仕える主君を何度も変えたことから、「風見鶏」や「世渡り上手」などあまり良くないイメージもある藤堂高虎。しかし、本当にそうなのでしょうか。波乱の戦国時代を勝ち残っていったのには、それなりの理由があるはずです。この記事では、そんな彼の生涯や、建築・改修に関わった城、名言や知っておくべき逸話、さらにおすすめの関連本もあわせてご紹介していきます。
仕える主を何度も変えたことと、宇和島城・今治城・伊賀上野城・篠山城などを築き、技術に優れた築城の名人としても知られている藤堂高虎。徳川家に仕えていた際は、江戸城の改築にも参加しました。
身長は190センチを超える大男で、茶の湯や能楽も好んでいた文化人でもあったようです。
ではまず彼がどんな生涯を送ったのか、ご紹介していきましょう。
1556年、近江の土豪だった藤堂虎高(とうどうとらたか)の次男として生まれた高虎。若いころは足軽として浅井長政に仕え、長政が亡くなると織田信長の甥である信澄(のぶずみ)に仕えます。しかし長続きせず1576年からは豊臣秀吉の弟である秀長に仕えることになりました。
ここで高虎は「賤ヶ岳の戦い(しずがだけのたたかい)」などに参加し、手柄をたてて戦功をあげました。また猿岡山城と和歌山城を築城し、1万石の大名となっています。
1586年には徳川家康の屋敷を作り、1587年には九州征伐に参加。そしてその功績で2万石に加増されました。
1591年に秀長が亡くなった後は、その甥である豊臣秀保に仕えましたが、彼も早世したので、高野山にて隠居することにします。しかし高虎の才を惜しんだ秀吉に召喚され、伊予国板島(現宇和島市)7万石の大名となりました。
1597年に起きた「慶長の役」では水軍を率いて戦い、武功を上げた高虎は帰国後、8万石となっています。
1598年、秀吉が病に伏せるようになると、家康に接近。1600年の「関ヶ原の戦い」では東軍につき、大谷吉継隊と死闘をくり広げました。また毛利輝元が起こした一揆の鎮圧や、西軍の大名たちを東軍へ寝返らせる調略をしたことなどの軍功により、家康から今治城12万石を授けられ、20万石となります。外様大名ながら家康から重用され、「大阪冬の陣・夏の陣」でも活躍しました。
1616年の家康の死に立ち会うことも許され、没後は彼の息子で2代将軍の秀忠に仕えました。秀忠の娘が入内する際には露払いを務めています。
1623年ごろから眼病を患い、1630年に失明、同年亡くなっています。74歳でした。
築城の名人として知られる高虎が関わった城の一部をご紹介します。
このように藤堂高虎は非常に多くの築城に参加してきました。「縄張り」と呼ばれる基本設計も複雑だったようです。
特に宇和島城の「縄張り」は江戸時代の幕府隠密の四国探索の報告書である「讃岐伊予土佐阿波探索書」のなかで構造が誤って表記されており、幕府隠密も構造を見抜けないほどでした。
1:初陣は15歳のときだった
父の虎高は浅井長政の配下の武将でした。戦略結婚を目論んでいた織田信長と浅井長政が対立することになり、1570年に「姉川の戦い」が起こります。当時15歳だった高虎は、長政に従って初陣として出陣し、敵将の首をとり、その活躍を主君の長政から評されたそうです。
2:影武者が何十人もいたと言われている
高虎は生涯に何十人もの影武者をつかって危機を乗り越えてきました。そのうちのひとりである戸田という武将は、高虎に従って九州征伐に向かい、そこで敵将の島津家久の軍勢によって討ち取られてしまいました。
ほかにも多数の死傷者を出したものの、最終的には藤堂軍が島津軍を撃退しています。
3:家紋は「蔦」の模様
高虎は家紋に「蔦」を使用しています。「蔦」は植物としての強い生命力が縁起良いとされ、また形の美しさや地を「つた」わって根付くことから子孫繁栄のめでたい印ということもあって、日本十大紋のひとつとして多くの武将たちの家紋となりました。
藤堂家の蔦紋は「藤堂蔦」と呼ばれ、豊臣秀吉に仕えていたころに豊臣家の家紋の「桐」を授かりましたが、主君と一緒では恐れ多いということで「桐」に似た「蔦」に変えた、という説もあります。
4:藤堂高虎が厚遇した武将のせいで重臣が戦死してしまった
