今こそ、ミシェル・フーコーを読みたい!代表的な著作から哲学を紹介

更新:2021.12.17

ポストモダンを代表する哲学者の一人、ミシェル・フーコー。彼の思想は、哲学はもちろん、政治や福祉、芸術など様々な場面で今なお参照されています。現代にも通用する思想としてその輝きを失わないフーコーの哲学を、その著作からご紹介します。

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フーコー哲学の背景

ポール=ミシェル・フーコーは、1926年にフランスの大都市ポワティエの有名な医者一族の長男として誕生しました。20歳の時、医学部を勧める父親の反対を押し切り、文学の道を志してパリの高等師範学校に進学します。そこでヘーゲルやマルクスの影響を受け、自身の哲学を出発させるのです。

卒業後、パリの聖アンヌ病院という精神病院で研修員となるのですが、この時の経験から精神医学や心理学に疑いを持つようになります。この疑いは〈狂気〉というものを精神医学や心理学の問題ではなく、文化的・社会的な問題として捉えようとする後のフーコーの姿勢を方向付けるものとなるのです。〈狂気〉は初期フーコー哲学の核をなす問題であり、『精神疾患とパーソナリティ』や『狂気の歴史』といった著作が発表されています。

その後、いくつかの大学での勤務を歴任し、1970年にフランス最高峰の大学であるコレージュ・ド・フランスの教授となります。大学で教鞭をとりながら、ベストセラーとなった『言葉と物-人文科学の考古学』や、代表作とも言われる『監獄の誕生-監視と処罰』、『性の歴史』などフーコー哲学の代名詞とも言える〈権力〉や〈性〉の問題を考察した著作を数多く発表しました。

私たちの生きる社会を、その成り立ちや構造から解明することを試みたフーコーの思想は、現代でも様々な場面で応用されています。
 

権力とは何か?『監獄の誕生-監視と処罰』

フーコーはしばしば構造主義の哲学者の一人とされますが(もっともフーコー自身は構造主義者と呼ばれることを嫌っていたそうですが)、それは彼の哲学が私たちの世界を成り立たせている様々な枠組み(=構造)を分析することを通して世界を理解しようとする思想であると、一般には考えられているからでしょう。

フーコーは、世界を成り立たせる枠組みの中でも特に〈権力〉に注目しました。〈権力〉について記された代表的な著作が『監獄の誕生-監視と処罰』(以下『監獄の誕生』)です。
 

著者
ミシェル・フーコー
出版日

1975年に発表された『監獄の誕生』では、近代社会における〈権力〉がどのように機能しているか、身体への調教によって私という主体がどのように構築されていくか、といったことが考察されています。

フーコーは近代の権力のモデルとして「パノプティコン(一望監視装置)」を挙げます。パノプティコンとは、囚人を見張る監視塔を中心として円環状に囚人を収監する建物を配置した監獄のことです。監視塔からは全ての建物を見張ることができますが、囚人からは監視する者の姿を見ることはできません。

このことによって、たとえ監視塔に誰も居なかったとしても、常に監視されているかもしれないと囚人に思わせることができます。「監視されているかもしれない」と考えることで、囚人は自らの心の中に監視するものを作り出すことになります。つまり、囚人は自分で自分を監視しているのです。

これこそが、近代の権力の特徴であるとフーコーは言います。近代における権力とは、私たちの外側から私たちを縛るものではなく、私たちの心の内側から自らを監視し規定するものなのです。

このような権力の構造は監獄に限らず、病院や学校など私たちの生活の場でも成立しています。私たちは〈権力〉というと国家や権力者のような強制力を持った外部の存在をイメージしがちですが、フーコーに言わせれば、もっと幅広い場面で私たちの生活、ひいては私という主体そのものを形作っているものが〈権力〉なのです。

ですから、フーコーが問題とした私たちの内側から働きかける〈権力〉について意識することは、私たちの生活を支える医療や労働、教育といった様々な社会システムを考える良いヒントを与えてくれるでしょう。
 

真理はいかに真理となるか?『言葉と物』

フーコーは『監獄の誕生』で、権力とはいつの時代でも変わることのない普遍的なものではなく、時代や社会によってその在り方は異なることを明らかにしました。このことは権力だけではなく、私たちの〈世界を認識する仕方〉においても同様である、とフーコーは言います。

