秀吉の側近、石田三成についての歴史本おすすめ5冊

更新:2021.12.17

石田三成は、秀吉の側近として、あるいは関ヶ原の戦いで負けた西軍を率いた人物として知られていますが、その人となりはどうだったのでしょうか。今回は、三成に関するおすすめの本5冊をご紹介して、その素顔に迫っていきます。

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知略に長け、人を支え続けた武士、石田三成とは

多くの人が石田三成に抱いているイメージは、人望がない、クール、武将というよりは事務方……といったものではないでしょうか。プラスのイメージの少なかった三成ですが、ファンの間では人気急上昇中ということなのです。

桶狭間の戦いのあった1560年、近江国の石田村(滋賀県長浜市石田町)で、学問の素養もあった石田正継の次男として生まれた三成は、幼い頃から利発で聡明な子どもでした。寺の小僧をしていた14歳の頃に秀吉と出会ったという説が有力です。山に入って鷹狩りをしていた秀吉が一服しようと寺を訪れた際のこと。その寺の小僧だった佐吉(のちの三成)は茶を求められます。そのときに、秀吉の状態を見てそれぞれに最適な温度と量の茶を1杯ずつ、3回持ってきたのです。秀吉は、相手の様子を見て気働きのできる佐吉に感心し、すぐに自分の家来としたといいます。この話は「三献の茶」という逸話として後々語り伝えられました。

少年だった三成は、中国地方征伐に従軍し、賤ヶ岳の戦いでは偵察隊として活躍し、20代前半には既に秀吉の側近として力をつけていきます。そして26歳の時には、名高い名将だった島左近を破格な禄高で自分の右腕として召し抱えるようになりました。秀吉の家臣としては、動乱期には戦術に長けた竹中半兵衛、黒田官兵衛の両兵衛が有名ですが、天下を取ってからの治政期には、三成が常に秀吉のそばで支えたのです。

戦場よりは主に政治面で豊臣政権の中心となって働いた三成でしたが、秀吉の死後に起こした関ヶ原の戦いで家康に敗れて刑死してからは、江戸時代の長きにわたって悪者のレッテルを貼られ続けてきました。いつの世でもまかり通る戦勝者の正義でそうなってしまいましたが、正義感に篤く、民衆を大切にした武将でもあったことがわかっています。

石田三成についてあなたが知らない7つの逸話

1:身長は156センチだった

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は、京都で処刑後に京都大徳寺三玄院に葬られていました。1907年に改葬される時に発掘され、研究された時に、身長は156センチ程度で骨格は細く、華奢な女性のような体格だったと発表されました。戦国武将の力強いイメージとはかけ離れているようです。

2:真田幸村の父親である真田昌幸とは縁戚関係にあった

三成の妻は、元々豊臣秀吉にに仕え、のちに三成の家臣となった尾藤二郎三郎の娘です。三成にとって義理の父親にあたる尾藤二郎三郎は、後に宇多頼忠と名乗ります。真田昌幸の娘は、尾藤二郎三郎の甥と結婚したとされています。直接の血縁関係ではありませんが、親戚関係にあります。

3:徳川家康の孫である水戸黄門は、石田三成を高く評価している

徳川家康の伝記が書かれるようになると、三成の評価は下げられ、悪者とされました。江戸幕府の創始者である徳川家康を持ち上げるためには、徳川家康が倒した豊臣秀吉を悪者にするのが一番ですが、関西では圧倒的な人気があるので、それはできません。だからこそ、豊臣秀吉の家臣である三成と、豊臣秀頼の母親である淀殿が悪者にされました。

しかし、水戸黄門は「石田三成は豊臣の家来として主君に忠義を尽くした忠臣である。徳川の敵だからと言って憎むべきではない」と高く評価していたとされています。

4:佐和山城主になった三成は、領主として村人の心をつかんでいた

一般的に冷たく、官僚的なイメージの強い三成ですが、佐和山城下の「石田三成村掟条々」には違った一面が見られます。掟を農民でも読めるように仮名書きにしたり、取次役などの役人を通さずに直訴をできるようにしたりしました。農民にとっては人情味のある、良い領主だったと考えられます。

5:三成の戦下手を決定付けたのは、忍城攻めの失敗

1590年に豊臣秀吉の命を受けた三成は、佐竹一統と共に武蔵国、忍城攻めに向かいました。北条攻めの終盤に差し掛かり、北条方の拠点は小田原城、忍城などを残すのみとなり、それ以外は豊臣秀吉に降伏していました。

三成は戦い以外の業務を担当しており、戦に直接指示を出す立場ではありませんでした。彼は水攻めを発案しますが、水位が上がらず、失敗します。小田原城の明け渡しの11日後の7月16日、ようやく明け渡しとなります。大将でもなく、ただの目付け役にも関わらず、この失敗が結果的に「石田三成は戦が下手」のイメージを作ってしまいました。

6:豊臣秀吉に九州の大名にすると言われたが、断ってしまった

豊臣秀吉がなくなる3ヶ月程前、1598年5月22日の家臣にあてた文書「宇津木文書」に、「筑後、筑前両国を与え、九州の物主にしてやる」と言われたが、「私の代わりに佐和山城主になる適任者も、秀吉殿の御用を務められる人も少ないので、このまま殿のそばに残る」と言って断ってしまったと書かれています。