「関ヶ原の戦い」の際、家康側についていた高虎は、敵方の武将で忠誠心あふれる態度をとっていた渡辺勘兵衛という人物を、破格の厚遇で登用しました。しかし家康と豊臣一族の争いが激化して「大阪の陣」が起こると、勘兵衛が高虎の命令を無視してしまいます。
その勘兵衛の指示を受けて戦いを続けさせられた藤堂家の重臣6名が討ち死にしてしまいました。高虎は、その時亡くなった6人を常光寺に手厚く葬ったそうです。
5:大阪夏の陣で800人あまりの「首実検」をおこなった
高虎は常光寺の廊下に討ち取った800人ほどの敵将の首を並べ、「首実検」をおこないました。「首実検」とは、その首を討ちとったと主張する人物に、相手の氏名や戦いの経緯などを申告させ、戦功として承認する作業のことです。
この時使用された廊下の床板は、「踏みつけるのはよくない」として、後に天井の板として使用されるようになり、「血天井」と呼ばれています。
6:家康のひと言で改宗した
徳川家康の臨終間際に呼ばれた高虎は、家康から「死後も傍らで助けてもらいたいが、宗旨が違うからあの世は別々になるのが心残りだ」と言われたそう。
家康は天台宗、高虎は日蓮宗でしたが、この言葉を聞いた彼はすぐに別室の南光坊天海僧正のもとに赴き、改宗したといいます。
7:何度も主君を変えた負のイメージが幕末まで続いた
高虎が主君をころころと変えた経験を「変節漢」「不義理者」と見る向きもあります。
江戸幕末期、旧江戸幕府軍と新政府軍の最初の争いである「鳥羽・伏見の戦い」において、藤堂藩が幕府側から新政府側に寝返ったときに「藩祖のごとく主を変える」と揶揄されました。
8:早寝早起きも遺言にした
高虎が亡くなる前に息子に残したもののひとつに、「油断禁物」や「時間厳守」、「早寝早起き」などが書かれた21カ条の遺訓がありました。死後は日光東照宮の家康の脇に高虎の像が置かれています。
「案が一つしか無ければ、秀忠様がそれに賛成した場合私に従ったことになる。しかし二つ出しておけば、どちらかへの決定は秀忠様が行ったことになる」
秀忠が二条城を改修することになり、基本設計案を2つ提出して、なぜ案が2つもあるのかと問われた際に述べた言葉です。
案が1つしかないと、秀忠がそれに賛成した場合、自分が決めたものに賛同してもらった形になる。しかし案が2つあれば、秀忠が選んで決定したことになる、とのこと。
あくまで決定権は主君にあるという、何回も使える人物を変えた高虎なりの処世術なのかもしれません。
「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし。」
これは、高虎が築城した伊勢の津城跡に残されている銅像に記されている言葉です。今日が死ぬ日かもしれないという覚悟を毎日持って生きるべきだという意味で、彼はこの言葉を座右の銘にしていました。
高虎を主人公にした歴史小説『虎の城』。彼の義を重んじ、誠実に生きた姿が浮かび上がります。
浪人生活を送っていた高虎は、豊臣秀長と運命的に出会い、その後秀吉、家康へと仕えます。家康は人をなかなか信じることができない人物だったといいますが、主を次々に変えていったにも関わらず、なぜ彼はそれほどまでに気に入られたのでしょうか。
そこに高虎の、ただ単に世渡り上手なだけではないもうひとつの顔がありました。
作者は『天地人』がNHK大河ドラマの原作にもなった火坂雅志です。
- 著者
- 火坂 雅志
- 出版日
- 2007-09-01
高虎の生き方を決定づけたのは、豊臣秀吉の弟である秀長との出会いだったようです。武力だけでなく、築城の方法や職人たちとの関わり方などを学び、大きな財産としていきました。彼が築城の名人となったのは、秀長のおかげといっても過言ではないでしょう。
関ヶ原の戦いからは家康についていくことになりますが、本書をとおして分かることは、義を重んじる彼の強さが家康の心を惹きつけたということ。人を見極める目を持ち、人を信じる心が大切だと秀忠にも説いたそうで、家康と秀忠どちからも重用されました。彼は決して人を裏切るような人物ではなかったのです。
また本書からは、戦乱を勝ち抜くためにはどのように生きればよいのかということも読み取ることができます。それは、現代の社会で生き残るにはどうすればよいのかということにも繋がるはずです。
