています。

これは秀秋の冥福を祈って秀吉の正室でかつての養母であった北政所が描かせたそうです。

史実から、小早川秀秋の実像に迫る

数少ない史料を丁寧に研究し、小早川秀秋に関する史実を書き起こした本書。100ページ足らずの短い文章の中に、秀秋の生涯がぎっしりと詰まっています。秀秋が一番注目された関ヶ原の戦いの真相は何だったのか、その時の秀秋の気持ちはどんなものだったのか、といったことに迫っていきます。
著者
黒田基樹
出版日
2017-02-04
豊臣秀吉の親戚として大きな期待を受け、秀吉の養子となった秀秋は、たくさんの愛情を受けていました。領国では善政を行っています。この時代のことは、なかなか他の書籍では書かれることもないので、秀秋の人柄に触れることができますよ。しかし酒に溺れ、秀吉に諫められることもあったようです。

そんな秀吉に実子が生まれてからは、秀秋は小早川隆景の養子となりました。秀吉の子であったということが、どれほどの重圧だったのでしょうか。本書では、朝鮮出兵から秀吉との食い違いが多くなっていったといった、秀秋と秀吉の心が分かれていく様子も読み取れます。

また裏切者としての印象が強い秀秋を、史実に則って冷静に分析している点も本書の面白いところ。秀秋は考えた上で西軍に付いたということだけのことだったのですが、秀吉の養子であったからこそ、裏切者というレッテルを貼られてしまったのでしょうね。

簡潔にまとめられているので秀秋を知る最初の1冊にぴったりですよ。

聡明な秀秋が浮かび上がってくる物語

裏切り者、小心者として語られることの多い小早川秀秋。しかし本当にそうだったのでしょうか。もしかしたらその性格は、徳川によって後から作られたものかもしれません。『我が名は秀秋』では、秀秋は聡明な人物であり、それゆえに徳川からも結局は抹殺されてしまったという物語が描き出されていきます。

秀俊(後の秀秋)は、実の父親、豊臣秀吉、小早川隆景という3人の父親を持ちます。そして隆景という立派な人物のもとで、本当の家族の愛情を知り育っていくのです。そんな秀俊が義兄として慕っていた人物が、豊臣秀次でした。しかし秀次は謀反の疑いをかけられ、結局亡くなってしまいます。ここから秀俊の中で秀吉を恨む気持ちが芽生えてきました。関ヶ原の戦いの真実、そして秀秋の行動の理由はどこにあるのでしょうか。
著者
矢野 隆
出版日
2015-10-01
小早川秀秋については、関ケ原で裏切った人物という印象が強く、それまでの人生について考えたことがない人も多いかもしれません。しかし本書では、秀秋が小早川隆景に出会い才能を開化させていく姿が読み取れます。

きちんとした考えがあったからこそ、秀秋は関ケ原では始めから徳川に味方することにしており、陣も三成の邪魔になるような所に構えたのです。戦況をしっかりと見極めながら、ここぞという場面でタイミングよく西軍を攻撃し、徳川軍を勝利に導いた秀秋。本書では、そんな才知に長けた秀秋を見ることができるでしょう。

また本作では、家族というものについても考えさせられます。家族とは血の繋がりよりも、過ごした時間よりも、その質の高さが重要だということ……。隆景と秀秋の関係は、理想の親子の姿といえるでしょう。小早川秀秋の実像について、新たな認識を持てるようになる作品です。

関ヶ原の真実とは?

現在多くの人が認識している関ヶ原の合戦は、江戸時代に作られたものであり真実は別にある、ということを検証する『新解釈 関ケ原合戦の真実』。歴史は勝者によって作られます。つまり徳川に良いように歴史が塗り替えられているというのです。一次資料を丁寧に調査し、本当の関が原合戦について考えていきます。
著者
白峰 旬
出版日
2014-10-10
まず定説を覆すことは、小早川秀秋は開戦直後に東軍に味方し、そのため関ヶ原の合戦はあっという間に終わってしまったということです。ぐずぐずと迷っていた秀秋に家康が問鉄砲を放ったということが伝えられていますが、開戦時には裏切っていたわけですから、その話もフィクションなのでしょう。問鉄砲の話は、関が原より80年ほど後の史料にしか出てこないそうです。

本書では小山評定もなかったなど驚きの解釈が次々に提示されていきます。どこまでが真実なのか、史料の信憑性についてははっきりとはわかりませんが、今まで信じてきたことに対して新たな視点を与えてくれることでしょう。

見捨てられ続けた小早川秀秋の人生とは?

小早川秀秋の生涯を詳しく学べる『小早川金吾秀秋』。幼年期から周りの人に見捨てられるという波乱の人生が描かれます。関ケ原では裏切ったのではなく、始めから秀吉に復讐するつもりだった……。なぜ秀秋は、養父である秀吉に対して復讐心を持つようになってしまったのでしょうか。
著者
江竜 喜信
出版日
秀秋の人生は、秀吉、家康といった実力者たちに、いいように使われ捨てられるという悲しい出来事の連続です。特に慶長の乱での秀吉による扱いは酷く、読んでいるこちらも辛くなってしまうほどです。まだまだ幼い16歳の秀秋にとって、初陣が朝鮮出兵の総大将というのはどれだけのプレッシャーがあったことでしょうか。そして立派に成し遂げたつもりでも評価されない虚しさには心が痛みます。

あまり描かれることのない秀秋の活躍を見ることができる本書を読めば、秀秋を単なる裏切者としては語れなくなることでしょう。実は才を秘めていたにも関わらず、正当に評価されることのなかった秀秋が起こした関ヶ原での行動。その心は誰にも分かりませんが、1つの真実がここにあるといえます。

小早川秀秋について知ることができたでしょうか。単なる裏切者ではない秀秋は、実は聡明な若者であったのかもしれませんね。ぜひいろいろな本に触れ、歴史を見る目を養ってみてくださいね。