三成は、自分の出世よりも豊臣の家臣として生きる方が大事だと考えていました。

7:石田三成の旗印である「大一大万大吉」は、石田氏の先祖の石田為久が使っていたものである

石田為久は、1184年に木曽義仲を討ち取り、鎌倉幕府創業に功績のあった相模の三浦氏の一族です。相模国大住郡石田(神奈川県伊勢原市)に住み、石田姓を称しました。石田為久は、三成の9代前と言われています。

「大一大万大吉」は、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になれる」という意味です。
 

死を前にした石田三成の思いを描く

関ヶ原の合戦で敗退し、囚われの身となった三成が、その刑が執行されるまでの間に人生を遡り、わが来し方に思いを馳せるという形で書き進められた本小説。死を前にしたところから始まるという点は、まさに切腹をしている最中の主人公の心の中を描いた浅田次郎作『壬生義士伝』を彷彿とさせる名シーン。捕えられて、大津城の門前に身を晒された三成の横を通っていく武将たちの態度はそれぞれの性格が表れていて、印象的な場面となっています。加藤清正、福島正則、黒田長政……。もとはみな豊臣方だった彼らは、三成に対してどのような行動をとるのでしょうか?

著者
童門 冬二
出版日


小説とはなっていますが、歴史的なエピソードを紹介する内容が多く、また、平易な文章でわかりやすく説明されているので、楽しみながら日本史の知識を増やしたいという学生にぴったりの本だと思います。

秀吉に仕えた三成ですが、この作品では、人生の折々に信長の行った政策に気持ちを寄せる三成の姿も描かれ、新鮮な驚きを感じました。またオープニングとともに、エンディングもしゃれた趣向で読者の興味を引きつけます。命を終えた瞬間に、三成の脳裏に浮かんだ人は、誰だったのでしょう。

ザ・関ヶ原!江戸版ルポルタージュ

関ヶ原の戦いから30年を経て、さる筋から頼まれたという素性のわからない男が、関ヶ原の戦いに関わった人を訪ね歩いてインタビューし、それらをまとめたルポという形をとった小説『三成の不思議なる条々』。最後までスピード感を持って読み進めることができますよ。

黒田長政、福島正則、前田家、宇喜多家、小早川家など、かの戦いに関係したそうそうたる面々の家臣や浪人、はては少年時代の三成を知る尼さんまで、日本全国を歩き回って聞いているので、それぞれの方言がリアリティを出しています。また、仕えている主人が違えばこんなに見方が違うのかという新鮮な驚きも感じさせられるでしょう。

著者
岩井 三四二
出版日
2015-01-16


依頼を受けた時点ではみんな断るのに、報酬をちらつかされると態度は一変、雄弁に語り出すのです。この姿が人間くさく滑稽で、いつの時代も変わらない、人間のおかしさを描いており、少し笑えてきます。一体インタビュアーは誰なんだろう、この密命を与えたのは誰なんだろう?と興味津々で読み進めることができます。密命を与えた人物については明らかになりますが、密命を受けたインタビュアーについては謎のまま。当時、仮名草紙でも書いていた文化人を想定して読んでみると楽しいでしょう。

本書を読めば、戦勝者の正義の法則で、亡くなってからずっと歴史の中でマイナスのイメージを持って語られてきた三成も単なる嫌われ者だっただけではないことがわかります。この本の最後には、本書の編纂目的が明かされます。それがわかった時には感動で胸がいっぱいになること間違いなしです。

三成悪人説はもう古い!清廉な石田三成の姿

さまざまな調査をベースとして、江戸時代以来ささやかれてきた「三成悪人説」が出来上がった背景をあぶり出し、あらゆる角度からわかる、本当の三成の姿をまとめた本作。

たとえば、急死事件で毒を盛ったとされる三成は、実は事件当時、朝鮮におり、関わることが不可能だったこと。また三成が関わったとされた、秀吉の甥である関白の秀次が高野山にて切腹させられ、妻妾、子どもなど30数名が殺された事件について。これは、老齢になり、自分の血を引く秀頼を後継者としたい一心の秀吉による異常な暴走にほかならず、この時にむしろ三成は、事態を解決するために奔走したといいます。その恩を忘れなかった関係者は、関ヶ原の戦いでことごとく三成側につき、戦死したという事実も本書によって明らかにされているのです。

さらに、千利休の切腹など、江戸期に出された書物の中で三成が黒幕だったとされる事件についても、その後の関係者の動きから実際の首謀者もわかっており、筆者は、豊臣政権のダーティーな部分がすべて三成に押し付けられたとしているのです。

著者
三池 純正
出版日
2009-06-10


滋賀県彦根市にはかつて、三成が城主を務めていた「佐和山城」があったとされています。残っている歌から豪華絢爛な城だったことがわかりますが、不思議なことに城があったというわずかな痕跡もなく、抹殺されているのです。三成の実家である石田家も、一族の墓も残らず全て消滅。切ない思いに駆られますが、この1点から見ても、三成の生きた証を歴史上から無くすことで、豊臣政権の記憶を人々から消してしまいたいという家康や、元は豊臣の家臣でありながら家康側についた者たちの自己保身が見受けられるでしょう。