タイトルにある「下天」というのは、人間界すなわち民衆の生活のこと。そこを安寧に保つことを、「下天を謀る(たばかる)」と言っています。
藤堂高虎が目指していた天下を謀ることができる人物こそ、彼が仕えた徳川家康でした。
上巻では豊臣秀長に仕え武力で戦っていた高虎が、下巻では家康に仕え参謀として知力で戦った高虎が描かれています。
- 著者
- 安部 龍太郎
- 出版日
- 2013-04-27
本書では、高虎が世渡り上手であることや裏切り者であるようなことは書かれていません。代わりに家康の参謀として大きな役割を果たしたことが読み取れることでしょう。
領民のために私利私欲をなくして励んだ高虎。アドバイザーとしての彼がいなければ、平和な徳川の時代は続かなかったはずで、家康と固い絆で結ばれていたことがはっきりとわかります。
築城技術をはじめとして、人の使い方や領国経営にも長けていた高虎。秀長から引き継いだ、天下を泰平に治めたいという志を持ち続けた人生でした。その後家康に仕えたのも、秀長の求めた世界を実現できるのは、秀吉ではなく家康だと思ったからなのです。
築城の方法について書かれているのも興味深いところ。新しい発見があるはずです。
本書を読めば、これまで高虎にマイナスのイメージを持っていた方も、考えが一新されるはずです。若い頃は主君を変えざるをえなかったこと、自分が信じた人には忠義を尽くしたことなどがはっきりとわかります。
努力が報われて出世していったともいえるでしょう。最後には徳川3代に認められる人物となったのです。
- 著者
- 徳永 真一郎
- 出版日
若いころから武力に長けていた高虎。15歳の時に参戦した「姉川の戦い」以来、名の知れた戦いにはほとんどすべて参加しているといっていいでしょう。しかも必ずと言っていいほど武勲を上げ、褒美を貰っています。
本書を読むと、それに加えて何でも学んでいこうという気構えがあったこともわかります。もともとは身分の低さゆえ学がなかったにも関わらず、あらゆることを見聞きしながら吸収していったのです。
すなわち、生きていくために努力を惜しまなかった男こそ、高虎なのです。
本書には、高虎は二番手であることを自ら選び取り、そこで自分のやりたいことをおこなっていったということが書かれています。戦国時代の武将として生まれたからには、誰しもが天下統一を狙いたいと思うかもしれません。
しかし、彼が生まれてきたのは少し遅すぎたのです。すでに秀吉、家康の時代が訪れようとしていました。
さらに高虎の才能は武術だけではなく、技術面を習得することにも長けていました。
そこで彼は、自分がトップに立って天下を治めるよりも、トップとなる者の下につくことで自分の目指す世の中を作っていこうとしたのです。
- 著者
- 童門 冬二
- 出版日
「人に仕える者は、自分の立てた功績は主君に差し上げ、失敗したときはその罪を自分が引き受けるというふうにしなければならない。何でも自分が前へしゃしゃり出て、功績をひけらかすようなことをすれば、主君との関係もぎくしゃくしたものとなり、世間の評判も決してよくはならない」(『二番手を生ききる哲学―信念の武将・藤堂高虎が身をもって示したもの』より引用)
この高虎の言葉に、二番手で生き続けるためのすべてが集結されているのではないでしょうか。彼がこのような意識を持つようになったのは、秀長に仕えた経験からでした。
秀長は秀吉の弟として、つまり優秀な二番手として、秀吉を助け盛り立てていたのです。その姿から多くを学び、高虎もまた家康や秀忠を助ける人となっていきます。
また本書からは、ただ助けるだけではなく、築城技術を活かして世の中を平和にしようとしたことなどが読み取れるでしょう。
二番手でどのように生きていくか、二番手であり続けるにはどうすればよいのかということは、現代のビジネスマンにも役立つ話です。上に立つ者を尊重し、下に付く者を育てるという難しい立場の二番手であり続けた人物から学ぶことはたくさんありそうです。
藤堂高虎は誠実で努力家、義を重んじたということがわかってきているようです。悪い印象を持っていた人には、驚きの高虎の実像だったかもしれませんね。