『監獄の誕生』が出版される9年前の1966年に出版され、ベストセラーとなった『言葉と物-人文科学の考古学』(以下『言葉と物』)においてフーコーは、人間が世界をどのように認識してきたかの変容を辿り、世界の認識の仕方は普遍的なものではなく、ある時代、ある地域に固有の枠組みによって変化することを明らかにしました。
 

著者
ミシェル・フーコー
出版日
1974-06-07

この枠組みをフーコーは「エピステーメー(知の枠組み)」と呼び、すべての学問はその枠組みによって規定されていると考えます。エピステーメーは人が物を考えるときのいわばスタイルのようなものです。

フーコーは、ルネッサンス期(16世紀末まで)、古典主義期(17世紀中期から)、近代(19世紀以降)の3つの段階における西洋社会のエピステーメーを比較・分析しました。

これら3つの時代のエピステーメーはそれぞれ

・物と物の間の類似性を見出す(=ルネッサンス期のエピステーメー)
・あらゆるものを単純な記号で表す(=古典主義期のエピステーメー)
・あるものの有機的な機能や仕組みを解明する(=近代のエピステーメー)

と特徴付けられます。

重要なのは、ある学問や物の認識が時代を通じて直線的に発展してきたのではなく、時代ごとに固有のスタイルがありそれぞれが断絶しているということです。フーコーは『言葉と物』の結びで、人間という存在の理解についてすらも将来的には無効となるだろうと述べています。

世界を認識する方法が時代や場所によって変化する以上、現在私たちが当然のものと考えている真理もまた時代や場所によって異なるということになります。

それでは真理とは一体なんなのでしょうか。フーコーは、真理とはある時代の権力によって要請されたものなのではないか?と考えるようになります。このような真理についての洞察が、権力について考察した『監獄の誕生』へと繋がっていくのです。
 

私は何を見てる?『これはパイプではない』

『言葉と物』は出版当初、難解な哲学書にも関わらず大ベストセラーとなりました。ビーチやカフェで『言葉と物』を傍らに携えることがとてもクールなふるまいだったそうです。現在でもフーコーの思想を理解しようと、多くのフーコー入門者が手に取る一冊だと思います。

しかし、この著作はその平易なタイトルとは裏腹にやとても難解な一冊なのです。そこで、この『言葉と物』の理解を助ける一冊として、『これはパイプではない』という本をご紹介します。

1973年に出版された『これはパイプではない』は、ベルギーの画家ルネ・マグリットの《イメージの裏切り》という絵画作品をテーマに論じた著作です。

著者
ミシェル・フーコー
出版日

《イメージの裏切り》は、パイプの絵の下に「これはパイプではない」という一文が記された絵画です。描かれたパイプはあくまでパイプのイメージ(絵)でしかなく、パイプそのものではありません。ですからどれほど精巧に描かれたパイプであっても、「それはパイプではない」のです。

フーコーはこのマグリットの作品に、西洋絵画史の伝統的な2つの原理を解体する可能性が秘められていると指摘しました。西洋絵画には「言葉と造形的な要素(=イメージ)を分離する原理」、そして「類似と肯定との等価性を定立する原理」という2つの原理があります。

簡単に言えば、第1の原理は、絵画において描かれるものは全て何かの表象(=イメージ)であり、絵画に〈言語〉が描かれることはないということです。

また、第2の原理は、描かれた図像が何か(マグリットの絵で言えばパイプ)に似ている(=類似)という事実と、その図像がパイプであると肯定することは等価であり、切り離すことができないという原理のことを言います。つまり、パイプの絵が「これはパイプではない」ということを示すことはできないのです。

マグリットはこの2つの原理を逆手に取ることで、パイプの絵を描きながら、それはあくまで絵に過ぎずパイプそのものではないということを示しました。

本著はこのマグリットの絵画の分析から、西洋において物事を指し示す(=表象する)枠組みの分析へと進んでいきます。このように、私たちが物事を認識するためのシステムを分析するという手法は『言葉と物』にも通じるものです。

また本著は絵画という身近な事例に沿って執筆されているため、書かれている事柄を具体的にイメージしながら読むことができる一冊となっています。
 

私たちは日々様々な制度や慣習や思想の中で生きています。私たちはこれらの〈枠組み〉と無関係ではいられません。

私たちの日常を形成する様々な〈枠組み〉について考察したフーコーの哲学は実はとても身近な哲学なのです。

現代は、民族や宗教そして性の問題、あるいは教育や労働の問題など、フーコーが生きた時代よりもさらに複雑な時代を迎えています。そんな今だからこそ、フーコーは読まれるべき哲学者なのかもしれません。

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