さらには関ヶ原の戦いを前にして、三成が起草した『内府違いの条々』では、秀頼擁護の立場を口にしながらも、着々と自分が天下をとるために豊臣家を欺いていた家康の言動を13箇条にわたって糾弾しています。このようなことから三成こそがありもしない謀略をでっちあげているのだ、と世の中に思わせたい者が多かったのだと推測されているのです。

それほどまでに後の世に悪く伝えられた三成でしたが、残された文献から、本当の三成の姿がわかるエピソードがこの本には書かれています。沢庵和尚との交流や大谷吉継との友情、そして自らは質素な暮らしをしながら領民たちを大切にしてきた三成……。本書の最後では、三成を誇りに思ってきた石田村の領民たちの、ある行動がわかり、感動を覚えました。三成の本当の姿が知りたい方は、本書を読むと気持ちが満たされることでしょう。

政治家としての視点からとらえた石田三成

「忠臣としての三成」というよりは、三成の政治家としての能力に焦点を当てた『近江が生んだ知将 石田三成』。作者は、残された史料や史跡を検証したうえで、三成とその父と兄が果たしてきた仕事を丁寧に紹介しています。

太閤検地や兵農分離など秀吉の行った政策は、戦国の世を終わらせて政治・経済的に成熟した社会を作るために必要な構造改革でした。そしてそれぞれの政策において秀吉の考えた方法を各大名に伝える「取次」という重要な役目を担っていた人物が三成だったのです。

著者
太田 浩司
出版日


秀吉による薩摩、島津家攻めの際のパイプ役、戦火で荒廃した博多の復興に陣頭指揮を執って活躍したこと、奥羽での刀狩、検地……など日本全国を飛び回ってその手腕を発揮した三成の政治的、外交的に優れた面が描き出されていきます。巻末には三成の年表もついているので、41年という短い人生の中で三成がどれほどの仕事を成し遂げてきたのかが一目瞭然でわかりますよ。

また読後には、戦国時代をただ動乱の時代だと認識してきたことが間違いであったことがわかりました。戦乱の世を終わらせて日本が1つの中央集権国家として生まれ変わるために通らなければならなかった道を開いたのが秀吉。そこで三成が行った改革こそが、実は270年にわたって続いた江戸幕府の社会体制につながっていったのです。

関ヶ原の戦いで両者が和睦を結んでいたとしたら、家康と三成の知恵で、さらに国として成熟した江戸時代となっていたかもしれません。

歴史小説の王道!読めば関ヶ原の戦いをもっと知りたくなる

石田三成が佐吉という名であった少年時代から物語は始まり、信長の家臣で後に天下人となる秀吉に仕え、その能力をいかんなく発揮した時代へ。そして秀吉の死後、関ヶ原の戦いへと動いていく情勢や、家康の野望をはじめとして個性ある武将たちが持っていたそれぞれの思惑が丹念に書き上げられた大長編『関ヶ原』。関ヶ原の戦いそのものは、半日ほどで決着がついたといわれていますが、そこに至るまでの長きにわたる諸武将の動きが生き生きとした筆致で綴られており、作品の中に入り込んでしまうことでしょう。

著者
司馬 遼太郎
出版日
1974-06-24


中でも興味深いのは、三成とその家臣、島左近との関係です。秀吉から、家来を持つようにと言われた三成が、自分の石高の半分という破格の石高を与えて家臣にした人物が、島左近でした。言いたいことを歯に衣着せずに言う左近を、三成がうんうんと静かに聞くという師弟関係。三成の精神の安定には、左近の存在は必要不可欠であったことを感じられるでしょう。そんな左近は、生涯のうちに何度も仕える家を変えましたが、石田三成に仕えてからは、三成にとって信用のおける、頼りがいのある老家臣としてあらゆる面から三成を支えたのです。

また関ヶ原の戦いは、作品によって、どちらが仕掛けたのかはわかれるところ。本作では、三成が旗揚げして挑んでくるように仕向けた家康が虎視眈々と、三成そして豊臣家の滅亡を狙っているように書かれています。「義」を重んじる者は三成に、「利」を重んじる者は家康についたのだというように書かれているのです。

秀吉、家康、三成や、政治の中枢にいた大老、奉行はもちろん、東北、中国、四国、九州など、地方を治めていた藩主たちの胸の中をも鮮やかに描き出す本作を読むと、登場人物についてより詳しく知りたくなってきますよ。

石田三成についての本を、5冊ご紹介しました。この5作品を読めば、三成は利害ではなく、自分の信じる正義感や道徳感に基づいて行動した人、当時としては稀にみる構造改革をやってのけた人、まわりに惑わされることなく最後までぶれなかった人、という今までのイメージとは異なる人物像が見えてくるでしょう。歴史上のひとりの人物について複数の本を読んでみるのも、楽しいものですよ。

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